生き甲斐とは、なんだろう。
今の日本人は、自分が守られる事ばかり求めて、自分が命がけで守るものを求めようとしない。
だから、生きがいが得られないのだ。
なぜなら、生きがいは命かけても守らなければならない事だから。
小さくて、か弱い命だけれど、だからこそ命がけで守らなければならない。
それこそが生きがいなのだ。
命に代えても失いたくない愛する人。
何よりも守らなければならない、友や仲間、信義、誇り、絆、恩義、信仰、仕事、事業、夢、家族、国。
それが生き甲斐の根本。
利益は生き甲斐になるか。利益は指標、手段に過ぎない。
手段は目的にはならない。
お金を儲けるのは手段。
手段は手段として重要だけど、目的ではない。目的にはならない。
食事は生きる為に不可欠な手段。
食べる事は、生きる為に欠かす事のできない手段だけど生きる目的にはならない。
生き甲斐は、死に甲斐でもある。
生と死は表裏だから。
あの人を護る為なら死んでもいい。
成功させる為に命をかける。
必死に、決死的に。
そう思える対象が生き甲斐なのだ。
命がけで守る物事、それが生き甲斐。
ただ、護られる事ばかり望んでいる者のは、生き甲斐なんて一生得られることがない。虚しい。
愛されるより、愛する事で得られるのが生き甲斐なのだ。
献身。献身的になれる対象、それが生き甲斐。
相手に求めるより、自分に求めるしかない。
なぜなら、生き甲斐は自分の問題だから。
先ず、愛する事、信じる事。
愛する事、信じる事を恐れていたら、生き甲斐なんて得られない。
愛して、愛して、なぜ、愛してくれないのと求めても。
相手が、自分を愛しているかどうかなど、確かめようがない。
まるで、幻を追うように。
底なし沼のように、求めても。求めても、確かめようがない。
限りがない。どこまで行っても相手の気持ちは不確かなのだ。
なぜなら、相手の事だから、自分には確かめようがない。
信じるしかない。愛するしかない。許すしかない。
確かなのは、自分が愛しているかどうか。
守って、守って、どうして守ってくれないのという前に。
あなたは、相手を守ろうとしましたか。
相手が、自分を護てくれようが、くれまいが、自分が相手を護る事とは関係ない。
相手を護るか、護らないかは自分の意志だ。
親鳥が雛を護るのは、雛に護てもらう事を期待しているわけではない。
雛の気持ちに左右されはしない。
それは、親鳥の愛だ。自然の情だ。
護るという事を覚える。
自分の力で守る事、守るものを持つ。
それが、一人前の社会人、大人だという事である。
自分が守るものを見つけること。
自分が何を守るのかを知る事。
それが、大人になる事さ。
結婚の重みがそこにある。
愛する人を娶り。
愛する子を生す。
人間の体は不思議なもので指先に小さな棘が刺さっても痛みを感じる。
それほど、身を護るという事が優先されている。
そこが機械とは違うところで、身体の隅々まで神経が張り巡らされている。
機械は壊れるくらい激しい衝撃を受けても痛痒とも感じない。
痛みを感じるのは中にいる人である。
生きるという事は、それほど、鋭敏でないと。
機械には命がない。
組織において欠くことのできない目的の一つは、自分達の身を護ること。
自分達の身を護ることを忘れた組織は、存在意義すら怪しい。
ところが、今の多くの会社に社員は、会社がどうなろうと自分の仕事に直接影響が及ばない事は、関わりがない、関わりたくないと無関心。
実際は、社員ならだれ一人、会社の盛衰に無関係でいられるはずがないのだけれど。
自分達の身を護ろうとしないから、周囲の環境の変化にも鈍感になる。
嵐がこようが、敵が攻めてこようが、何も感じない。阿保か。
為替の変動や経済環境の変化から、いかに会社や自分達の生活を守るかは、会社を護る為には不可欠だけど、為替の変動や経済環境の変化なんて経営者が考える事で、自分には関係ない事、与り知らぬ事と考えようともしない。学ばない。
こういう類は、年をとるにつれて馬鹿になる。
要は、自分の身を護る事が何もできなくなる。
自分の身すら守れなくなる。守れないようになる。
そして、誰も自分を助けてくれないと、世間を呪うようになる。
会社がどうなろうと知ったことか。
俺は言われた仕事だけをしていればいいんだ。
それでいいのだろうか。
よく、共有、共有というけど、一番共有しなければならないのは危機感で、
会社をよくしたいとか、変革、成長、拡大に対する欲求の源は危機感にある。
このままでは生活が成り立たなくなる、家族が守れない、会社が潰れる、国が亡びる、成長ができない、堕落するという危機感が人間を向上させる。
「このままでいい。」
「確かに、若い人は、大変かもしれないが、俺は大丈夫」
「何とかなるでしょう」
「時間が解決する」
「今がよければいいじゃない」
「会社なんてどうなっても構わない。自分さえよければいい。」
「杞憂ですよ」といった安穏、安逸、安易で自分勝手な考えが人間を堕落させるだけ。
「どうせ、自分の話なんて聞いてくれない。」
「聞いてくれたところでやりっこない。」
「まかせてくれない。」
「成功しても、自分のものにはならない。」
最初から諦めている。
それを前提に、世の中を斜めに見て、冷ややかに、批判をする。言いたいことをいう。
根本的に、大人を信じていない。醒めている。舐めている。
俺たちが若いころは、そんな態度見せたらどやされた。
「相手が、自分の意見を聞いてくれなければ、どうしたら、自分の意見を聞いてくれるか考えろ。
やってくれない、やらないなら。やらなければならないようにしろ。
やらなければならないいんだろ。
やらなければならないのなら御託を並べてないでやる事を考えろ。
従わない。従わないなら、従えろ。
いう事を聞かなければ、言うこと聞かせろ。
誰だって、最初から、話なんて聞いてはくれない。
最初から理解なんてしてくれない。それが当たり前だ。
わかってくれないと嘆く暇があったら、理解してもらう為に、どうしたらいいか考えろ。
聞いてくれないなんて、相手の性にするのは、最初からやる気がないんだ。
物分かりの悪い人間を、物分かりをよくするのが才覚だろ。
そうしないと、自分だって、家族だって、会社だって守れないぞ。
泣き言をいうな。」と。
生きがいは、自分が命を懸けても守らなければならないもの、かけがえのないものを見つけた時、得られるものさ。
私は、生きる目的とは事を成す事だと思う。
事を成す為には、何が必要かと聞かれたら、惚れる事だと答える。
惚れる対象は三つある。一つは仕事、一つは人(指導者)もう一つは、異性。
異性に惚れても事は成せない。
だとすれば、仕事に惚れるか、人に惚れるか。
考えろ。
どうしたら、護れるか。
危険は迫っていないか。
自分の周りの状況、環境は、変化していないか。考えろ。
常に、アンテナを巡らしていないと、大切なものを護れないよ。
護る気がない人は、「為替の変動がどかしました。」
「金利、何ですそれは。」
「苦情、無視すればいいんですよ。」
「会社が赤字。俺には関係ない。転職しよかな。」
「売り上げが達成できない。仕方ないじゃないですか。僕は一生懸命やってるんですよ。」
「自分一人くらい、問題ないでしょう。」
「友達がいじめられている。そんなの関係ない。迷惑だ。」
「助けてくれ。面倒くさい。」そんな発想しかできない。
人は一人では生きていけないので、助け合い、分かち合い、認め合うことでしか存在意義は深まらない。
だから、自分だけ助かろうとしても虚しく。
自分の地位や名誉の為だけに働いても、自己満足、独り善がりで意味がない。
自分以外の人が、認めてくれるから存在意義があるので。
自分で自分を認めたところで、意味はない。
単なる同語反復に過ぎない。
自己満足にすぎないし、独り善がりである。
自分のために働くのは当然の事であって。
誰も、その意義を認めてはくれない。
言い換えると、自分の為に働くのは当然のことで大前提。
だから突き詰めれば、確かに、何でもかんでも自分の為と言えない事はない。
なぜなら、自分を生かすというの、自分の全行為の前提となるから。
人の行為は、自分を生かすことに帰結する。
人のやる事は、総て自分を生かすことに通じるのだから、何でもかんでも、自分の為にしていると言えばいえる。しかし、それは、生きるために必要とすることを意味するので、生きる目的を意味してはいない。
生きるために食べていることを意味しているので、食べるために生きていることを意味しない。
生き甲斐とは、生きる目的を意味する。生きる目的、意味は自分の意志で見つける。
自分が生きるためには、自分が働かなければならないから。
それは、自分が生きるために働いていることを意味するので、自分の働きの意義は、その働きに意義を認める相手がいてはじめて成立する。
自分を生かすのも自分だから、自分の為にといっても生物として必須な事だからである。
それこそ、犬や猫だって自分の為に生きている。
愛する人に尽くすのも自分の為と言えば、自分の為だし。
国のために働くのも自分の為。
神への信仰も自分の為。
それは、自分を生かすのは自分でしかないからで。
だからと言って、何もかも自分の為なんて決めつけるのは早計。
それは、自分にとってという意味でしかなく。
自分一人で生きられるならという前提がなければ成り立たない。
人が生きるために食べ物が必要なように、現代の組織は、活動するためにお金が必要である。
人は食べることがすべてではないように、組織は金がすべてではない。
だから、お金を生き甲斐にするのは愚かである。
子供を護る事は生き甲斐になっても、お金を護る事は生き甲斐にはならない。浅ましいだけである。
最近のテレビ番組は、グルメか、旅行か、バラエティー番組ばかり、どれも、護るに値しない事である。
日本人は、何を護らなければならないのかという重要の事を忘れている。
生き甲斐は、自分以外の何者かのために尽くすことによってのみ得られる。
自分を生かすことは、あらゆることの前提だからで。存在意義にはならない。
それは息をすることが存在意義にならないように。
存在意義は、自分以外のない者かの為に働くから成り立つ。
それ故に、「何のために。」「誰のために。」と問うのである。
自分が相手を必要とするから、相手も、自分を必要とするようになる。
相手が自分を必要とするから、自分も、相手を必要とするようになる。
それを何でもかんでも、「所詮、自分のためだよ」としたり顔をして言う人がいるが
それは、自分の心得違い、不見識を露呈しているにすぎない。
トートロジーに過ぎない。
自分で自分を護るのは、人間というより生き物の本能であって、自分の力で自分を護ろうともしなくなったら、生き物としてすら存在価値がない。
家畜ですら、自分の力で自分を護ろうとする。
そういう意味では、動物ですら、自分以外のものを護り育てることで、自分の存在意義を認めるのである。
大切なのは、自分で自分を制御、コントロールできる事。
自分の事は自分で決める。
その為に、必要なのは、自制心。
自分で自分を抑えることができなくなったら、求める事は際限がなくなる。
愛されたいと言っても、自分がなければ、何を愛すればいいの。
愛するから、愛されるのに、愛は、一方通行ではない。
人は、自分を写す鏡。
鏡が歪んでいるのか、自分が歪んだいるのか。
その辺を間違えるなよ。
歪んだ鏡に映った自分ばかり見ていると自分の本当の顔を忘れるからな。
自分が歪んでいるのか、鏡が歪んでいるのか。
自制できなければ、自分のことを何も決められなく、他人に無条件で従わなければ生きていけなくなる。
そうなると、他人に依存しなければ、生きていけなくなり、他人の操り人形になる。
自分の価値観、思想で、自分で考え、自分で決めて、自分で行動するから、自分の行動を反省し、改めることができる。
自分の食べる物だって他人に決めてもらっていながら、こんな粗末な不味い物、東京にはもっと美味しい物があると批判したところで、自分で改める事も決める事もできなければ、何一つ自分のものにはできやしない。
虚しいばかりさ。
大体自分の考え、価値観がなければ。
自分の考えと言っても難しい事ではない。
十善しかずと言って、十くらい。
例えば、一つ、人を殺してはならない。
一つ、人を傷つけてはいけない。
一つ、人の物を盗んではならない。
一つ、人を欺てはならない。
一つ、約束は守ろう。
一つ、法やルールは守る。
一つ、強姦は、してはならない。
一つ、博打はしてはならない。
一つ、麻薬や過度の飲酒はしてはならない。
一つ、言論の自由は守る。
一つ、弱い者は、助けなければならない。
と言った様の事。
要は、親の躾に属する事。
十程度の基準があれば十分であり、逆に、十程度の事も守れなければという事。
自分の考えもなく。自分で考えもせず。自分で決められないで、自分で行動もしない。それでどうやって、改めようとするの。
何も自分のものにはできない。
人を奴隷化しようとする者は、自分で自分を制御できないようにする。
今の日本人、若者を見てご覧。
奴隷は、自分の力では、何も守れない。ただ、隷属するだけ。
肉体は、全身全霊で、自分を守っている。
指の先まで、自分の命を守る為に働いている。
手も足も、指の先まで、自分が生きていくためには必要なので、一体となって動く必要がある。
手と足が、勝手に動いたら、生きていけない。
それは組織も同じ。
指一本、もぎ取られても、痛痒とも感じない。
それでも、足の指は、指一本、なくなろうと自分には関係ないと、自分が守れると思っている。
そんな組織では、身が持たない。
それでは、自分の体どころか自分の命も守れない。
今の企業組織の中には、そんな妖怪変化のごとき組織が散見できる。
現代社会のホラーである。
自分達で、自分たちの組織を護ろうとするから、組織は存在価値が生じる。
組織が危機的状況にあるのに、自分には関係ないと思っている人間がいたら、既にその組織は病んでいる。
なぜ、手は、自分を犠牲にしても、顔や頭を庇おうとするのか。
誰も、護ろうとしない国は守り切れない。独立を維持できない。
見張りが自分の役割を怠れば、氷山から船を護る事はできない。
組織は、総てに構成員が組織を護る為の活動をするから存続できる。
為替の変動、顧客の苦情に組織の隅々までが、敏感に反応できなければ、会社は、生きていけなくなる。
経営者だけの問題ではない。
社員が他人事にとらえるようになったら危機的。
脳だけで生きているわけではない。
小指の先まで命が通っている。
爪の先まで、私の体の一部に違いない。
全身全霊で守る、護っているのが私の命と体。
軽く触られただけでも、ゾックとする。
だから、人は自分の命を護れるのだ。
生きる目的とは事を成す事だと思う。
事を成す為には、何が必要かと聞かれたら、惚れる事だと答える。
惚れる対象は三つある。一つは仕事、一つは人(指導者)もう一つは、異性。
異性に惚れても事は成せない。
だとすれば、事を生すためには、仕事に惚れるか、人に惚れるか。
二つに一つ。
愛されることを求めるより、惚れる事。
大切なのは出会い。
人は、自分を写す鏡。
鏡が歪んでいるのか、自分が歪んだいるのか。
その辺を間違えるなよ。
歪んだ鏡に映った自分ばかり見ていると自分の本当の顔を忘れるからな。
自分が歪んでいるのか、鏡が歪んでいるのか。
自分が、一生をかけて守るべきことは何か。
それは、自分で探し出さなければならない。
それは守るに値するものか。
それを見誤ると、一生が台無しになる。
最近の、カルトや、テロ、ギャンブル中毒などは、好例である。
守るべきものを間違うと、振り回され、利用され、騙され、誑かされ、弄ばれ、何もかも奪われ、最後のには放り出される。
何に対して義を見出し、何に対して忠たらんとするのか。
どんな意義があるのか、それが大切で、自分が一生かけても守り通せると思うなら、誠実に守り続ける事だ。それが忠義である。
自分が一生かけて守り通せる真実と出会えたなら幸せだし、それが生き甲斐となる。
生き甲斐とは喜びであり、幸せをもたらす事である。
それでなければ、一生守り通せはしない。