できない事をできないと。
わからないことを分からないと認めた時、はじめて仕事ができる。
一人では何もできないと悟った時、共に生きる事を知る。
一番、問題なのはオール・オア・ナッシング。
万能だと過信したかと思ったら、すぐに、何もできないと落ち込む。
自分は正しいと言い張って、譲ろうともしない。

親ならわかる。

宿題やった。
明日の準備できた。
傘、持った。
後片付けは。
整理くらい自分でしなさい。
自分で謝るのよ。
いつまでゲームしてるの。
早く寝なさい。

忘れ物をしたら。バケツを持ってったされた。
今は、親の責任である。

子供にしてみれば、
うっせ。うっせ。うっせなである。

俺だって、若いころは、反発も、反抗もした。
でも、この歳になると注意をする人もいなくなる。
自分で、自分の始末をつけなければならなくなる。
よく言われたよ。
歳をとればわかるよ。
親になればわかるよ。
確かに、身に沁みる。

面倒くさい。
じれったい。
うざい。
つまんない。
面白くないである。
勉強が忙しい。
ゲームに夢中。
ほっといて。

放ておけるか。

言わなくてもできるだろといい。
言われなくてもできるよと言いたい。
でも、できない。やらない。
報告も、確認もできない事は、できない。やらない。
やる気がない。
習慣になているかどうかの問題だからです。
だから、親は、真剣に躾けようとする。

やりすぎれば虐待と言われる。
でも、身についていないと社会生活が営めない。
論より証拠で、引きこもりや、ニート、不適合障害、未婚や、鬱が増えている。
僕らの子供の頃は人前で子供の尻を叩く親は褒められたもの。
今は、虐待と摘発される。

親父が、「俺が、お前に厳しくするのは、社会に出てから困らないようにするためだ。」という声が、今でも聞こえてくる。

今の親は、勉強だけしていればいいという。
俺たちが子供の頃は、家の手伝いが先で、勉強は、自分の仕事が終わった後。
丁稚に出され人には、電柱に昇って、電柱の灯で勉強をしたという話も聞いた事さえある。
それはそれで、問題なのかもしれないが。
あの頃の親とっては、学校の勉強より、生きる術を躾けることが大切だったのである。
人間は、生きていくために、学ばなければならない事が、たくさんある。
学校の勉強だけしていれば、いいというわけには、いかないのである。
今でも、世界には、学校に行きたくてもいけない子がたくさんいる。
それでも彼らは、必死に生きている。学んでいる。

人は、一人だけでは生きらない。
人が、一人の社会人として、自立するためには、人と人の関係を築く術を身につける必要がある。
学校は、本来集団生活の場の筈なのに、人と人の関係を粗雑にしか教えない。
だから、苛めだの、不登校、引きこもり、学級崩壊が絶えない。

あんこだけの仕事はするな。
饅頭は、餡子だけでできているわけではないよ。
よく先輩に叱られたな。
細胞だって、核だけでできているわけではない。
核心は、繊細で、脆いもである。
卵の黄身は、柔軟に形を変える白味によって守られている。
人間は、一人では弱い存在。心は、もっと、脆い、脆い。
心は、自分取り巻く多くの人との人間関係によって守られている。
人は、大人になる過程で、人と人との関係を正しく築く知識や技術を身に着ける必要がある。

自分のことだけ、勉強のことだけ考えていればいいのよ。
いい学校さえ出せば、それで親の責任を果たせると、いつの頃か、錯覚し始めた。

自分の事ばかり考えて、全体の中の自分の役割が見えていない。

料理屋は、料理だけ、作ていればいいという、わけではない。
お客様が食事ができる場所、店を建てる。
そのための資金も用意しなければならない。
広告をし。注文を取り。接客をする。
店の掃除も、後片付けも仕事の内。
店が不衛生では、店の信用はできない。
食中毒なんて出したら、営業停止になる。

核心は弱い。
自分の内心は弱い。
人と人との付き合い方が悪いと、自分の内心は、守れず。
自己崩壊、自己喪失を招く。
これは、薬では治らない。
付き合い方の問題だから。

朝、確認して。夕に報告する。

何でもないこと。
できて当たり前なこと。
やれば何でもないこと。

でも、めんどくせえ。
鬱陶しい。
わずらわしい。
今でなくたって。
明日やればいいでしょ。
まだ日もあるし。
そのうちやりますよ。
時間がない。
今、やろうと思ってたのに。
忘れるわけないでしょ。
なんで、そんのこと一々、言わなければならないの。
報告する必要あるの。
覚える必要ある。
言わなければわからないの。伝わらないの。

報告しなくたってちゃんとやりますよ。
確認なてしなくても、やればいいんでしょ。
干渉しないで。
なんか文句あるの。
任せてくれたんじゃないの。

確認や報告なんて、どうでもいいように思えるのです。
事実、どうでもよくなってきた。

確認や報告の働きを誰も理解しようとも、教えようともしない。
報告もしないで、何もわかっていないはない。
報告をしなければ、何もわからない。
相手が、わかるよに報告するのは仕事を請け負ったものの最低限の義務。
何もわかっていないのは、報告を怠った者。
報告されたない事は、やってない事。

確認と報告は、仕事の始まりと終わりを画定し、作業単位を明確にする。
確認と報告を怠ると次のような弊害が起こる。

仕事の区切りがつかなくなる。
きりがなくなる。
けじめがつかない。
際限がなくなり。
連携が取れなくなる。
それぞれの仕事の進捗状況、わからなくなり、全体の統制が取れなくなる。
仕事の組み換えができなくなる。
問題が起きた時、原因までたどれなくなり。
対策がとれない。
責任の所在が分からなくなる。
前処理、後処理の計画が断たなくなる。

報告確認をしなければ。

仕事と仕事のつなぎができない。
何を、やっているのか。
どこまでやっているのかわからない。
仕事の整理がつかない。
目先の仕事にとらわれて、周囲が見えない。
段取り、組み立てができない。
筋が読めない、通せない。
わけがわからなくなる。
人の話が聞けなくなる。
報告も、確認もできなければ一人合点するしかなくなる。
誰にも聞けない。わからない。
誰も、認めても、わかってもくれない状態を、自分で招く。

問題が生じた時、頭から確認できないと、結果から遡るしかなくなる。
結局、尻からだと、既成事実を積み上げざるを得ないから、作業が逆流する。
結果から、原因を探る事になるから、本末転倒する。

会議、打ち合わせが終わったら。結論を確認し、段取り、手配をして、指示する。

準備、後片付けも仕事の内。
前処理というのは、準備、支度、用意、点検、点呼、確認、お膳立て、根回し、下ごしらえ、段取り、受け付け、集合、手配等。
後処理は、後片付け、後始末、報告、最終確認、点検、記録、整理整頓、道具の手入れ、清掃、保存、解散などである。

準備後片付けができるようになったら、本業を教えてくれた。
満足に準備、後片付けができないうちは、いつまでたっても、下働きである。
一見、理不尽に思えるけれど、後になって考えると道理にかなっている。
なぜなら、職人と素人の差は、前処理、後処理の差だからである。

責任者の仕事は、前処理、後処理にある。
目に見えないところにある。
マネージャーの役割も。
ところが、準備、後始末は親の仕事。上司の役割と思い込んでいる。
会議に、何の準備もせずに出席し、メモすら取らない。
会議終了したら、誰にも報告せず、仕事にかかる準備もしない。
会議の準備は、私に仕事ですかと事務方が言い出す始末。

お前がやらずに、誰がやる。

だから、何も決められない。始まらない。