病院の待合で考えた。

病院は、人生が交錯するところ。
どれ程、医学が発達しても、人は、生病老死の四苦から逃れられない。
むしろ、皮肉な事に、医学が発達すればするほど、病院は生病老死を凝縮する。
人は、病院で生まれ、病を癒し、老い、そして死んでいく。
病院で死なずに家で死んだらそれだけで事件になり、警察に調べられる。
勢い、病院は、人生の吹溜りになる。

だから、病院はテレビドラマのいい題材になる。
病院以外にテレビの舞台となるのは、法廷と警察である。
どちらも事件がある。

一か月前、私は、病室のベットの上でボーと天井を見ていた。
前日の夕方から、少し目がおかしなと感じていたが一時的だと。
その後、妻の運転する車に乗っていて車線が重なるように見え。
翌朝、起きると様子がおかしい。物が重なって見える。調べてみると複視という現象らしい。
街の眼医者に行くと、院長は、私の話を聞くと慌てた様子で、脳梗塞の恐れがあるから、すぐに、総合病院にタクシーで行けと言い。紹介状を書いてくれた。

タクシーで病院に乗りつけ、救急外来に行く。
救急外来で、必要な手続きを済ませたら、しばらく待合で待たされた。

そこで、自分の息子ぐらいの医師の診断を受ける事になる。
「担当の、古川です。」
診察室に通され、うながされて、椅子に座ると、若い誠実そうな医師が、私にそう名乗った。
患者としてみればこの辺が微妙なのである。

医者も大変である。
患者との信頼関係ができなければ、治療は成り立たない。
医師ほど人格と技術を問われる仕事はない。
人格という点で言えば年配の医者の方が分があるかもしれないが、技術という点では若い医師に分がありそうだ。
何せ、医療というのは傍で見るより体力がいる。
重労働である。
しかも、常に、死と隣り合わせで、気力が求められる。

医療程、医師の技能に左右される商売もあるまい。

医師は結果が総てである。
それでいて、自分の処置が絶対に正しいと言う確証は得られない。
しかも、自分の処置は、患者の命に直結している。
過酷な職業であることは、間違いない。

以前、「白い巨塔」という小説では、主人公の誤診がテーマになったが、実際のところ誤診など茶飯事。
医療は、常に、得体のしれない未知の病と戦ているのだから。
学校の試験の様に正解が一つしかなく、それも予め与えられているというのと違い。
答えはいくつもあって、予め正解が定まっているわけではない。

医者だって、何でもかんでも責任を負わされたらたまったもんではない。
病気が治癒しない責任の総てを医者の性とされても。
所詮、人は、皆、死ぬのである。
治癒しない、治癒できない、治療法のわからない病もある。
医療に事故はつきものなのである。
だから、入院する時は、やたらと同意書にサインが求められる。
サインをしなければ入院できないのだから仕方がない。
医療も人のやる事なのである。
医者も間違う。

病は処嫌わず。
人間のありとあらゆるところに、出現する。
綺麗も汚いもない。
当然、医療という仕事は、三K、汚い、危険、きつい仕事になる。

昔は、病を穢れだとする考え方があった。
穢れ、汚い、汚れ。
だから、医療は汚いものを扱っているという偏見がある。

看護師は、検便、検尿、血液検査と、人の嫌がる仕事をすすんで引き受ける。
看護という仕事は、金だけでは勤まるまい。

医療の分業が進化した結果、病院は、人間の体をいくつかのパーツに分解し、個々の分野を深化させる。
目は眼科、脳は、脳神経、内臓は、心臓、消化器、胃腸、更に、皮膚科、肛門科、性病科、産婦人科、血液とバラバラに発展してきた。
その結果、医療は、ますます、人を一人の人間として、まとまりとしてとらえる傾向を失っていく。
部分だけしか見えなくなる。
眼医者は眼医者。歯医者は、歯医者。脳外科医は、脳外科医。消化器は、消化器。
互いの関わりが薄れていく。

近年、医療の分業は進化し、狭く深く技能が要求されるようになった。
しかし、医療の現場では、総合力がものをいう。

分業が進めば専門化していく。
専門家が進めば縦割りになり、専門外の事には尻込みするようになる。

世に名医と言われる医者は少ないが、藪医者と言われ医者は数多いる。
ただ、患者に、名医か、藪医者かは見分けがつかない。
医師の技能を見抜くのは難しい。
挙句、世の中には医療の情報が氾濫している。

患者に人気があるからと言いて名医とは限らない。
患者に迎合していたら、まともな、治療はできない。

毎週のように、病院や医師が薦める薬はのむなという記事が週刊誌をにぎわす。
しかも、投薬の基準も猫の目のように変わる。
新薬も、日々増え、薬の種類も無数にあるうえ、飲み合わせがどうのこうのと。
しかも副作用も心配になる。

毒にも薬にもならないとよく聞くが。
薬は毒でもある。
劇薬というくらい、薬は毒でもあることを忘れてはならない。
乱用すれば有害である。
しかし、今の医療は薬に頼っている。依存している、薬漬けと言っていい。
それが医者にたいする不信感にもつながっている。

大体、薬についてもいろいろと錯覚がある。
第一に、この世に、万能薬なるものはない。
薬が直接病気に効くというのも思い込みである。
多くの薬は、熱を下げたり、血液をサラサラにすると言った間接的な作用で、直接効くと言うのは、病原菌が特定されている場合に限る。
また、誰にでも同じように効くわけではない。効く人もいれば、効かない人もいる。
だから、薬に頼りすぎると痛い目に合う。
専門家である医者の処方を信じるしかないが、処方は、医者によって全く違ている。
中には製薬会社と結託してるのではと思いたくなる医者もいる。

黙っていると、飲まなければならない薬も際限なく増え。
患者の選択肢は失われていく。
飲み方や飲む時間を間違うわけにいかない。
費用も馬鹿にならない。
こうなると、何を信じていいのか見当もつかなくなる。

医者というのは不思議な仕事で、患者を安心させようとして楽観的な事を言うと、病状が悪化すると恨まれる。下手をすると訴えられる。
反対に、厳しい診断をしておいて、少しでも改善すれば、感謝される。
最近は、インフォームドコンセントが義務付けられ、ありとあらゆる最悪な事を事前に説明する必要がある。結果的に、患者の不安を煽る事になる。
大丈夫ですと請け負う事も、よくなりますと確約する事もしにくい。

そうなるとますます、病人は、医者の正体がわからなくなる。
何を信じていいのか。
結局、最初に診てもらった医者を信じて自分の命を託すしかない。
医者は、若くても先生なのである。
だから、私は、医者と付き合うのが苦手だ。

救急に来たのは脳に異常がある危険性があるからで。
とりあえず、MRI検査した。
検査の結果、自分の頭を輪切りにされたものを見せられた。
どうも、妙な気分である。
自分を物質化され、見せつけられてるようで。
これが、お前の脳の断面だと言われても。
こうなると、自分の精神も、魂も、どこかに消し飛んで、自分の人生まで物質的現象でしか見えなくなる。生きるとはなんぞやなどという、高尚な事を言ってもはじまらない。

人は、自分の体すら思い通りにはできない。
体は上からの借り物にすぎない。死んだら神にお返ししなければならない。
体に貴賤はない。
頭や心臓だから尊く、肛門だから、性器だから、手足だから賤しいというわけではない。
貴賤をつけるのは人間である。
肉体と意識とは別である。
是非善悪真偽に新旧老若男女の別はない。

検査の結果、脳には異常が見られない事が判明する。
医者の診断は、動眼神経麻痺。
要は、左目を動かしている六つの筋肉の内、三つが麻痺していると言う事だ。
問題は、その原因である。
原因として考えられるのは、脳の障害と、糖尿、ウィルス等々。
要するに、複数あって、その中で怖いのは脳に関係してる場合。
精密検査をしてみないと確証はないが、どうも、脳には異常がないらしい。
ただ、複視の症状は治まらない。
治まらないどころか段々悪化してきた。
左目の瞼もだんだん重くなり、終いにはあかなくなってしまった。

動眼神経麻痺というのは、
麻痺してる左目が、斜視になり。
両眼が勝手に別々の世界を見ているようなものである。
しかも一定しておらず、絶え間なく揺れ動いている。
基本的には右目に合わせてくれるのだが、時々、左目が強くなたり、あるいは、折衷したりと安定していない。
人相も悪くなる。
結構厄介である。

目は。心の窓とか。
目は口ほどに物言うとか言われ。
確かに目が悪くなると、目の大切さが身に沁みる。
大切なものはなくして気がつくと言うけれど。
それまで、まともに見えていたことが、歪んで見えると言う事は、これほど違うのかと思い知らされる。
歳を取ると、目ばかりでなく。
歯も欠けてくる。
老いるとは、このように、体の大切な一部を失っていく事を意味する。
不思議なもので、若い頃は死を恐れなかったのに、歳を取ると命が惜しくなる。

医者は、取り敢えず、脳には問題はないと思うが、精密検査をしてみないとわからないと言い。
このまま帰るか、入院して精密検査を受けるかと決断を迫ってくる。
入院をしなければ、精密検査をするにしても時間がかかるという。
女房は、この際だから、精密検査を受けてと言う。
しょうがないので、入院して精密検査を受ける事にした。

その日は、母と女房を連れて伊豆の温泉に行く予定だったので、何かあい済まん気がしたが。
まあ旅行は病気さえ治ればと、諦めた。

入院後の精密検査の結果は、脳には異常がなかったのだが。
最初に病院に連れてこられた時は、そんな事わかりようがない。
家内などは、脳梗塞と聞いただけで泣きそうな顔をした。

私は、七十のこの年まで入院の経験がない。
それこそ、幼稚園に上がる前に一度入院をしたことがあるそうだが、そんな昔の事、覚えてはいない。
それがあれよあれよという間に病室に連れていかれそのまま入院する事になる。

コロナのお陰で、見舞い厳禁、外界からは完全に遮断され。
病室では、携帯も使えない。
電話をかける時は所定の場所に行くしかない。
病室にいるのは、患者と医者、そして、看護師だけである。
妙に静かで、入院中はやる事がない。
往生して静かに寝ているしかない。

病院はコロナの影響もあって閑散としている。

フロアは、いくつかのエリアに区分され、ドアによって仕切られている。
コロナが流行り出すと人の出入りは厳重に制限され、エリアを仕切るドアは、さしづめ、江戸時代の大木戸みたいな様相を呈している。
その大木戸の様なドアから先は患者以外入れない。
女房とは、そこで、お別れである。
それから退院までは面接もできない。
携帯で声を聴くだけである。

病室の前で、若い(マスクをしているので、本当の顔や年齢はわかりにくいのだけど、少なくとも、自分よりはずっと若いはず。)女性の看護師が。「担当の前田です」と言う。
それから、毎日、朝と晩、担当が変わる。
マスクの性もあって、顔がわからない。
ただ、誰もが、いやな顔一つせずにテキパキと仕事をこなしている。

四六時中、廊下を、走り回っている。
いくら呼び鈴を鳴らしても来ない、遅いと文句を言う患者もいるが、看護師は、精一杯頑張っていることは確かだ。
病人は、看護師の都合など構っていられない。
自分の事だけで頭がいっぱいである。

それでいて、感謝するどころか、悪口雑言、容赦ない。

看護師の仕事はつくづく大変だと思う。
特に若い看護師には、頭が下がる。
いくら酷い事を言ったとしても、病人にとって看護師は天使であり、慈母である。

病室は、四人部屋で、私に与えられたのは、一番入り口に近いところである。
四人部屋は、一つの病室をカーテンで四つに仕切ってある。
入り口の脇に洗面台がある。これは共用である。
出口に一番近いスペースが、私に与えられ空間である。
仕切によって、かろうじてプライバシーが守られている。
贅沢は言ってられない。
病院とはそういうところだ。
真ん中に電動ベッドがあり。両翼に小机とロッカーがおいてある。
机にはテレビが備え付けられ、
ベットの脇に、点滴用のポールが置かれている。
私に与えられているの空間はこれだけである。
自由に出入りはできるが、それ以外は刑務所とたいして変わりがない。
むしろ自由になる空間は、病院の方が狭いだろう。
それで、私は、個室を望んだ。
空き室ができたら、すぐに、替えてくれるという約束だったが、結局、退院まで、個室には、入れずじまいに終わった。
それだけ入院期間が短かったともいえる。

脳梗塞の恐れがあるという事で、すぐに、血液をサラサラにする点滴が始まる。
点滴も初めての事と言っていい。
母などの他人の点滴は他人事とみてきたが、自分にされると、煩わしいこと甚だしい。
ああこうやって拘束されるのかと合点した。
トイレに行くにしても、ガラガラと。

持ち込めるのは、木のスプーンに箸。
それと割れたら困るのでプラスチックのコップ。
色気も何にもない。
後は、歯ブラシと歯磨き粉。
下着といくばくかの着替え。
着替えと言っても入院中はずっと借り物の寝間着で事足りるから、退院する時に必要なだけでいい。
それから、タオルと、自販機で飲み物買う時に必要な小銭。
それと若干の本(これは、目が悪いので意味がなかった。)
これだけあればなんとか生きていける。
考えてみれば、気楽なものだ。

起きて半畳、寝て一畳の生活になる。

電動ベットというのは、使ってみると、存外、便利なものだと気がついた。
寝たきりでいたらきっと腰がいかれてしまったに相違ない。
適度に背を上げておけば、それも防げる。

同室は、紳士ばかりだったので、随分、救われた。
夜間、騒がれたり、奇声を上げられたりしたらたまらない。

「あんた、どこの出。」
同室の人が、看護師に声をかけた。
声からすると結構、年配の人に思えた。
「島田です。」
話し方からするとベテランの看護師が応える。
「ああ唐人お吉の。」
「え、誰です。」
「唐人お吉だ、有名な。」
「知らない。知らない。帯祭りなら知っているけど。」
どうも、伊豆の下田と島田を取り違ええているらしい。
声をかけた方もかけられた方も最後まで気がつかない。
どっちもどっちである。
「へえ、唐人お吉のこと知らないか。ご時世だな。」
声をかけた方は、一人で納得していた。
余程、声をかけようかと思ったが、余計な事をしてもと、思いとどまった。
それに確かに、若い人が唐人お吉を知らないご時世である。

「やっと、自分でトイレに行くお許しが出たよ。」
「それは、よかったわ。
でも、何でも言ってね。困ったことあったら、すぐ来るから。」
「何、言ってんだ、昨晩いくらナースコールしても、なかなか、来なかったじゃないか。」
そう言われた看護師は、バッツが悪そうに、しばらく沈黙して。
それから、
「ごめんなさい。注意しておくわ。でも、困ったら、私を呼んで。」
いくら頑張っても、できる事には限界がる。
わかっていても、言いたくなる気持ちもわかる。
やるせない事だ。
とかく暗くなる病室の空気を和らげようと、看護師は、快活に振舞っている。

食欲がない。
出された者は、食べなければと思うのだが食欲がない。
大概の病人は、院内のコンビニで、こっそりとお結びなど買って食べてるみたいだが、食欲が出ない。

病院というところは、やたらと制約事項が多い。
当たり前である。
特に、飲み食いは制約される。
餓鬼道というくらい、人は、食いものにはこだわるものだ。
昨今、テレビの番組ときたら、グルメか旅番組と相場が決まっている。
餓鬼である。
その食が強烈に制約される。
食いものを制約されると、かえって、餓鬼道に堕ちそうなものだが。
ただ、病気だと肝心の食欲がなくなる。
食欲がなくなる原因は、病気というだけでなく病院食にもある。
病院食程、味気ないものはない。

同じ部屋の住人の一人が、「今日は、フリカケ付きか。」というと、食事を運んできた看護師が「食事、チャンと食べた。」と聞く。
「ああ、たべたよ。」と答えた後に、「あんたら同じもの食べるの。」聴き返したら、「食べるわけないさ。病気じゃないんだから。」と言い放った。
それはそうだ、病気でもなければ病院食なんて食べまい。
病院食は栄養士が一生懸命考えてはくれるのだろうが味は致し方ない。
それが病院なのだ。

病院というのは禁欲的な場である。
修行道場のように。
ありとあらゆる欲が封じ込められている。
禁欲だけでなく清潔でなければならない。

左瞼がだんだん開かなくなる。
目が見える時は、目が見える事に、何のありがたみも感じないが、いざ、目が不自由になると、目に悪い事したな後悔する。
大切な事は、失ってはじめて知るというが。
本当な事だ。

「座って。座って。いいから座って。」
部屋の外から、看護師が金切り声を上げている。
母が入院している時も、ナースコールが一晩中、鳴りやまなっかたと。
ナースコールが鳴らされれば看護師は無視するわけにいかない。
歳を取ると訳が分からなくなる人が出てくる。

老いや病は、無惨なまで、人間の本性や醜さを剥き出しにしてしまう。
そして、剥き出しの本性や醜さの矢面に立たされるのは医療従事者、とりわけ、若い看護師達だ。
病院は死と隣り合わせである。
病院は病と戦う戦場みたいなところ。
そこを、若い女性が、無防備に駆け回っているようにすら見える。
フロアの中央に設けられたナースステーションは、さながら、西部劇に出てくる砦のようにも見えてくる。

病気になると、身も蓋もなくなる。
普段、人様に見せられない処を見せなければ治療のやりようがない。
となると、病人は、恥も外聞もなくなる。
体面なんて構っていられない。
そいつが時として絶望に追い込む。

いよいよとなれば、彼女たちに下の世話まで見てもらわなければならなくなるのだろう。
だから、建前や綺麗事など言ってはいられない。
それが病院というところだ。

入院した当初は脳梗塞の恐れがあると言う事で、完全看護。
先ほどの若い看護師がにっこり笑って、トイレにいく時も教えてくれという。
こちらにしては多少鬱陶しく思えるが、世話をしてくれる看護師の事を考えると頭が下がる。

介護の現場なんてもっと厳しいのだろう。
かつては、嫁が病人の世話も、年寄りの介護も一手に引き受けていた。
核家族化が進み、病人の世話や年寄りの介護の担い手がいなくなった。
年寄りが介護を必要となったら、介護施設や制度に任せればいいと言う発想なのだろうが、現実はそれほど甘くない。
介護の世話をしなければならないとなると、家族の誰かがつききりになる。
その為に会社を辞めざるをえなくなる人も出てくる。
老人問題は、あくまでも、制度や設備の問題で、モラルの問題ではないとする、現代社会の病巣でもある。

そのうちに、病院に通うのが日課のようになるのかもしれない。
だんだん、自分の好きにできる時間が少なくなる。

私は、医者や病院が苦手である。
病院が好きな者はいまいと言われそうだが、そういう意味ではなく。
医者の前では、全てを曝さなければならないから。
医者に嘘はつけない。

苦痛は人間の人格まで変えてしまう。
苦し紛れに、若い看護師に聞くに堪えない罵詈雑言を遠慮会釈なく浴びせる。
生きるか、死ぬかという問題の前では、人生いかに生きるかなんて高邁な理屈も形なしになる。
後で考えると穴があったら入りたい。
旅の恥は掻き捨てというけれど、病院でかいた恥はいかんともしがたい。

そう言った後ろめたさが、病院というのを苦手にさせているのかもしれない。

医学は、人の人生に深く関わっていると言うのに、病気を治す事ばかりに専念し。
医療とは何か、医療の目的はどこにあるのか。
それがいまひとつ判然としないと言う事もある。

医師の使命は、病を治す事とはいえ、病の背後には、患者、一人ひとりの人生がある。
人間関係が隠されている。
だから、ドラマが生まれるのだろうが、現実の医療の現場は、そんな事を斟酌していたら、身が持たない。
といって治療ばかりに囚われたら、医療は単なる技術、医師は、職人に成り下がる。
医療という生々しいほど人間的な仕事が、非人間的な仕事に見えてくる。

いくら手の施しようがないと言っても、一縷でも望みが残されているとしたら、後は、医者の腕の問題。
何せ、命がかかっているのだから。
結果が悪いと、納得しない患者も家族も出てくる。
後で誤診と言われても、意図して、診断を間違う医者はいない。
その時その瞬間、全力を尽くしている。
気力も失せ、ヘトヘトになる。
かといって逃げ出す事も許されない。
深夜に急患で起こされることも度々。
病や災難は、時と場所を選ばない。

「今度、担当になる研修医の榊原です。」
カーテン越しに話声が聞こえる。
「交替になるの、前の先生は結構、歳だったけど。」
「前の担当も研修医ですけど、結構、歳を取ってからどうしても医者になりたいと。」
「へえ~、それは立派だね。」
話をしているのは隣のベッドの患者である。
「どうです、よく眠れますか。」
「それがねあまりよく眠れないんだ。」

話の仕方から、控えめで、優秀な人柄が伝わってくる。

「四週間前のね、記憶がないんだ。
どうしても、思い出せない。」

隣人の切なさが伝わってくる。

それから、隣人は、研修医とひとしきり話をする。
巧みに、研修医の経歴や出自を聞き出す。
上手いものだと舌を巻く。
自分の力を一つひとつ確認するように、研修医から、話を引き出していく。
私には、隣人の仕事への執念みたいに感じた。

一夜にして人生を変えてしまうような出来事がある。
地震や津波のような天変地異、火災や事故などである。
東日本大震災や今のウクライナがそうである。
ある日を境に世界が、百八十度変わる。
今日と明日と全く違う世界になる。
人生が変わる出来事に一生のうち何度か出くわす。
非対称、不連続。
しかし、それは、その時になってみないとわからない。
いくら予測していたとしても、いざとなると、冷静な判断など下せなくなる。

病もそのような出来事の一つ。
人は、わかっているように思い、ある程度備えをしているつもりだが。
実際のところは起こってみないとわからない。
病気というのもかかってみないとその苦しみはわからない。
しかも苦しみは自分持ちである。
誰も替わってはくれない。

「僕はね。まだ、六十五でね。
まだまだ、やり残したことがあるんでね。」
そう、隣人は、研修医にしみじみと呟いた。

医療は、単なるビジネスなのか。
飲まされる薬が増えるたびにため息が出る。
医療も、現代を代表する産業となり、主要都市の中心に近代的な病院に象徴されるようになる。

医療技術も進歩すればするほど、コストがかるようになる。
先端技術なんて保険がきかないものも多い。
そうなると、患者の医療費の負担もうなぎのぼり。
金持ちでないとまともな医療もうけられないご時世である。
貧乏人は死ねである。

地獄の沙汰も金次第を、地でいっている。

結局、医療も、金がなければ、成り立たない。
そうなるとますます、医学とは何か。
医師のモラルはと問いたくなるが。
それは聞くだけ野暮。

だから、医術は算術などと揶揄られる。

かつて、巨大壮麗な建物と言えば、寺院か、城郭、宮殿ときまってたものだが。
病院は現在の社殿のようにそびえたつ。

かといって医療はビジネスだと割り切れるほど、生易しい世界ではないのも事実だ。
最近も、研修医の過酷な勤務状態が話題となった。

医者も看護師も人である。
心も感情もある。
むしろ、医療関係者以外の人の比べて感受性が鋭い人が多い。

苦痛を和らげるべきか、延命処置をすべきか。
心臓マーサージのように、ここで手を止めるか否かの決断を迫られる。

私の知り合いの娘は、集中治療室を担当する看護師だったが、生まれた子に障害があった。
集中治療室を担当していたら、一年間は子を作るなと言われていたのに結婚した時にはお腹に子供がいた。
それでも、「何で。」と神に問いたくなる気持ちはわかる。
献身的に勤めたと言うのに、その報いが。

今年、九十二になる母は、延命を拒否すると書いた紙は、肌身離さず持っている。
人には、それぞれ死生観がある。
時に、その死生観が医者と患者とを対立させる。
宗教などが絡むとなお複雑になる。
助けたいと言う思いと楽になりたいと言う思いの板挟みに苦しめられ。
医師が無力感に襲われもする。

それが医療の現場である。
医師も、看護師も神経をすり減らしている。

だから、善良さだけを求めても意味がない。

医療の目的は、金儲けにあるのか。
人の命を救うことなのか、苦しみから解放することなのか。
それは医師の志で決まる。

最初から金儲けを目的に医者になる者はいまい。
しかし、医療の現場は医者の志を擦り削っていく。
生と死の狭間、医療の現実の中で初志を貫くのは至難の業。
中には金の誘惑に負ける医者も出てくる。

死は必定なのである。
人は、死の前に平等なのである。
どんな、金持ちも、独裁者も、貧乏人も死という現実から逃れられない。

時には、医師は、人を死なせる事がある。
なぜなら、死は、必定だからである。
ちょっとしたミスが患者を死に至らしめる。
延命処置をすべきか、苦痛を取り除くべきかの決断を求められもする。
どれほど、最善を尽くしても、救えぬ命がある。
診断を過てば死なせてしまうこともある。
医者は、多くの死に立ち会うことになる。
今は、多くの場合、医者は、患者の生涯をみとる事になる。
それが医者の宿命である。

目が悪いと言うのは結構、堪える。
本も、テレビも、見る気になれない。
要は、見ると言う行為の一切合切が否定され。
ボンヤリと天井を見ているしかない。

偉そうなことを言った処で、人は自分の体一つ思い通りにできない。
脳の働きを全て解明したと豪語している学者がいるが。
それがどうした。
それで、人間は神を超えたとでも言いたいのか。
脳の仕組みがわかったとして根源的な謎が解かれたわけではない。
人間の脳の精緻な仕組みが解明されればされるほど、創造主の偉大さが明かにされるだけで。
脳の仕組みを解明した人間が偉大なわけではないと言うのに。
その愚かさが、人間を破滅へと導くのだ。
自然でも脳でも、仕組みがわかればわかるほど、人知を超えた何者かの力に畏敬せざるをえなくなる。
人は、神を超えられはしない。
仕組みがわかったからどうだと言うのか。
仕組みがわかったとしても根源的な事は、何一つ解明されていないのだ。

人間の傲慢さがこの世を悪くしているのは、相違ない。

看護師が天使というなら、医者は神かと言いたいが、なかなかそういうわけにはいかない。
確かに、神の手と言われる医師はいる事はいるが、全部が全部、超絶技巧とはいかない。
医者と言っても患者の気持ちがわかるわけではなく。
ただ、病気を治すことに専念せざるを得ない。
一々、患者の事など構っていられない。
しかし、患者にとっては、生き死にの問題である。

治療にばかり専念すると、時には、行き過ぎてしまい。患者の人格など、どうでもよくなる。
若い医者にありがちな事である。

医者に善良であるか、ないかを問うの虚しい事なのかもしれない。
それ以前に、医者は、生と死の狭間で日々格闘している。
それは、兵士に、善良さを求めるのと同じことかもしれない。
兵士になんの為に、なぜ戦うのかと問うようなもの。
今でも、医者も、看護師もコロナという前線で日夜戦っている。

絶え間なく、医者も、兵士も、生かすか、殺すかの判断を求められる。
なにが正しくて、何が間違っているかなんて迷っている暇はない。
その時そのとき、自分を信じて生き抜くしかない。
独善と言われても、やり直す事が許されない仕事なのだから。

医者にとって病院は戦場なのだ。なにか正しくて、何が悪いかではなく、生きるか死ぬかの問題である。

自分の下した診断に間違いはなかったか。
自分の処方、処置は正しかったのか。
見落とした事はないのか。
助けられる命を助けられなっかったのではないか。
たとえ助かったとしても、障害が残れば一生を台無しにしてしまう。
悩まない医者はいまい。
悩んだところで答えは得られない。
なんと言われようと自分の診断には、責任が持たされる。
一々、斟酌していたら、医者の身が持たない。
だから、一緒に、病と闘おうとしない病人が許せなくもなる。
若い頃は、理想に燃えっていても、現実は厳しい。
善か悪かが問題なのではなく。
生きるか死ぬかの問題なのだ。
そして、生死は紙一重。
医者はタフでないとやっていけない。

病人は、大概、いつも不機嫌である。
機嫌のいい病人というのには、めったに会えない。
人には他人には、知られたくないこと、見られたくないところがある。
医者は、他人に知られたくない事、見られたくない処をあからさまにしなければ治療はできない。
病人が医者に機嫌のいい顔を見せられるはずがない。
機嫌のいいのは退院する時ぐらいだろう。
患者は往々にして医者に嘘をつく。
医者は、その嘘を見破らなければならない。

病院で気取っていたりなんていたら、馬鹿にされるだけである。
病院でプライバシーなんて言ていても滑稽なだけである。
病院では、排せつ物、糞尿だって貴重な資料、記録である。
トイレに鍵をかける事もできない。
絶世の美人女優だって形無しである。
気取ってなんていられない。

何もかもあからさまにされる。
特に醜い部分がさらけ出される。
隠しようがない。
病院にいると陰鬱になる。

陰鬱さをいくばくかでも和らげようと看護師は快活に振舞っている。

深夜には、いびき、歯ぎしり、寝言が響く。
救急車の音も聞こえてくる。
どこかでうめき声がしたかと思えば、喚き、叫ぶ者がいる。

こうなると病は、罰なのかと思いたくもなる。
どこかで、自分は、神に罰せられるような、何か悪い事をしたのかと。
病は罪か。

苦しい時の神頼り。
人間、苦しくなると、ついつい、神に縋りたくなる。
普段は、不信心な癖に。
だから、このご時世、得体のしれない神が横行する。

カルトはカルト。
既存宗教より新興宗教の方がよほど、迷信。
経典もいい加減だし。
なぜなら、既存の宗教には神に対する恐れがあった。
今の新興宗教は、神にたいする恐れがなく、
金儲けの手段としか見えない。
何せ、宗教法人は、コンビニより多いと言うのだから。
その分、おどろおどろしい。
宗教に関しては、後退している。
宗教に対するイメージ。
純粋とか、清浄とか、神聖とか、超俗的な要素が抜け落ちている。
無論、中世、既存の宗教も堕落していたが。
キリスト教にせよ、仏教にせよ、イスラムにせよ、ユダヤ教、神道せよ、純な部分がある。
タブーや何を聖なるものとするのか、摂理は何か。そこにある。
神聖さや、純粋さが抜け落ちたら、宗教は、醜悪な欲望の塊に過ぎなくなる。

近代になると、真面目に、神とか、生きるとか死について人間は考えなくなってしまった。
科学が発達するに従って自分を全知全能であるかのごとく思い上がり。
あいも変わらず生病老死の四苦から、逃れられないと言うのに。
科学の発展に伴って、核兵器とか、生物化学兵器、公害、乱開発が増えたきた。
人の犯す罪が際限なく拡大し続けている。

人の命は地球より重いと言いながら、片一方で。
戦争によって幾多の命が簡単に奪われている。
核戦争だ、大地震だ、温暖化だと、今にも、人類が滅亡するような。
人類は、末世的な様相だと言うのに、日本ではあいも変わらぬ日常が続いている。
ニュースを見ていると、日常性と非日常性が交錯して時折、眩暈に襲われそうになる。
死でしまえばお終いと思う反面、人類の滅亡に怯える。
ある意味で喜劇的である。

目が使えないので、オーディオブックで中川毅の「人類と気候の十万年史」を聞く事にした。
著者は、温暖化、温暖化と何が何でも温暖化は悪いと決めつけているが、生物が最も隆盛だた時、地球の温度は今より十度高かったとされる。
それに対して氷河期には、人類は五十万から、百万人、それが、今では、一万倍の百億人にまで増えた。
それを考えると温暖化より、地球が冷え込んだ時の方が災難だと問題提起する。
更に、温暖化よりも気候変動が激しくなるの方が怖いと。
人類のとってなにが本当の脅威か。
一概に、温暖化だけを問題にすべきではないのだろう。

入院してから、三日たつ。

迎えのベットの患者は、前日からイライラしている。
「退院の日が伸びたんだよ。」
携帯で外と連絡を取っている。
「迎えにこれないの。
しかたがないよ。俺一人で帰るよ。」
前の日に、そんな会話が聞こえてきた。

出入り口に近くて、病室の端という事は、窓がない事になる。
つまりは、閉じられた空間に一人にされる事になる。
する事がない。

そこで、天井をぼんやり眺めながら考えた。
世の中は、コロナとか、戦争とか、温暖化とか、終末的な様相を呈している。
一方で人生の終末を迎えようとするもの見る。

ここ数年、人類滅亡が現実味をおびて真剣に語られるようになってきた。

考えてみると、人類が終末を迎える事と人が人生を終える事との間にどれほどの違いがあるのか。
人は、何に怯えていると言うのだろう。

人間が地上に現れるずっと以前から、何億光年も遥か彼方から命を繋いできたのだから。
たとえ人類が滅んだとしても、新たな種に命をつないでいくのだと信じるしかない。

人類が滅亡する、滅亡すると悩んでいるのは、存外、人間だけなのかもしれない。
人は、自分の影に怯えているに過ぎない。

看護師が、向かいの住人に、
「退院、決まった。」
「それが、まだ、ハッキリしないんだよ。」
「迎えはどうするんです。」
「予定がつかないんだよ。」 
「どうします。」
「いいよ、一人で帰るから。」
いかにも能吏という風情で、一刻な人に見える。
別の看護師が来て。
「次の診察の日が決まらないと退院が決まらないんですけど。来月の三日はどうですか。」
「その日は、都合が悪いんだよ。」
「それでは。」
「いいよ。一年で五回も出たり入ったりしてるんだよ。」
「そう言われましても。」
闘病と言うけれど、病とばかり関わらずってばかりはいられない。
仕事も生活もあるのである。
しかし、一方で命がかかっている。

一生懸命、病と闘い平癒したとしても、世界がなくなってしまえば、身も蓋もない。
核の使用に怯えながら、闘病生活に耐えなければならないのか。
人間の愚かさに身震いする。
地位も、名誉も、名声も、人類が滅んでしまえばなんの価値もない。
歴史も、何も、水泡に帰す。
そんなものに固執て破滅の道を歩むのか。

天国も、地獄も、死んだ後のことなど確かめようもなく。

何が真実で、何が現実なのか。
日常性が破壊されていく一方で、日常性を信じて、何事もないかの如く生きていくしかない。
多くの人は、この激動期に、何も変わらないさと平然と暮らしている。
世界の動静なんて別世界の出来事で、他人事。
自分の人生とはかかわりないよ.。
それでありながら、それがいつまで続くかと、漠然として不安を抱きつつ生きていく。
この先、今までどおりいくはずがない。
じゃあ、一体俺達は、この先、どうやって生きればいいのか。

希望は命。
命は、人間が生まれるずっと以前から万物に宿り。
生と死の狭間で、万物を過去から未来へと誘ってきた。
命の雫の一滴いってきこそ、万物を永遠につなぐ。
命によって人は、生かされている。
命は、機械的には生み出せない。

天空には、闇が、とこしえに広がり。
無数の星々が輝いている。
滅びたいなら、滅びればいいさ。
例え、人間が滅びたとしても、宇宙のどこかで命は引き継がれていくのだろう。
なぜなら、命は、人類が誕生するするずっと以前から存在していたのだろうから。

日常生活の中に非日常的な出来事が忍び込み、知らぬ間に日常化していく。

退院の前日、大谷部長が、病状について縷々説明をしてくれた。
病室から診察室に行く途中で「歩けますか。」と聞かれたので。「片目をつぶりますから」と答えたら。
部長は「病人は、現実に適応する。」と呟いた。
人間は、環境に適応しないと生きていけない。
それが病院であろうと、戦場であろうと。
それが生々しい現実なのだ。

精密検査の結果が出て、診察室に呼ばれた。
脳には、問題がないので、今日でも、明日でも退院していいと言われた。
いきなり、今日、退院してもと言われても。
一旦、病室に戻って決める事にした。
病室の戻って看護師と相談して翌日退院する事にした。
病院らしい対応である。

医者には病人の苦しみはわからない。
わかったところでどうしようもない。
医者は、病を治すのが仕事である。
病気を治すためなら苦い薬も処方するそれ会社の務めである。

翌日、無事退院といきたいが、結局、私が、眼医者にいた目的は、どこへいったかわからない。
目の問題は何も解決されておらず、かえって、悪化している。
病院の都合が優先されて、患者の都合なんてどこ吹く風。
動眼神経麻痺の原因は、どうもはっきりしないらしい。
とりあえず、糖尿病が原因とされたが、僕の目の前で、眼科医は糖尿病が原因ではないと言っていた。
いずれにしても、二、三ヶ月で自然治癒するのを待つしかないと。

名前はあっても、原因不明の病気は、たくさんある。
要するに、多くの病は、自分の力で直す。
つまりは、自然治癒である。
医学を否定しているわけではない。
医学とは本来そういうものだ。
自分の力で病と闘う。
医療というのは、それを手助けする。

病は気からというように、医療の根本は、その人が生きようとする気力に依存するところが大きい。

いい加減に思えるかもしれが、医学の在り方の本来の姿かもしれない。
つまり、医学ありきではなく、病気が先にあって、その病気とどう向き合うかが医療なのである。
それが、いつの間にか、医療が先にあって、全ての病は、医学的に説明がつかなければならないと。
現代医学に対する信仰のようなもので、それが、かえって医者を苦しめる事になる。
「白い巨頭」のような神話を生み出す事となる。
医者だって人である。全知全能の神ではない。

生きるとか、死ぬとか、思い煩っても、定めから逃れられないとしたら。
その時その瞬間を、精一杯、自分に正直に生きていくしかない。
現実から目を背けずに、どんな事があっても前を見て生きていくしかない。
人は死の前に平等なのだから。

荷物を纏めていると、入院をする時、最初にでむかえてくれた看護師が、
「もう、退院ですか。」と笑いながら声をかけてくれた。
その日が当番らしい。
大木戸で、家内が待っているのが見える。
「ええ、おなごりおしいとは言えませんが、お世話になりました。」
「そうですね。またお会いしましょうとは言えませんし。」
また、いつもの生活に戻るのかと、半面、いつ目は治るのだろうかと思いながら。
会計を済ませるために待合室へと向かった。