大体、働くことの意義もはっきりしていたし。
学ぶことの意義もハッキリしていた。
言い換えると、働く目的も、学ぶ目的もはっきりしていた。
つまりは、生きる事である。
働くのは生きる為であり、学ぶのも生きる為。
働くことも。学ぶことも生きる為である。

生きる事に役に立たない事は働く価値もないし、学ぶ価値もない。

だから、読み書き、そろばんだって生きる為に必要だと思えば、思えなければ、無用な事。余計な事。
嗜む程度でよくて、それ以上は、金持ちの道楽の延長でしかない。
要するに暇人がやる事で。

今は逆である。
学校の勉強が先で生きる為に必要なことは後回しである。

仕事や教育の意義も目的も、昔は、単純明快だった。
でも、今の学校教育になった間接的で、複雑で分かりにくくなった。

昔は生きる事に必要なことが先で学校の勉強なんて後回し。
それでは教師は困るので。無用の用なんて考案した。

昔は、受験なんて、一部の人以外、無縁だった。
職人には職人の。大工には大工の。商人には商人の。板前には板前の。漁師には漁師の。農民には農民の学び舎があった。

仕事をするためには作業を洗い出さなければならない。
何をしたらいいのか、それが作業である。
作業を洗い出せなければ、何をしたらいいのかわからない。

我々の子供の頃は機械化もされておらず、それこそ、システム化なんて夢のまた夢。
だから、だ絵でも、生きていく上で必要なことは、みんな頭に入れていた。
学校の勉強より、家事手伝いのほうがずっと大切なことで。

大体学校の勉強なんて一文にもならないと。蔑んですらいた。
職場でも、総ての仕事は人力だから、総ての仕事とその段どりが頭に入っていないと仕事にならない。
だから、総ての作業は頭にあって、必要となれば、引き出していた。
それが、学校に行く前から学んでいたことで、かつてはそちらが主で、学校のお勉強は従。
今は、それが逆転し、生きる為には役に立たない勉強が主で、生きる為に必要なことは従だ。
だから、大学を卒業しても、働く場所のない大人で町は溢れている。

仕事は合目的的な行為である。
どんな仕事にも目的がある。
ただ、目的は常に明確にされているわけではなく。
無自覚であることも多い。

金儲けも目的にはなるが、お金は手段だから、二義的な目的にしかならない。
金を儲けて何に使うか。生活費として使うなら、生活に必要なものを手に入れるのが目的になる。

生きるためというのも立派な目的である。
ただ、目的を明確にできるかというと、それが簡単ではない。

目的というのは求めている結果なり状態である。
野球をするのは、自分たちが試合に勝つことや甲子園に行くことを求めているのなら、試合に勝つことや甲子園に行くことが目的である。

目的とよく似た概念に目標がある。
目標は目指す位置、場所、標的。
つまり、指標で、主として、数値や場所でされる。

いわば、目的が名で、目標が実を表す。
故に、目的と目標は併記されることが多い。

なぜ、目的をハッキリさせ、皆に伝える必要があるかわかっている。
それはね。
皆で一緒に仕事をするため
一緒に働くため。
一緒に生きる為さ。
だとしたら、自分ひとり理解しても意味ないさ。
目的の意味がわかったら、行動を起こすだろ。
その行動を見れば、目的を理解しているかどうかわかるよ。
何も行動を起こしなければ間違いなく、目的を理解していない。

一緒に仕事をするために目的を明らかにするのだから。
目的は、誰にでも、わかって、納得することでなければならない。
目的の意味がわからない人は、誰でもわかること、納得させられることだと言って馬鹿にする。
でも、それを行動に移そうとしたとき、難しさに気がつく。

組織的に仕事をするためには、最初に目的を一致させる必要がある。
ここでいう目的というのは全体の目的を言う。
そうしないと同じ結果を出すために共同して作業をすることができないからである。
一人でも、「負けたっていいや」とか、「勝ったて負けたって俺は関係ない」と思ている者がいたらチームは組めない。

仕事も、「失敗してもいいや」「会社がどうなっても、俺には関係ない。」と考える者がいたら、会社は危うくなる。
よく、目的や情報を共有しましょうなんて言うけど。
共有ってどういう事、どうすれば共有できるのか。
何でもかんでも共有というけど、なぜ、どうやれば共有できるかがわからなければ虚しいではないか。

共有する事が必要なのは、共同して仕事をしているから。
つまり、チームワークは目的や、情報を共有してないと、まとまりをなくすから。
てんでんバラバラに仕事をやっていたら、いつまでたっても終わらないし、まとまらない。
仕事というのは基本的に共同して一つの事を成し遂げる事。事を成すこと。
その為には、全員が一つの目的や情報を共有する必要がある。

目的をどの範囲まで共有すべきかは思想の問題である。
独裁的、全体主義的体制では、目的は限られた特権階級だけが理解してればいいという思想だし。
民主主義は基本、全員に理解させて起こべきだという思想。オープンな思想なのである。
これは思想。

では、どうするれば、目的や情報を共有できるか。それは、プロセスにある。
組織的に仕事をするというのは、メンバー全員の働きをより集めて、一つの事を成し遂げる事で。
全体をどうまとめるかというと、一つの過程を共有する事で一人ひとりの行動、働きを統一し、全体をまとめる。

目的をどのように、共有するか。
トップから出た話しなら、担当を決めてトップの話を担当に伝え、それを、担当に文書にさせ、上申させる、このような手順を踏むことで、トップ、責任者、担当間で話を共有させる。
この様に、話を整理させ文書にしたり、説明させる、或いは報告させる。
又は、ミィティング、ヒアリング、説明会、イベント、ワークショップなどの作業、行為に置き換え、チームワークにする事で、同じ過程、作業、経験をする事を通じて共有するのである。

チームワークと一人仕事は、根本からして姿勢が違う。
チームワークは、最初から、話し合いから始まるのに対して。
一人仕事は、最初から、他の人を当てにしていない。

チームワークは、話を聞く。聞いた話を報告する。自分の考えを話す。事情を説明する。状況を、伝える。相談する。連絡する。事情は伝える。結果を伝える。指示する。集める。分担すると言った仕事がとなるが一人仕事にはこれらの仕事はないかあっても従である。

仕事には、相手がいる。
やり取りの中で決めていく。
一方的な行為ではない。

教わる気がない人には教えられない。

わかろうとしないとわからない。
目的を教えようと思っても、教わる気のない人には教えられない。

目的なんてと思っている人は、目的を聞こうともしない。
打合せをすればいいでしょと目的なんてどこ吹く風。
こういう人は言われた事しかできないし、言われた事も細部は詰められない。
だから仕事がいい加減、雑になるけど当人は、一向に気がつかない。
自分は言われた事を忠実にやっていると思い込んでいるから改めようがない。

目的がわからないとしようがない。
目的がわかるから、仕様がある。

「明日うち合わせをするから」
「はい、わかりました。」
嘘だ~。それではただやるだけになる。目的もなく。
それで、その場になったから
「今日の打ち合わせの目的は何ですか」
「何だったけ」となる。時間の無駄。

伝えようとしなければ伝えられない。
口に出さなければ、相手には伝わらない。
言わなくても、わかっているでしょと思い込むと、相手に通じてない事に気がつかない。
自分の目線でしか、物事が見えなくなる。
言葉に出さなければ伝わらないし。
言葉に出しただけでは伝わらない事がある。
一回、言っただけで相手が理解できたら苦労はない。

一回、言っただけですべてを理解できるなら、試験なんて意味がない。
一回、教えたら全員が百点満点取れるから。
そういう人もいない事はないけど。正直言て十年ひとり現れるかどうか。
そうなると異常なのである。
一般に、一回、言ったくらいでは伝わらない。

大体、聞こうともしない人間がいるのだから。

教えるという事は、教える側が目的を持ち、教わる側を目的をもっていて、しかも両者の目的が一致していてはじめて成立する。
教える側いくら教えたくても。教わる側が、学ぶ気がなければ教えられないし。
教える側が、生きる為に必要なことを目的とし教えようとしても、教わる側の子が、志望校に合格する事だけを目的としていたら噛み合うわけがない。

お互いに目的を確認しないと。

理解し合う。わかり合う事は、合う事会う事逢う事
教え合うとは、会う事なので。

思っただけでは通じない事だけは、肝に銘じておくべきだ。

それに、はじめから、目的が明確に意識されているとは限らない。
問題は、そこなのだ、目的を一致させ共有させると言っても、最初から明確に言葉で示せるとは限らない。

だから、最初は共鳴共感から、始めるのだ。
最初はなんだかよくわからないけど、でもこの人の言っている事には共感できる。
そしてそれを言葉に出し、一緒の行動しているうちに徐々に鮮明になって来る。
目的とはそういう事。

仕事には目的がある。
そして、それは生きる目的のも結びつく。
でもいきなり生きる目的と言われても。
仕事をしているうちに、仕事の目的が、徐々に明らかになっていく。
そしてその過程で生きる目的にも結び付いていく。

ああ、これが私の生きる目的なんだと、そしてそれが徐々に確信の代わり、使命感や生き甲斐に昇華していく。
その典型が子育てである。
そうは言いても、全体の目的と自分の目的を常に一致させることは難しい。
目的は現実によって実証される。相対的のなのである。条件によって施策は変化する。

自分の目的と全体の目的が一致していると思える時は迷いがない。

この様に、目的を最初から言葉で明確にする事は難しい。
最初、目的は、包括的で抽象的な事にならざるをえない。

だからと言って、目的なんて適当でいいんだと簡単に考えない事。

全体の仕事の目的と自分が仕事をする目的がズレてくることがある。

そうなると、目的がはっきりするまでの間、目的に変わる指針が必要となる。
その指針が方針である。
全体の目的を一致させるのでなく、進むべき方向を一致させることで全体のベクトルを合わせるのである。
方針に従って行動する事で目的を深化させ、顕在化していく。
それで、方針を決めるのである。方向性だけでも一致させる。

進みべき方向を指し示す指針が方針である。

目的意識は、問題意識の源になる。

目的意識は、問題意識。
目的は答えではなく、問題。
目的や方針を考える事で、やる事、作業を洗い出す。
共通の問題を共有することで全体の作業の整合性、統一性を保つ。
だから、目的や方針は最初に決める。
目的は、作業の源泉。
どういうことかというと、優勝する事を目的としたら。
優勝するためには何をしたらいいか。
優勝するためには、どんな練習をしたらいいか。
優勝する為には、どんな仲間を集めたらいいかという具合。
感謝を目的としたら。
誰に感謝するのか。
感謝するとはどんな事かとか。
いつ、どんなふうに感謝するのかとか。

目的をハッキリさせる事ではじめて作業の洗い出しが可能となる。

目的地がハッキリすれば、車で行くか、電車で行くか決まる。
車で行くとなれば、車を手配しなければならなくなる。
電車ならば切符を買いに行かなければならない。
切符を買いに行くなら、目的地と人数などを明確にする必要なる。
こうやって細部や詳細が明らかになっていく。

目的が決まる事で細部が見えてくる。

実際のところ実務の鍵を握っているのは、作業の洗い出しである。
作業を洗い出す前までは、誰でもいける、しかし、作業を洗い出す段になると、(作業を洗い出そうとするると)とたんに思考停止に陥る。
やるべき事、作業が思い浮かばないのである。
しかし、作業、つまり、やる事がわからないと、仕事に取り掛かれない。
そこで仕事は中断してしまう。

目的志向は、問題志向。

食事がしたいのか、お茶したいのか。
食事をすると、目的が定まったら、次に、何を食べてい野化を明らかにする必要がある。
何を食べたいのか分からないと調理はできない。
つまり、何が食べたいのかがわからないと作業はわからない。
何をするか、つまり作業が明らかになって、はじめて、仕事に着手できる。

命令がなぜ訓令と号令に分かれているのか。
それは、訓示と号令の間に一仕事あるからである。
訓示とは、指示の意図を意味する。号令は、実際の作業指示、指図である。
その間にあるのは、実際になにをやるのか。つまり、作業の洗い出しである。
作業を漏れなく抜けなく、重複なくすべて洗い出し、それをやる順、分担を決めて組み立てていく。

これが最大の関門なのだけど、みんな、この前で立ち止まるか、引き返してしまう。
さあどうしようと言った途端、固まるか、切れて怒りだす。

訓示して意図を伝え。日限を切って、それまでにやる事、作業を洗い出し、分担を決めて、指図、作業指示(号令)する。

作業の洗い出しは簡単ではない。手順がある。

ある程度経験がないと仕切れない。

頭を抑えないと、尻に合わせることになる。
目的は、頭になる。
だからこそ、目的を一番に抑えないと、真実は失われる。
「目的は。」と問う事である。

自分の思いがあるから。自分の意志で。
自分の思いや意志を、行動の現わそうとした時、その思いや意志から目的は生まれる。

仕事ができない人は、仕事ができないので。
仕事ができない人は、仕事が教えられない。
仕事ができない人から仕事は学べない。
仕事ができない人から仕事を学べば仕事ができなくなる。

仕事のできない人は、総じて目的がない。

事前に済ませておく手続きは何かという具体的な事が詰められる。

こう考えるといかに目的を持たない、或いは、ハッキリしない仕事が悪質かがわかる。
逆に言うと、目的をハッキリできないリーダー、確認できない事務方が悪質かもわかる。
何も決められないし、何もできなくなるからである。

だから、目的は、決めるれば終わりなのではなくて。
決めてからが始まり。
目的を達成するためにどうしたらいいかを考える。
だから、道に迷ったら目的を考える。

なぜ仕事ができないのか、自分の仕事の目的がわからないで、わかろうともさない。
目的がわからなければ優先順位もわからないし。
仕事も管理できない。
仕事も組み立てられないし。
どこから着手していいかわからないし、結果も出せない。
だから仕事ができない。

自分が、仕事ができない事を知られたくもなく。
口が裂けてもわからないとは言えない。特に、自分の後輩や部下、年下の人には。
だから、空威張りをして、誤魔化そうとする。
できもしないのに安請け合いをし、知ったかぶりをする。
仕事ができないから、追い詰められると癇癪を起して逃げようとする。

仕事ができないのだから、後輩や部下を指導なんてできない。

上司や先輩、同僚が仕事ができないとして、それを理由にして努力を怠れば、早晩、自分も祖ごとのできな人の仲間に入る。

その行き着く先は、仕事をしないおじさんで。
仕事をしないおじさんの実体は、仕事のできないからで。
ある一定の年齢を過ぎて、自分が仕事ができない事に気がついても、すでに手遅れで。

二十代、三十代は、とても大切な時代で、その時、仕事の基本を身に着けないと後がなくなる。
なぜなら、成長のピークが三十代半ばだからである。

これは冷酷な現実で。
今の日本の本当の病巣なんだろうけど。
要は、仕事のできる人がいなくなって、仕事を教えられる人がいなくなった。
なぜ、仕事のできる人がいなくなったのか、その原因はいろいろ考えられるけど、そんなこと言っていたら、仕事のできる人が本当にいなくなる。
だから、自分から、仕事のできる人を見つけ出して学ぶか。
それとも自分の力で仕事のやり方を学び取っていくか二者択一でしかない。

いずれにしても、自分なので。
仕事が学べなくて、仕事ができなくなるのは、自分が、自分の仕事に向き合っていないから。

自分がはたらく目的を考えようともしなくなる。
その時生きる目的も見失う。

大学を卒業しても、自分が何をしていいのか、どんな仕事をしたいのかがわからないのは、自分の人生と向き合ってこなかったから。

目的は、自分のものにしてはじめて、力を発揮する。
なぜなら、目的は動機だからで。
つまり、自分の行動に結びつくことで効力を発揮するからである。
他人の目的など、自分の行動には何の影響もない。
目的を一致させる必要があるのは一緒に行動する為なので。
一緒に行動するにしても、目的が違ったら、最後は対立することになる。
なぜなら、成果を分かち合う事ができないからである。

同床異夢。

大臣になる事を目的にする者と国をよくすることを目的とする者は、大臣になった時に袂を分かつことになる。

サラリーマンは哀れである。
定年を迎えた時に目的を見失う。

武士は生涯、武士だったけど、サラリーマンは、定年を迎えるとサラリーマンでなくなる。

目的をただ聞くだけでなく。
自分のものにしろとよく叱られたよ。
考えるさ、答えは出せないかもしれない。
でも、考えることに意義がある。
面倒くさい、ウザいなんて言っていたら。
そして、知ったかぶり、わかったつもりでなにもしなければ、働かないおじさん予備軍になる。

鬱陶しい、面倒くさい、うざい、そう思うと聞く事もしようとしなくなる。
何が、怖いかと言えば、鬱陶しい人、面倒くさい人、ウザイと言って、相手の性にしてなにも考えなくなる事。思考停止に陥る事。
何も考えなくなる。考えなしに仕事をしようとする。

目的が理解できれば、自分から自分が知りたいことを調べようとしたり、聞きたいことを聞こうとするようになる。
それが、目的を自分のものにするという事。

目的は、何か、知ったかぶりして、わかったつもりになって。

一人ひとりの働きを引き出さない事には組織は成り立たない。
指示しただけでは、一人ひとりの働きを引き出したことにはならない。
指示されたことを、指示された者が実行しないと、指示は効力発揮したことにならない。
指示された者が実行しなかったり、指示された事と違ったことをしたら指示そのものが無意味になる。

指示しても、実行に移されなければ意味がない。
実施されたか否かを確認しなければ、指示に出しっぱなしと叱られた。

「はい」と言って、何もしないのが一番質が悪い。

指示された事と実際にやったことを検証しなければ、指示が正確に伝わったかどうかは分かりようがない。
それが管理。

入力だけでは、駄目で、出力があって、はじめて、組織は敵な仕事は成り立つという事。
たとえば、指示は、指示をされただけでは成り立たず、指示された事を行動に移すことで、成り立つと行く事。
ハッキリ言えば指示されたもやらなければ、指示したこと、指示された事にならない。

組織の働きは双方向で、常に、指示する者と指示された者の両者があって成り立つ。
逆に言えば、指示しただけでは、まだ、半分でしかなく。指示されたことをどのように実行したかを確認しないと、指示した事にはならない。

聞いただけではダメ。
聴いたことを自分のものにして外に発信する。
聴いたことと発信したことを比較し、軌道修正をしていく。

話を一度聞いて理解したと錯覚し、理解したふりをして、自分勝手に仕事をしたら、はじめから、社長の真意から外れていく。
ではどのようにして、聞いたこと(入力)したことを出力するのか。そこに報告の意義と目的がある。
自分の聞いたことを社長当人、上司、同僚、部下、関係者に報告(出力)することで理解度を高め、自分のものにしていく。

多くの場合この過程が欠けているか、不十分なのである。
指示されたことを他の人に指示する。
あるいは聞いた事、見てきたことを報告する。そうすると自分の実力はあからさまになる。
そして元と結果の差を引き比べて絶えず軌道修正をする。

何が間違いの素かというと、入力した事を自分の内に貯めて出力しない事で、何もわからなくなる、決められなくなるので。
要は、理解するためのプロセスが欠けているので。
何回、話し合ったか、何度報告したかが重要となる。報告は相手を変えて繰り返すことが効果的である。
そう指導された。一回聞いたくらいで分かったと思う方が間違っているとも。
また、内容でなく、プロセスだから修正の仕様がある。
聞いてわからない事は、何度、同じ相手から聞いてもわからないものだ。
何度きってもわからなければ聞く相手を変えろと教えられた。
実務は暗記ではない。

人は、皆、違うという事が前提となる。

実務屋としてよく躾けられたのは、個人の性格や能力を問題にしても容易には変えられないし、下手をすると個人攻撃になる。誹謗中傷、感情論が先行したら収拾がつかなくなる。
その場合、仕事の段取りや役割といった仕組みや手順と言ったプロセスを変えて見ろ。見直してみろ。
その為には常に追跡可能性を担保しろ。
アメリカの会計基準が追跡可能性を重視し、科学が実証性を重視するのは、指摘しても改善しようのない事を追求しても意味がないという思想に基づいている。
個人攻撃になるだけで時間の無駄。
それよりプロセスと仕組みをチェックしろと。

わからない事、できない事、間違いに気がついいたら、どうしようと考えるべきで。
わからない事やできない事、間違ったことをいつまでも気に病んでも、何の解決にもならない。
落ち込むのが関の山で。
わからないから、できないから、間違ったから、どうなのという事なので。

生きる目的なんてね。簡単にはわからないですよ。
ただ、考えることを忘れたら。
「俺は何を目的に生きているんだ」と考える事。それが人間らしいことだ。
目的を見失って手段しか残らなくなる。
金儲けが目的化し。地位を得る事が目的となり。
権力や権威にしがみつき。
老醜を晒す事になる。
考える事を忘れたら、欲しか残らなくなる。
自分を律することもできなくなる。

なぜ、若者が、転職するかって。
それは、目的を失うか、見失うからだよ。

それを今の若い者はと言って若者の性にする。
一緒に目的を考えもせず。
自分が目的を見失かったからと言って。
歳をとるとね微妙に目的が変わる。
でも、それが、目的を失ういい訳にはならない。

どんなにいい事を言っても、実行されなければ、実現できない。
実現できなければ、それが正しいことであれば、あるほど、空疎になる。
失望し、絶望する。
若い人がいい事、正しいこと言ったら、それをいかに実行するかを考えるのかが、上の人間の役割仕事。
そしてみんなも、正しい事だと合意したら、それをいかに実行するかを考える。
やってみて、再度それが正しいかどうかを検証する。
やる前から、ああだこうだ言っても仕方がない。

わかってますというのは、わかろうとしていない証拠。
拒否している。

まず聞こう。

目的は、言葉行動結果によって検証される。

約束を守らない人間は信用できない。
約束は、言葉、守るの行動。
約束を守らなければ、自分だって信用できない
自分が信じられなくなる。自信がなくなる。
約束を守るのは相手よりも自分の為。

言葉だけでは、その人の思想の真実は明らかにならない。
本当のところは、行い、行動に表れる。
言葉と行いを比べてみて、思想は理解できる。
私は行動しか信じない。

言葉と行動の間にあるのは、思想である。
ここに、思想や哲学の役割がある。

言葉は行動に結びつく事で重みを増す。

目的を決めるのは、さほど難しくない。
本当に難しいのは、目的を、理解させ、全員に浸透させる事である。
そうしないと、目的は言葉だけで実行されず虚しくなる。

目的を実行すするのは、リーダーだけではないし、目的を決めた人でもない。
それにかかわる全員が目的を実現するために働かなければならない。
だからこそ、目的を全員が自分のものにする、自分のものにできるようにしなければならない。

いくら、「勉強は自分の為にするのですよ」と口で言っても、当人がその目的を理解していなければ行動には移さない。
反発するだけである。勉強するという目的は簡単だけど、それを子供に納得させるのが難しい事なのだ。

いい、正しいと思ったら、次に実行する事を考える。
実行すれば結果が出る。その時はじめて、正しいかどうか理解できる。
それが、わかるという事だ。
何もしないで、わかりましたはない。

大体、言葉を行動に移したところで、その人の本性も実力もあらわになる。
外野席なら何とでもできる。
でも、バッターボックスに立った者は、何も言わない。ただ打つ事のみに集中している。

利益を上げることが目的だとしても。
薄利多売で利益を上げることもできるし。
高級品を価格を維持する事で利益を上げることもできる。
経費を削減して利益を上げることもできる。
新製品を投入する事も有効だ。
皆で頑張って目標をあげる。
売り方を変える。
組織を変える。
コマーシャルを変える。
キャンペーンや、コンテストをやる。

目的は同じでも施策はたくさんある。
しかも何が有効かは事前にはわからない。
目的を具体的に行動にした時、その人の心が顕われる。
実行しなければ全て噓になる。

注意してほしいのは利益は、当座の目的にはなりえても、普遍的目的、最終的目的、究極的目的にはなりえない。

なぜなら、利益を目的とすると利益を上げた時、その効力が消滅してしまうし、利益そのものが相対的の事だからである。

利益を上げる目的は何か。
そこに、普遍的目的、究極的目的が潜んでいる。
それに気がつけば、利益を上げる事は手段と化す。
利益を目的化すると利益を上げることが絶対化し、その背後に隠されている本当の目的が見えなきなる。

なぜ、学問をするのか、その目的が大学を志す目的となる。
それを、大学に合格する事が目的だと見誤ると、勉強をする目的が大学に合格する事になり、勉強をする目的も、さらに生きる目的も大学に合格した瞬間、消滅する。
落第したら、もっと悲惨なことになる。
勉強に挫折したからと言って自殺するのは、本末転倒で。
人は生きる為に学ぶのだから。

人は、食べる為に生きているのではない。
生きる為に食べるのである。

豚に真珠、猫に小判と言うけど。
豚は真珠の為に仲間を売ったりはしない。
猫は小判の為に、仲間を殺したりはしない。
だとしたら、人と、豚や猫。どちらの方が本当の目的を理解していると言えるだろうか。

そうなると目的は、自分の内からもたらされる事である。
自分があって目的がある。
目的があって自分があるわけではない。
そこを間違うと、人は、目的に縛られ、目的によって破滅させられもする。

では国家の目的とはなにか。
国民国家では、国民一人ひとりの生きる目的の凝縮されたところに国家の目的は成立する。
それが憲法の根協、根源である。
目的を成文化して言葉にし、制度として形とする。それが憲法である。

では、国民国家の目的とは、何か。
それは国民の生命と財産を守る事。
つまりは、すべての国民が人間らしく生きられるように保障する事である。

理想憲法なんて言う人いるけど。これほど戯言はない。
憲法は理想ではない。現実である。
実行する事の出来ない憲法は弊害でしかない。

国家の目的が国民の生命財産を守り、人間らしい生活を保障する事するなら。
国民の生命財産を守れるように定めるのが憲法である。
その根本は建国の目的である。

生きる目的とは何か。
自分は七十年生きてきて。
自分は戦後生まれである。
戦争が終わって、八年目くらいに生まれた。
つまりは。戦後の日本の歴史そのものが自分の人生のようなもの。

まだ、自分が生まれた頃は、何もなくて。
今の様な、物質的に恵まれた世の中なんて、夢のようで。
物質的には恵まれていなかったが、みんなで助け合って。分かち合って生きてきた。

今は、あのころから比べて、何不自由なく暮らせる。
ただ、何か肝心な事を失ってしまった気がする。

今の様に、何不自由なく生活ができるようになるまで過程には、いろいろな事があった。
子供の頃は、とにかく生活の為に、がむしゃらになって働いている父や母の姿を見て育ってきた。
それから高度成長、それこそ、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵器。
電話だってあるうちが少なく。
それがカラーテレビに、エアコン、自動車も普及して。
今は、携帯も当たり前だし、インターネットに海外旅行。世界中のごちそうが街にあふれている。

でも若者たちの目から生気が失われてしまった。
どんなにおいしものを食べても、子供の頃に食べた、ラーメンの味ほどの感動は得られない。なぜだろう。

志とか、生きる目的とか、夢なんて言うと。
しらけるとか、うざいとか言われてしまい。

誰でも大学へ行けるようになったけど。
結局、なんのために大学に行くのか目的を見失ってしまっている若者ばかり。

働くことの意義とか目的なんて、聞くだけ野暮というもの。
大学に行ったら、勉強なんてしないで遊びさ、もう受験なんてないんだから。
遊んで人生経験を積むなんて教えてる人いるけど。
彼等は、成功している。
目的もなく大学へ行って、勉強もせず大学を卒業する。
大学を出たところで、どう生きていったらいいのかわからずに、仕事にもつかず、引きこもりのような。

なぜと聞いても、誰もわからない。解ろうともしない。
考えもしない。
考える力もなく。

そうなると、結局、金のために働いているんじゃないかと。
上手いもの食べて、好きなところに旅して、ゴルフして、遊んで暮らせばいい。
汗水たらして働くなんて貧乏人のする事。
楽して金儲けをする事ばかり考えて。
大学で勉強なんてするのは、馬鹿げてると。

今の、若者たちの生きざまを見ていると。
そして、働かないおじさんなんて言われてしまったら。
あえて、生きる目的とか、働くことの意義を問いたくもなる。
我々は、もう一度原点に立ち返らないと。
金儲けは手段に過ぎないと。
金儲けを目的に生きてきたんではないと、言い切る為にね。
だから、年寄こそ、志が必要なのだ。

次の時代に、志を託すにしてもあまりに貧相な。
結局、我々は本当に豊かになったのだろうか。

問題は、答えではなくて、設問。

生きる目的とは、答えではなく、問題の核心。

生きる目的を幸せになる事としたら。どうしたら幸せになれるかを考える。
生きる目的を人のために役に立つ事とするなら。
何をしたら、役に立つかを考える。

目的を見失ったり、持てなくなると、人は、考えなくなる。

人生は、目的を持って、行動して、結果を出し、そして、また、目的に戻る。その繰り返しなのだ。

金儲けは、手段であって、目的にはならない。
なぜなら、金を儲けるだけでは、求める結果や、状態にはならないからである。
目的は、金を儲けて何に使うかにある。

目的は、達成した時、役割を終える。

大学に合格する事を目的としたら、大学に合格した瞬間、目的を失う。
大臣になることを目的とする者は、大臣になれば目的を失う。
目的を失うと得たものに執着するようになる。
得たものがすべてだからである。
生きる目的は、生きることに根ざしていなければならない。
なぜなら、生きる目的だから。

生きる目的は、例えば、正しく生きる事。
誠実に生きる事。
自分に正直に生きる事。
世のため、人のために生きる。
国を良くするために尽くす事。
平和にすることを目的に生きる。
真理を明らかにすることを目的にする。

なぜ、生きる目的を持つ必要があるのか。
それは、生きる目的は、自分の考えの根拠となるからで。
生きる目的がはっきりしなければ感情論にしかならないからだ。
戦争は嫌だと言っても目的もなく、ただ、「嫌な事は嫌だ。」としかいえない。
たとえば、「自分に正直に生きる事が生きる目的だ。だから、戦争は嫌だからいやだ。」
これでも一応の筋はとる。
人々を幸せにすることを目的に生きていきたい。
戦争は、人を不幸にする、だから、戦争には反対です。これでも筋が通てくる。
ただ、「厭だからいやだ。」では感情論に過ぎない。

仕事を辞めるにしても、「厭だからやめた。」と言ったら話の筋が通らない。
それは単なる感情論に過ぎない。

政治家は、少なくともこの国をよくしたいという目的を持つべきなので。
その目的は、志にも通じる。
この国をよくしたいというのは、当たり前に、愛国心に根差す。
日本の国民の為に、この国をよくしたいとすれば、一本筋が通る。

この国をよくするという目的を持っているのか。
それは、政治を志す根本的動機なのだ。
そして、その目的があるからこそ自分を律する事ができる。
金の為でもなく、地位の為でもなく、名声の為にでもない。
生きる目的だからだ。
生きる目的を忘れた時、人は罪を犯す。

国を護るという目的は、時として、戦うか、戦わざるかの正反対の意見を生む。
しかし、根本の目的が一致できれば話し合う余地がある。
国を護るという意志がなければ、話し合う事はできない。
なぜなら、感情論に過ぎないからである。

生きる目的の為だから、自分を制する事ができ、自分の限界にも挑むことができる。

生きる目的とは、生きる為に何をすべきかを問う事であり。
生きる為とは、生きた結果、自分が何を成し遂げられるかにある。
より良い結果を追い求めるから、目的は、見果てぬ夢になる。