人は皆死ぬというけれど、私は、これは間違いだと思うのですね。
なぜなら、生きている人は死んでいないんですから。
そして人は死ぬまで生きているんですよ。
だとしたら、人は、死という事を自覚できるのでしょうか。
我々が死というのを知覚するのは、他人の死、特に近しい人の死によるのだと。
私も、不思議なことに、若いころより年をとってからのほうが死を恐れるようになった気がする。
若い奴は、若い頃は、死なんて恐れない、無鉄砲だった気がします。
死を恐れるというのは死によってこの世の全てが消滅するから。
記憶も、自分がこれまで生きてきた記憶、築き上げてきた人間関係。
学んできて来たこと、地位も財産も、何もかも意味を失ってしまう。
愛し合った事。好きだとか、嫌いだとか言ったところで。過ぎ去ってしまえば。遠い昔。
友との思い出。意気投合した事。激論した事。喧嘩した思い出。
仕事で成し遂げたこと。勝ち取った地位とか、名誉とか。
汗水垂らして築いた財産。家を建てた事。
これまで学んで得た知識。経験によって磨いてきた技術。
そう言った一切合切が否定され、弊履の如く、闇に葬られてしまう。

だから、ついつい、死後の保証がほしくなる。
それで名前だの。靖国に祭られたい、神に縋る。
そんな保証、何になるのでしょう。
自分は最近、そんなことを考えるように。
死が怖いのは、死ぬ苦しみですかね。
例えば、国の為とか、大義とか、神と言っても死んでしまえばおしまい。
それよりこの今を最善に生きる事ですかね。
死んだ後の事は死んだあと考えればいい。
この世の真実ですね。
そりゃあ、大谷翔平のようなものもいれば、何で、なんでこんなに理不尽なという境遇にいる人もいる。
それはそれで、仕方ないじゃないですか。
幸い、私は、人並みの生活ができる境遇にあるから言えるのかもしれませんがね。
でも、それだっていつ急変するか。
不幸なんていつ何時ですね。
ウクライナや、東日本なんて見ますと。

以前、飼っていたインコが死にましてね、それを、一緒に飼っていたインコを見ますと何かを感じているんですね。小鳥だって、死を恐れる。

今、おひとりなんですか。
その方が心配ですね。

孤独死だってそれを認知するのは、生きている人で。
当人は、どこまで、認識しているかは、闇の中ですよ。
正直わからない。
それより孤独なのは生きている今の自分で。
それが心配なんですよ。

今の日本人とか、パレスチナなんて考えますとね。
仕様がないでしょ、投げ出すわけにはいきませんものね。
死ぬまで。
じゃあ自分に何ができます。
自分の死すら何ともできないんですから。
結局どこまで行っても生々しいんですよ。

遠い国の惨劇を聞いても、飼っていたインコに死なれた方が辛い。
なぜ、人は、生きる事にどん欲になれないんですかね。
テレビ見たって能天気ですよ。
うまいもの食って、遊び暮らして…。
無為に老いさらばえていく。

若い頃の力も、肉体も取り戻せない。
気が付いた時は手遅れですね。
それが残酷なほどの現実。
この今の、この一瞬のきらめきを大切にしてとしか言えない。
違いますか。だってそこにしか真実は見いだせないではないですから。
老いた母を見るたびにですね。
いとおしくも、いたわしい。悲しくなるんですね。
そして、神に祈るのです。ああ神様と。

僕は思うのですけど。
この世は情報空間なんですね。
これは、今情報社会というのと違う意味で。
知らない。
友の死をしらなければ、その友は、今も生きているんです。
つまり、自分にとってこの世というのは情報で成り立っている。
あの世の情報がないから、あの世はないので。
孤独というのは、情報が遮断されていることで。
ただ、空間的に、物理的に一人だからと言って孤独とは言えないんですよ。
何が言いたいかと言えば、こうやって情報でつながっていれば孤独ではないはずと。

部屋の電気を消してですね、蝋燭一つ灯すじゃないですか。
そうすると闇の向こうに世界が広がるのです。
現代社会は、白昼の文化。
本当の浪漫派、暗闇にこそある。
文化は夜開く。
見えない、わからないからこそ、空想力が働くので。
実際に見える世界の真実なんて皮相ではないですか。
闇を恐れてばかりで、いつの間にか文化が砂漠化した。
暗闇を恐れなければ孤独にはなりませんよ。
だって、空想の世界の友がいますから。
絆が。マッチ売りの少女の世界が。

闇を味方にする事ですよ。
闇の中には懐かしい友、亡き父。失われた世界が蘇るのです。
夢は、夜開く。

総てを知ることが救いになるとは思えませんね。逝った友も親も。
ただ、遠くにいたと思えば、そう信じられれば。
ただ、遠くに行って、音信が不通になったと思えば、自分の心の内には生きているんですよ。
そう思えば一人ではない。
だから、日本には陰膳があるし。
高野山では空海はまだ生きていることになっている。
要は、お隠れになったんですね。
隠れただけですよ。
空想の中では都合のいい奴、いい奴なんですよ。
知らなくていい事は知らなくていいじゃないですか。
総ては闇の中。汚いところは闇に隠して。
それがロマンですよ。

七十過ぎて。
若い頃、自分は何を夢見て、何を志してきたか。
そしてどこまで果たせたか。
少なくとも、半世紀、五十年、馬鹿みたいに追い求めてきて、まだ、あきらめていない(笑)
その間誰からも、評価されも、認められもしなかったけど。
でも悔いはしないです。
僕は僕の道だけを見てきた結果ですね。
それなりに納得できるし。
神に感謝もできる。
それが、今の心境ですね。
どんな定めも受け入れられる。
やっとですね、そんな心境になれました。
もう何にもいらない。