仕事は合目的的な行為である
どんな仕事にも目的がある。
ただ、目的は常に明確にされているわけではなく。
無自覚であることも多い。

金儲けも目的にはなるが、お金は手段だから、二義的な目的にしかならない。
金を儲けて何に使うか。生活費として使うなら、生活に必要なものを手に入れるのが目的になる。

生きるためというのも立派な目的である。
ただ、目的を明確にできるかというと、それが簡単ではない。

自分の求めている事を言葉に出し、そして、それを行動に現わす事で、目的は明らかになる。

目的というのは求めている結果なり状態である。
野球をするのは、自分たちが試合に勝つことや甲子園に行くことを求めているのなら、試合に勝つことや甲子園に行くことが目的である。

目的とよく似た概念に目標がある。
目標は目指す位置、場所、標的。
つまり、指標で、主として、数値や場所でされる。

いわば、目的が名で、目標が実を表す。
故に、目的と目標は併記されることが多い。

目的を明らかにする目的というのは、結構はっきりしていて、それは実務上、あるいは組織的に仕事をする上で必要なことで。
つまり、目的や方針を明確に示すのは、大勢の人間が協力して一つの事を成し遂げる為で。
そうなると、目的を明確にしたとき、何が思い浮かぶか、それが具体的な作業に結びつかなかったら目的や方針を明らかにした意義がない。
目的や方針を明らかにしたら、次に具体的に、何をしたらいいか。
要は、目的や方針は頭にある言葉を行動に結びつける役割があるので。

なぜ、目的をハッキリさせ、皆に伝える必要があるかわかっている。
それはね。
皆で一緒に仕事をするため。
一緒に働くため。
一緒に生きる為さ。
だとしたら、自分ひとり理解しても意味ないさ。
目的の意味がわかったら、行動を起こすだろ。
その行動を見れば、目的を理解しているかどうかわかるよ。
何も行動を起こしなければ間違いなく、目的を理解していない。

一緒に仕事をするために目的を明らかにするのだから。
目的は、誰にでも、わかって、納得することでなければならない。
目的の意味がわからない人は、誰でもわかること、納得させられることだと言って馬鹿にする。
でも、それを行動に移そうとしたとき、難しさに気がつく。

組織的に仕事をするためには、最初に目的を一致させる必要がある。
ここでいう目的というのは全体の目的を言う。
そうしないと同じ結果を出すために共同して作業をすることができないからである。
一人でも、「負けたっていいや」とか、「勝ったて負けたって俺は関係ない」と思ている者がいたらチームは組めない。

仕事も、「失敗してもいいや」「会社がどうなっても、俺には関係ない。」と考える者がいたら、会社は危うくなる。

だから、会社の経営者も組合も目的は同じでなければならない。視点、立ち位置が違うだけである。
会社を潰すことを目的としている者がいたら、それは、経営者の資格も、社員の資格もない。

全体の目的というのは、全員が理解でき納得できる事でなくてはならない。
だから、至極、当たり前な事でなければ役に立たないのだけれど。
至極当たり前で分かりやすい事は、誰も大切なことだと気がつかない。
そこに、目的の難しさがある。
簡単だから難しい。

よく、目的や情報を共有しましょうなんて言うけど。
共有ってどういう事、どうすれば共有できるのか。
何でもかんでも共有というけど、なぜ、どうやれば共有できるかがわからなければ虚しいではないか。

共有する事が必要なのは、共同して仕事をしているから。
つまり、チームワークは目的や、情報を共有してないと、まとまりをなくすから。
てんでんバラバラに仕事をやっていたら、いつまでたっても終わらないし、まとまらない。
仕事というのは基本的に共同して一つの事を成し遂げる事。事を成すこと。
その為には、全員が一つの目的や情報を共有する必要がある。

目的をどの範囲まで共有すべきかは思想の問題である。
独裁的、全体主義的体制では、目的は限られた特権階級だけが理解してればいいという思想だし。
民主主義は基本、全員に理解させて起こべきだという思想。オープンな思想なのである。
これは思想。

では、どうするれば、目的や情報を共有できるか。それは、プロセスにある。
組織的に仕事をするというのは、メンバー全員の働きをより集めて、一つの事を成し遂げる事で。
全体をどうまとめるかというと、一つの過程を共有する事で一人ひとりの行動、働きを統一し、全体をまとめる。

目的をどのように、共有するか。
トップから出た話しなら、担当を決めてトップの話を担当に伝え、それを、担当に文書にさせ、上申させる、このような手順を踏むことで、トップ、責任者、担当間で話を共有させる。
この様に、話を整理させ文書にしたり、説明させる、或いは報告させる。
又は、ミィティング、ヒアリング、説明会、イベント、ワークショップなどの作業、行為に置き換え、チームワークにする事で、同じ過程、作業、経験をする事を通じて共有するのである。

チームワークと一人仕事は、根本からして姿勢が違う。
チームワークは、最初から、話し合いから始まるのに対して。
一人仕事は、最初から、他の人を当てにしていない。

チームワークは、話を聞く。聞いた話を報告する。自分の考えを話す。事情を説明する。状況を、伝える。相談する。連絡する。事情は伝える。結果を伝える。指示する。集める。分担すると言った仕事が主となるが一人仕事にはこれらの仕事はないかあっても従である。

社員旅行の目的や意義は、過程にあり、経験にある。
それを理解しないと、社員旅行の計画は立てられない。
社員旅行の計画を旅行会社に丸投げにしたり、独り善がりな計画を立てても目的は達成できない。。
社員旅行の目的を担当だけが理解していても意味がない。
なぜなら、過程や経験を分かち合う事に意義があるからである。

故に、日程、工程が重要なので。
ただ行けばいいというわけではない。
なぜ其処に行くのか、それを皆で考えるから意味がある。

社員旅行の目的は、その過程や経験にある。
だから、結果と言っても明確にできるとは限らない。
それで、感謝とか、親睦という表現になるのだけど。
これが難しい。
感謝とか、親睦と言っても。
まだ感謝なら、何に対してどう感謝するかを考えれば、糸口がつかまれる。
親睦というのは都合のいい言葉だけれど、実際は結構厄介な言葉なので。

目的は、一つとは限らない。
全体の目的もあれば、個人の目的もある。部分の目的もある。
同じ目的と言っても、役割や立場が変われば、解釈の仕方も違ってくる

同じ目的だから、同じことをすればいいという訳ではない。

それぞれが、どう受け止め、どの様に解釈したかを確認する必要がある。

目的を全員が理解してから仕事に着手すると言っても、なかなか難しい。
先ず、中心になる部分、頭となる部分から目的や考えを一致させておき、徐々に、段階的に浸透させていく。

一つひとつの作業にも目的があるし、打ち合わせや会議に目的がある。
全体を構成する要素や部分、一つひとつに目的がある。
つまり、部分や要素の数だけ目的がると思っていい。
このような目的群の整合性や統一性を守る必要がある。
それが全体の目的であり、方針である。

野球で言えば、投手と野手の目的は違うし、打者の目的も違う。
それを取りまとめているのがチーム全体の目的であり、方針である。
故に、常に個々の部分の目的と全体の目的を照合し、方針、方向性を一致させる必要がある。

同じことを言われたとしても、人それぞれ、受取り方も、解釈の仕方も違う。

最初から全体の目的を完全に一致させるのは難しい。

それに、はじめから、目的が明確に意識されているとは限らない。
問題は、そこなのだ、目的を一致させ共有させると言っても、最初から明確に言葉で示せるとは限らない。

だから、最初は共鳴共感から、始めるのだ。
最初はなんだかよくわからないけど、でもこの人の言っている事には共感できる。
そしてそれを言葉に出し、一緒の行動しているうちに徐々に鮮明になって来る。
目的とはそういう事。

仕事には目的がある。
そして、それは生きる目的のも結びつく。
でもいきなり生きる目的と言われても。
仕事をしているうちに、仕事の目的が、徐々に明らかになっていく。
そしてその過程で生きる目的にも結び付いていく。

ああ、これが私の生きる目的なんだと、そしてそれが徐々に確信の代わり、使命感や生き甲斐に昇華していく。
その典型が子育てである。
そうは言いても、全体の目的と自分の目的を常に一致させることは難しい。
目的は現実によって実証される。相対的のなのである条件によって施策は変化する。

自分の目的と全体の目的が一致していると思える時は迷いがない。

この様に、目的を最初から言葉で明確にする事は難しい。
最初、目的は、包括的で抽象的な事にならざるをえない。

だからと言って、目的なんて適当でいいんだと簡単に考えない事。

全体の仕事の目的と自分が仕事をする目的がズレてくることがある。

そうなると、目的がはっきりするまでの間、目的に変わる指針が必要となる。
その指針が方針である。
全体の目的を一致させるのでなく、進むべき方向を一致させることで全体のベクトルを合わせるのである。
方針に従って行動する事で目的を深化させ、顕在化していく。
それで、方針を決めるのである。方向性だけでも一致させる。

進みべき方向を指し示す指針
が方針である。

全体の目的と部分、個人の目的を統一しようとする働きによって全体と部分、個人を矯正、修正、制御する。

国を守るという目的は、一致しても、それを具体的な施策に置き換えようとすると、考え方の相違があからさまになる。
国を守るために戦うべきだとする人も入れは、、戦ってはいけないという人もいる。
しかし、国を守るという目的は同じ。
一番困るのは、国を守るという目的を持たない人。

会社経営にしても、会社を守るという目的は、同じでも。
財務、営業、仕入れでは目的が違ってくる。
営業は少しでも、安くてもいいから多く売ることを考える.
その場合、価格を安くして売る事を考えがちだが、財務は、利益を重視する。

つまり同じ目的でも、立場や考え方が違うととるべき施策も違ってくる。

自分の思い、意志行動や現実とを照らし合わせながら全体と自分の進むべき方向を間断なく修正し続ける。それが、目的や方針の役割である。

目的は、思いを行動に表す時、実体が顕われる。
目的は現実である。

目的は一度決めればいいという訳ではない。
常に状況と照らし合わせ、進捗状況、実績と比較して軌道を修正する必要がある。
それ予実績管理である。

目的意識は、問題意識の源になる

目的意識は、問題意識。
目的は答えではなく、問題。
目的や方針を考える事で、やる事、作業を洗い出す。
共通の問題を共有することで全体の作業の整合性、統一性を保つ。
だから、目的や方針は最初に決める。
目的は、作業の源泉。
どういうことかというと、優勝する事を目的としたら。
優勝するためには何をしたらいいか。
優勝するためには、どんな練習をしたらいいか。
優勝する為には、どんな仲間を集めたらいいかという具合。
感謝を目的としたら。
誰に感謝するのか。
感謝するとはどんな事かとか。
いつ、どんなふうに感謝するのかとか。

目的を顔合わせとするから、顔合わせのための作業が洗い出せるので。
打ち合わせの目的を場所を決める事にするから、場所を決めるための作業が洗い出せる。

目的をハッキリさせる事ではじめて作業の洗い出しが可能となる。

目的地がハッキリすれば、車で行くか、電車で行くか決まる。
車で行くとなれば、車を手配しなければならなくなる。
電車ならば切符を買いに行かなければならない。
切符を買いに行くなら、目的地と人数などを明確にする必要なる。
こうやって細部や詳細が明らかになっていく。

目的が決まる事で細部が見えてくる。

実際のところ実務の鍵を握っているのは、作業の洗い出しである。
作業を洗い出す前までは、誰でもいける、しかし、作業を洗い出す段になると、(作業を洗い出そうとするると)とたんに思考停止に陥る
やるべき事、作業が思い浮かばないのである。
しかし、作業、つまり、やる事がわからないと、仕事に取り掛かれない。
そこで仕事は中断してしまう。

システム化される前は作業が見えていたが、システム化されると、システム化された後は、システム化された部分がブラックボックス化され、作業の組み立て、手順が見えにくくなった。

目的志向は、問題志向。

食事がしたいのか、お茶したいのか。
食事をすると、目的が定まったら、次に、何を食べてい野化を明らかにする必要がある。
何を食べたいのか分からないと調理はできない。
つまり、何が食べたいのかがわからないと作業はわからない。
何をするか、つまり作業が明らかになって、はじめて、仕事に着手できる。

だから、結論や指示が出て要件、仕様が示されたら、どうするって、やることを洗い出す。

命令がなぜ訓令と号令に分かれているのか。
それは、訓示と号令の間に一仕事あるからである。
訓示とは、指示の意図を意味する。号令は、実際の作業指示、指図である。
その間にあるのは、実際になにをやるのか。つまり、作業の洗い出しである。
作業を漏れなく抜けなく、重複なくすべて洗い出し、それをやる順、分担を決めて組み立てていく。

これが最大の関門なのだけど、みんな、この前で立ち止まるか、引き返してしまう。
さあどうしようと言った途端、固まるか、切れて怒りだす。

訓示して意図を伝え。日限を切って、それまでにやる事、作業を洗い出し、分担を決めて、指図、作業指示(号令)する。

作業の洗い出しは簡単ではない。手順がある。

ある程度経験がないと仕切れない。

注意すべきなのは、どんな小さな打ち合わせでも、誰が責任者か、仕切っているのか決定権があるのかを明確にする。
ここで言う決定権というのは、この場の決定権、次いつするかとか、それまでに何をするか、どこで、打ち合わせを終了するかといった事。
つまり、この場での決められる事の決定権を言う。

仕事には、相手がいる。
やり取りの中で決めていく。
一方的な行為ではない。

頭を抑えないと、尻に合わせることになる。

打ち合わせする事は決まった。
さあどうする。そこで思考が停止する。
思考が停止したまま時間が過ぎていく。
何もしなければ打ち合わせはできない。それはわかっている。
つまり、打ち合わせをする事が決まってから、打ち合わせをするまでの作業がわからない、読めないのである。

だから、作業の洗い出しが鍵だというので、その段取りを覚えないと、結果を出すどころか仕事すら始められない。

会場まで車で行くのか、電車で行くのか。
車で行くなら、車の手配をしなければならないし、
電車で行くなら切符の手配をさせなければ。

目的は、決めれば終わりなのではなくて。
決めてからが始まり。
目的を達成するためにどうしたらいいかを考える。
道に迷ったら目的を考える。

それで、仕事ができると思うか。
仕事になるか。作業に着手できるか。
相手が仕事ができると思うか。
いつまでにどうしたらいいんだ。
報告書にすればいいのか。
日程表をつくればいいのか。
作業リストにするのか。工程表が欲しいのか。
納品すればいいのか。
どっちなんだと追い込まれた。
形にしろ。
見えるようにしなければわからないよ。

詰めが甘いと仕事にならない、雑になる。妥協するなと。
逃げるな。苦しいのはわかるが逃たら先がなくなろぞ。

自分達がやる事だから、できる事を考えればいいので、最初からできない事を考える必要はない。

できる範囲でやるというのが原則だから、作業の洗い出しは、基本的に難しい事を考えることはない。
要するに自分ができることを考えればいいのだから。

作業というのは、動作、行為をいう。
つまり、持つ、運ぶ、書く、運転する、積む、歩く、掘る、走る、買う、スイッチを入れるといった。
そこまで詰めないと仕事にならない。

だから、目的は、決めれば終わりなのではなくて。
決めてからが始まり。
目的を達成するためにどうしたらいいかを考える。
だから、道に迷ったら目的を考える。

仕事ができないのも、働けないのも目的意識が持てないからで。
ダイエットも目的を間違うと拒食症などの病気を発症させてしまう。

採用の目的は、欠員補充なのか。
それともこれから一緒に仕事をし、運命を共にする仲間を作る為なのか。
目的によって仕事に対する姿勢も、取り組み方も違ってくる。

会社や社長の考えや方針、問題意識を自分のものにし、次は、自分のものとした考えを他のメンバーにいかに浸透させるか。
ただ、言葉で伝えるだけで理解できるか。
そこに一工夫必要だし、そういう、活動や行動を通して、自分たちの理解度も深めていく。
その過程で自分たちの目的も明らかになってくる。
会社や社長の考えが全体に浸透した時、心を一つにできる。
キックオフや確認会議などのイベントの目的もそこにある。

ある程度、目的が明らかにできたら、次に方針を決める。
方針が明確にされたら次は、どのラインを使うかを明らかにする。

たとえば、キャンペーンにしても、器具メーカーの政策に乗るなら、仕入れのラインが主となるだろうし。
内部事情なら、営業が、トップ主導なら、経営企画がというように、主となるラインは、相対的に決まる。
だから最初から決めつけてはならない。
また、出だしは、仕入れのラインが主でも、基本計画段階では、センターのラインに主軸は移り、実施段階では現場に移行していく。
各々の段階ごとにどこの線が主導権を握っているかを確認する必要がある。

教育でいえば、財務とか保安と言った専門性が高い事の教育はそれぞれの専門職のラインが、新人教育、支店長教育と言った普遍性が高い教育はセンターが、システム開発などの業務色が強い教育は、主管部署のラインが主となる。

主軸は、常に一定しているわけではない、局面や段階によって主軸が変わる事もある。

主となるラインが明らかになったら、次に筋を通す。
たとえば、どこが起案者となって手続きをとるかだ。
起案、決済、承認の筋に沿って、以後、仕事の段取りが決められていくからである。
つまりどこが主導権を握って仕事を進めるかの筋を実務的につけるのである。

子供の誕生日をお祝いして、子供に自分たちの思いを伝えたい。それじゃ、誕生日パーティーを開こうとか、プレゼントをしようとか、遊園地に連れて行こうといった現実のイベントに結びつけることができる。

目的は、思うだけでは意味がない。
何らかの行為、行動の移した時、意味を持つ。

つまり、目的の意味は言葉と行動、双方から検証する事が求められる。
言行一致である。

まず、目的を口に出す。

そこに、目的を明らかにする意義がある。
誕生日を祝いたいと思っただけでは伝わらない。
じゃあ、どういう行動に移すか。
思いを行動に移そう時、目的を明らかにしようという動機が生じる。

この点を理解しないと、なぜ目的が大切なのかも理解できない。

欲望には目的はない。思いがないからである。

目的の意味を理解した上で目的を定めるのと、理解しないで目的を定めるのとでは、たとえ、同じ結論、例えば、親睦という言葉でもそのはたき、重みに雲泥の差が生じる。
目的の意味を理解しているから、目的を他の人にも伝えようとする
ので。
理解していない人は、唯、目的を決めれば終わりだと思っている。
目的は決めた後が大切なのだ。

誕生日だから祝うのでもなく。
創立から七十年たったからイベントをするわけでもなく。
イベントは、金儲けの為でもない。
去年もやったから、社員旅行をするのでもないし。
みんなが行くから、あるいは、親のために、大学に行くのでもない。

自分の思いがあるから。自分の意志で。
自分の思いや意志を、行動の現わそうとした時、その思いや意志から目的は生まれる。

仕事ができない人は、仕事ができないので。
仕事ができない人は、仕事が教えられない。
仕事ができない人から仕事は学べない。
仕事ができない人から仕事を学べば仕事ができなくなる。

仕事のできない人は、総じて目的がない。

実務家は作業で会話できるようにならないと仕事ができない。

作業は、担当に読ませる。

作業には、定型的で色ない一連の作業と、特定の目的があって不定形な作業かわある。

色のない定型的な一連の作業は、仕事の基礎、土台、インフラストレーションを構成する部分で、事務方が担当する。
つまり、仕事のベースを構築するので、すべての作業に変更する。
故に、組織を編成する際、真っ先に決める必要がある。

事務的な作業には、集めて、伝える、決める、命令して、進捗を管理し、結果を集計し、報告し、保存(記録)する。
まず、伝える。
会議の結果や指示されたら、まず、関係者に伝えなければならない。
伝えるための作業を洗い出さなければならない。
まず、誰に伝えるかを選ぶ。
伝える相手が特定できたら、いつ、どこで、どのような目的で、どのように、何を伝えるかを決める。必要なら、この段階で事務などをまじえて打ち合わせをする。
どのように伝えるか。基本は集めて伝える。
つまり、集めるという作業が突端に来る。
集める為に必要な要件を確定する必要がある。そのために事前に事務方を指名し、予備的な打ち合わせをする。
集める為に必要な要件とは、日時、場所、目的、出席者、用意する物、事。
要件が決まったら次に、出席者に伝える。
自分の直属の部下の場合は、直接、要件を調整し、指示することができるが、部門をまたがる場合は、相手の部門責任者の了解を得る必要がある。

集める目的は?
顔合わせなのか、何かを決めるのか、仕事分担なのか、状況確認なのか。相談なのか。
集めるにしても、今は、通信技術が発達した今日では、単に集めればいいというのではなく、リモートある。だから、やり方を決めなければならない。
また、いきなり、全社員を集めるのか、部門の責任者を集まるのか、部門の担当を集めるのか、部門の代表を集めるのか、
幹部を集めるのか、関係者を集めるのか、事務を集めるのか、スタッフを集めるのか。部下を集めるのか。
誰を集めるのかと言ってもこれくらいは考えられる。

次の打ち合わせで、方針を決めると目的を定める。

じゃあ誰と方針を決めたらいいか。
どうやって方針を決めるか。
打ち合わせまでに何をしたらいいのか。
方針を決める為に何を調べておけばいいのか。どんな資料が必要か。
資料は事前に配布したほうがいいのか。

次の会議で指示を伝えると目的を決めたら。
誰に指示を伝えるのか。
どの様に指示を伝えるのか。
誰から、指示を伝えるのか。
指示を伝える為に何が必要なのか。
用意する資料は何か。
事前に済ませておく手続きは何かという具体的な事が詰められる。

こう考えるといかに目的を持たない、或いは、ハッキリしない仕事が悪質かがわかる。
逆に言うと、目的をハッキリできないリーダー、確認できない事務方が悪質かもわかる。
何も決められないし、何もできなくなるからである。

だから、目的は、決めるれば終わりなのではなくて。
決めてからが始まり。
目的を達成するためにどうしたらいいかを考える。
だから、道に迷ったら目的を考える。

目的をハッキリさせる事ではじめて作業の洗い出しが可能となる。

なぜ仕事ができないのか、自分の仕事の目的がわからないで、わかろうともさない。
目的がわからなければ優先順位もわからないし。
仕事も管理できない。
仕事も組み立てられないし。
どこから着手していいかわからないし、結果も出せない。
だから仕事ができない。

自分が、仕事ができない事を知られたくもなく。
口が裂けてもわからないとは言えない。特に、自分の後輩や部下、年下の人には。
だから、空威張りをして、誤魔化そうとする。
できもしないのに安請け合いをし、知ったかぶりをする。
仕事ができないから、追い詰められると癇癪を起して逃げようとする。

仕事ができないのだから、後輩や部下を指導なんてできない。

上司や先輩、同僚が仕事ができないとして、それを理由にして努力を怠れば、早晩、自分も祖ごとのできな人の仲間に入る。

その行き着く先は、仕事をしないおじさんで。
仕事をしないおじさんの実体は、仕事のできないからで。
ある一定の年齢を過ぎて、自分が仕事ができない事に気がついても、すでに手遅れで。

二十代、三十代は、とても大切な時代で、その時、仕事の基本を身に着けないと後がなくなる。
なぜなら、成長のピークが三十代半ばだからである。

二十代、三十代の時に何を、誰から学ぶのか。

これは冷酷な現実で。
今の日本の本当の病巣なんだろうけど。
要は、仕事のできる人がいなくなって、仕事を教えられる人がいなくなった。
なぜ、仕事のできる人がいなくなったのか、その原因はいろいろ考えられるけど、そんなこと言っていたら、仕事のできる人が本当にいなくなる。
だから、自分から、仕事のできる人を見つけ出して学ぶか。
それとも自分の力で仕事のやり方を学び取っていくか二者択一でしかない。

いずれにしても、自分なので。
仕事が学べなくて、仕事ができなくなるのは、自分が、自分の仕事に向き合っていないから。

自分がはたらく目的を考えようともしなくなる。
その時生きる目的も見失う。

大学を卒業しても、自分が何をしていいのか、どんな仕事をしたいのかがわからないのは、自分の人生と向き合ってこなかったから。

生きている限り、手遅れという事はないけれど。
年をとればとるほど、かなり厄介なことに。
ありていに言えば手遅れになる。

若い頃に仕事の基本を身に着けることだよ。
早ければ早いほどいい。

例えば、七十周年記念イベントの目的だけど。

社長から、目的や意義をリーダーや事務方は、聞くさ。
社長から聞いた、目的や意義をリーダーと事務方は、招待客担当や企画責任者に伝える。
招待客担当は、招待客に主旨目的を説明しなければならないし、企画責任者は、一緒に、企画する人間に目的を伝えなければならない。
ただ言葉だけでなく。
一緒に仕事ができるように伝える。
伝えようとすると、社長の真意、目的を考えるようになる。

そうやって最後は、全社員に、七十周年記念イベントやる目的や意義を理解し、自分のものにさせる。
全社員が一緒に仕事ができるようにする。

ただやればいいというのでは、誰も目的を理解していない事になる。
そう誰もが思い始めた時、仕事から魂が抜けていく。
組織から命が消えていくのである。心がなくなる。
それが今の日本人の病巣なのかもしれない。
死に至る。

目的をただ聞くだけでなく。
自分のものにしろとよく叱られたよ。
自分のものしたら、僕のところへ来て、創業の頃の話を聞かせてくださいと、自分から聞きに来るさ。
他人に指図されてとか、言われてではなく。
それは、なぜ、どんな目的で自分はツバメで働いているのか。
なぜ、どんな目的で、プロパンガスを売るのかにもつながる。
考えるさ、答えは出せないかもしれない。
でも、考えることに意義がある。
面倒くさい、ウザいなんて言っていたら。
そして、知ったかぶり、わかったつもりでなにもしなければ、働かないおじさん予備軍になる。

鬱陶しい、面倒くさい、うざい、そう思うと聞く事もしようとしなくなる。
何が、怖いかと言えば、鬱陶しい人、面倒くさい人、ウザイと言って、相手の性にしてなのも考えなくなる事。
思考停止に陥る事。
何も考えなくなる。考えなしに仕事をしようとする。

目的が理解できれば、自分から自分が知りたいことを調べようとしたり、聞きたいことを聞こうとするようになる。
それが、目的を自分のものにするという事。

目的は、何か、知ったかぶりして、わかったつもりになって。

販売店会だって。
それで美味しもの出して、温泉でも入ってもらって、適当に観光してもらい、次の日のゴルフでも。
それを企画だなんて思ったら、魂も心も籠らない。
魂のない企画は、屍に過ぎない。
ただ朽ち果てていく。

僕ら、サラーリマンなんですよと言ったおじさんがいたけど。
サラリーマンだからこそ、目的を見失った、働けなくなる。
俺は、何の目的で働いているのかも考えなくなったら。
歳をとったんですと言ってもいい訳にならない。
大体誰に対するいい訳です。自分に言い訳しているだけです。

半年かけて七十周年企画を立てる。
最終的には、全社員、一緒に仕事をするために。

ここで重要なのは、全員の働きをより集めるという事。
つまり、全員が働かないと仕事は成せないという事。
一人ひとりの働きを引き出さない事には組織は成り立たない。
指示しただけでは、一人ひとりの働きを引き出したことにはならない。
指示されたことを、指示された者が実行しないと、指示は効力発揮したことにならない。
指示された者が実行しなかったり、指示された事と違ったことをしたら指示そのものが無意味になる。

指示しても、実行に移されなければ意味がない。
実施されたか否かを確認しなければ、指示に出しっぱなしと叱られた。

「はい」と言って、何もしないのが一番質が悪い。

指示された事と実際にやったことを検証しなければ、指示が正確に伝わったかどうかは分かりようがない。
それが管理。

入力だけでは、駄目で、出力があって、はじめて、組織は敵な仕事は成り立つという事。
たとえば、指示は、指示をされただけでは成り立たず、指示された事を行動に移すことで、成り立つと行く事。
ハッキリ言えば指示されたもやらなければ、指示したこと、指示された事にならない。

組織の働きは双方向で、常に、指示する者と指示された者の両者があって成り立つ。
逆に言えば、指示しただけでは、まだ、半分でしかなく。指示されたことをどのように実行したかを確認しないと、指示した事にはならない。

よく、社長の話を聞きなさいと言われる。その場合、ただ、社長の話を聞けばいいというのではない。
社長の話を聞いて、それを自分のものにして、それを行動、行為に表す。
その行動を社長に確認して、理解度を進化させ、さらに自分の内部に取り込んでいく。
その過程が重要なので。

聞いただけではダメ。
聴いたことを自分のものにして外に発信する。
聴いたことと発信したことを比較し、軌道修正をしていく。

話を一度聞いて理解したと錯覚し、理解したふりをして、自分勝手に仕事をしたら、はじめから、社長の真意から外れていく。
ではどのようにして、聞いたこと(入力)したことを出力するのか。そこに報告の意義と目的がある。
自分の聞いたことを社長当人、上司、同僚、部下、関係者に報告(出力)することで理解度を高め、自分のものにしていく。

多くの場合この過程が欠けているか、不十分なのである。
指示されたことを他の人に指示する。
あるいは聞いた事、見てきたことを報告する。そうすると自分の実力はあからさまになる。
そして元と結果の差を引き比べて絶えず軌道修正をする。

何が間違いの素かというと、入力した事を自分の内に貯めて出力しない事で、何もわからなくなる、決められなくなるので。
要は、理解するためのプロセスが欠けているので。
何回、話し合ったか、何度報告したかが重要となる。報告は相手を変えて繰り返すことが効果的である。
そう指導された。一回聞いたくらいで分かったと思う方が間違っているとも。
また、内容でなく、プロセスだから修正の仕様がある。
聞いてわからない事は、何度、同じ相手から聞いてもわからないものだ。
何度きってもわからなければ聞く相手を変えろと教えられた。
実務は暗記ではない。

人は皆違うという事が前提となる。
適材適所。

実務屋としてよく躾けられたのは、個人の性格や能力を問題にしても容易には変えられないし、下手をすると個人攻撃になる。誹謗中傷、感情論が先行したら収拾がつかなくなる。
その場合、仕事の段取りや役割といった仕組みや手順と言ったプロセスを変えて見ろ。見直してみろ。
その為には常に追跡可能性を担保しろ。
アメリカの会計基準が追跡可能性を重視し、科学が実証性を重視するのは、指摘しても改善しようのない事を追求しても意味がないという思想に基づいている。
個人攻撃になるだけで時間の無駄。
それよりプロセスと仕組みをチェックしろと。

わからない事、できない事、間違いに気がついいたら、どうしようと考えるべきで。
わからない事やできない事、間違ったことをいつまでも気に病んでも、何の解決にもならない。
落ち込むのが関の山で。
わからないから、できないから、間違ったから、どうなのという事なので。

キックオフをやるというのは分かった。
社長の話を聞いた。
それどうする。

今の段階は、社長の話を聞いたというだけで。
客観的に条件を挙げてみる。
社長の話を誰と聞いたのか。
聞いてどうしたのか。

みんなはどう思っているの。
自分の考えを理解していると思う。
どうしたらわかる、確認が取れる。
みんなに聞いてみた。
聞いて、わかった。何が。

たとえば、みんなの受け止め方がテンデンバラバラだとか。
逆に、同じだとか。

いきなり、基本計画に、一人で着手するわけにいかないよね。
先ず、オーナーの考えを理解しなければならないし。
理解するだけでなく、自分のものとし。さらに、主要メンバーと共有しなければならない。

どうする、どういう道筋をたどらなければならないのか。
一番最悪なのは、一人でわかったふりして一人で始めてしまう事。
そんなことしたらいつまでたってもチームワークができないし。
オーナーに確認もできなくなる。

泣いたって、喚いたって駄目。
とにかく行動に移さないと

生きる目的なんてね。簡単にはわからないですよ。
ただ、考えることを忘れたら。
「俺は何を目的に生きているんだ」と考える事。それが人間らしいことだ。
目的を見失って手段しか残らなくなる。
金儲けが目的化し。地位を得る事が目的となり。
権力や権威にしがみつき。
老醜を晒す事になる。
考える事を忘れたら、欲しか残らなくなる。
自分を律することもできなくなる。

なぜ、若者が、転職するかって。
それは、目的を失うか、見失うからだよ。

それを今の若い者はと言って若者の性にする。
一緒に目的を考えもせず。
自分が目的を見失かったからと言って。
歳をとるとね微妙に目的が変わる。
でも、それが、目的を失ういい訳にはならない。

生きる目的とは何か。
自分は七十年生きてきて。
自分は戦後生まれである。
戦争が終わって、八年目くらいに生まれた。
つまりは。戦後の日本の歴史そのものが自分の人生のようなもの。

まだ、自分が生まれた頃は、何もなくて。
今の様な、物質的に恵まれた世の中なんて、夢のようで。
物質的には恵まれていなかったが、みんなで助け合って。分かち合って生きてきた。

今は、あのころから比べて、何不自由なく暮らせる。
ただ、何か肝心な事を失ってしまった気がする。

今の様に、何不自由なく生活ができるようになるまで過程には、いろいろな事があった。
子供の頃は、とにかく生活の為に、がむしゃらになって働いている父や母の姿を見て育ってきた。
それから高度成長、それこそ、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵器。
電話だってあるうちが少なく。
それがカラーテレビに、エアコン、自動車も普及して。
今は、携帯も当たり前だし、インターネットに海外旅行。世界中のごちそうが街にあふれている。

でも若者たちの目から生気が失われてしまった。
どんなにおいしものを食べても、子供の頃に食べた、ラーメンの味ほどの感動は得られない。なぜだろう。

志とか、生きる目的とか、夢なんて言うと。
しらけるとか、うざいとか言われてしまい。

誰でも大学へ行けるようになったけど。
結局、なんのために大学に行くのか目的を見失ってしまっている若者ばかり。

働くことの意義とか目的なんて、聞くだけ野暮というもの。
大学に行ったら、勉強なんてしないで遊びさ、もう受験なんてないんだから。
遊んで人生経験を積むなんて教えてる人いるけど。
彼等は、成功している。
目的もなく大学へ行って、勉強もせず大学を卒業する。
大学を出たところで、どう生きていったらいいのかわからずに、仕事にもつかず、引きこもりのような。

なぜと聞いても、誰もわからない。解ろうともしない。
考えもしない。
考える力もなく。

そうなると、結局、金のために働いているんじゃないかと。
上手いもの食べて、好きなところに旅して、ゴルフして、遊んで暮らせばいい。
汗水たらして働くなんて貧乏人のする事。
楽して金儲けをする事ばかり考えて。
大学で勉強なんてするのは、馬鹿げてると。

だけど、七十年生きてきて、結局、金がすべてなんだよという結論には至りたくはない。
そんな生き方をしてきたわけではないと言いたいのだけど。
定年退職をしたら。

今の、若者たちの生きざまを見ていると。
そして、働かないおじさんなんて言われてしまったら。
あえて、生きる目的とか、働くことの意義を問いたくもなる。
我々は、もう一度原点に立ち返らないと。
金儲けは手段に過ぎないと。
金儲けを目的に生きてきたんではないと、言い切る為にね。
だから、年寄こそ、志が必要なのだ。

働かないおじいさんにはなりたくないから。

次の時代に、志を託すにしてもあまりに貧相な。
結局、我々は本当に豊かになったのだろうか。

まず、仕事の目的がわからないと、当たり前になにをやったらいいかわからない。
それから、ゴールがわからないと何をしたらいいかわからない。

問題は、答えではなくて、設問。

生きる目的とは、答えではなく、問題の核心。

生きる目的を幸せになる事としたら。どうしたら幸せになれるかを考える。
生きる目的を人のために役に立つ事とするなら。
何をしたら、役に立つかを考える。

目的を見失ったり、持てなくなると、人は、考えなくなる。

人生は、目的を持って、行動して、結果を出し、そして、また、目的に戻る。その繰り返しなのだ。

金儲けは、手段であって、目的にはならない。
なぜなら、金を儲けるだけでは、求める結果や、状態にはならないからである。
目的は、金を儲けて何に使うかにある。

目的は、達成した時、役割を終える。

大学に合格する事を目的としたら、大学に合格した瞬間、目的を失う。
大臣になることを目的とする者は、大臣になれば目的を失う。
目的を失うと得たものに執着するようになる。
得たものがすべてだからである。
生きる目的は、生きることに根ざしていなければならない。
なぜなら、生きる目的だから。

生きる目的は、例えば、正しく生きる事。
誠実に生きる事。
自分に正直に生きる事。
世のため、人のために生きる。
国を良くするために尽くす事。
平和にすることを目的に生きる。
真理を明らかにすることを目的にする。

生きる目的の為だから、自分を制いする事ができ、自分の限界にも挑むことができる。

生きる目的とは、生きる為に何をすべきかを問う事であり。
生きる為とは、生きた結果、自分が何を成し遂げられるかにある。
より良い結果を追い求めるから、目的は、見果てぬ夢になる。