叱るのも注意するのも難しい。
なぜなら、叱られる側、叱る側、注意される側、注意する側、双方が不愉快で嫌なことだからである。
一般に、叱られる側、注意される側は不愉快で、嫌だけど、叱る側は、注意する側、そうでもないと考えがちだが、実際は、叱ったり、注意する側も不愉快で、嫌な事だ。
むしろ、叱る方が不愉快で嫌な事だ。
叱る事や注意することが不愉快で、嫌だと感じない人間がいたら、それはそれで、違う意味で問題だ。
叱られる者に同情する者はいても、叱る者に同情する者はいない。
自分が不愉快に思うことは、他人にしてはならないと躾けられている人間には、注意したり、叱るのは、かなりのストレスになる。
人を注意するにも、叱るにも、勇気がいる。
注意したら、いきなり殴られたり、逆恨みされたり、酷い時は殺されることさえある。
じゃあ、何故、不愉快で、嫌なのに、叱ったり、注意したりするのか。
叱られたり、注意される人より、叱ったり、注意する人の方が辛い。
それは、母親と子供を見ればわかる。
母親だから子供を叱るのである。
母が子を叱る理由を考えれば、何故、注意したり、叱るのか、その理由が見えてくる。
母親は、子が憎くて叱るわけではない。
母親は、子供が可愛いから、愛してるから、責任があるから、叱るのである。
叱るにせよ、注意するにせよ、理由がある。
その理由がわからなければ、叱る事も注意する事もできないし、また、しない。
叱るのは、叱る側も不愉快なのである。
なぜ、不愉快で、嫌なことをするのか。
不愉快で、嫌な事だから効果が期待できるからである。
不愉快な思い、嫌な思いをさせるには、不愉快な思い、嫌な思いをさせる理由がある。
第一には、自分の身を自分で護る事を覚えさせるため。(護身)
第二には、規則や指示を守らせるため。(礼節・処世)
第三には、道理を学ばせるため。(道徳)
安全に関わる事とは、主として子供の頃に受ける注意で、親の言いつけを守らなければならないとか、道路に飛び出してはいけないとか、見知らない人について行ってはいけないと言った注意である。
要するに、相手が、危ない事をしないように、危険なところに近づかないようにするためである。
だから、その時、その場で咄嗟的に注意する。
生存に関わる事であり。そもそも、生きていくために不可欠なことに関する注意であるから、母親は、真剣に叱る。
危ない事を注意するのは、子供だけではない。
大人になっても、危ない場所に行ったら皆で注意し合う。
組織人として何を守るのか。
組織には、固有の価値観がある。
それは、組織が合目的的集団だからである。
つまり、職業から生じる価値観、状況によって前提条件が変わり、行動が制約されるからである。
例えば、医師には、医師が守らなければならないことがあり。
教師には、教師が、母親には、母親が、警察官には、警察官が、軍人には、軍人が守らなければならない事がある。
また、組織には、立場、立ち位置、役割によって守らなければならないことが違ってくる。
朝、何時までに登校、あるいは、出社しなければならないかが決められてる場合、遅刻したら、注意を受けるし、注意しなければならない。
組織には、それぞれ、固有の規則があり、規則が守られなければ組織は維持できないからで。
規則には、罰則が定められており、故に、違反した場合、注意することが義務付けられている。この場合の注意は、警告でもある。
組織に属する者は、あらかじめ定められた者の指示に従わなければならない。
指示した者は、自分の指示に責任を持たなければならない。
指示に従わなければ注意する。
組織では、役割、役職によって守るべきものが違っているし。
また、注意できる者も決まっている。
逆に言えば、注意しなければならない立場、役職にある者が注意しないと責任が問われる。
今日の自由主義社会では、それは、組織を構成する人たちの合意、すなわち、契約に基づく事とする。
設計と施工では注意するところも違う。
処世というのは、社会に出た時、人と人との間の、身の処し方である。
これが身についていないと、社会人になってから正常な人間関係が築けない。
挨拶の仕方、お礼の仕方などは、実際の場で、注意して習得させる。
こういう事は、やらせて注意しないと身につかない。
恥は、かいて知る事。
話の仕方、口のきき方、話の聞き方。
謝り方、断り方。
それこそ、注意の仕方、しかり方。
注意の仕方、叱り方だけでなく。
注意のされ方、叱られ方も注意される。
始め方、終わり方。
返事の仕方、返事の聞き方。
礼儀は、注意しながら、叱りながら、躾ける。身につけさせる。
戸の開け閉め。
食事の仕方。
部屋の入り方、出方。
片付け。整理・整頓。
身だしなみに、行儀。
些細で、細かいことで、腹も立つけど、注意されないとできない。
注意する側も、面倒くさくて、鬱陶しい。
だから、疎かになりやすいが、疎かにすると、すぐに、人間関係が刺々しく、ギスギスしてくる。
年を取ってから注意されると感情的になるが、年寄りでも、基本ができていない人はいるし。近年、増えている。年を取って常識がないというのは困りものである。
年を取ると誰も注意も叱る事もできなくなるからである。
大体、年寄りは注意しても聞かない。
問題となるの思想的な部分で。
企業理念や目的は、根幹を形成する部分でもあるからだ。
思想と言っても、個人の思想信条に抵触していなければ問題はない。
しかし、宗教は、生活の隅々まで行き渡っているのに、日本人は鈍感なところがある。
宗教は、食べ物や、着る服、生活習慣にまで及んでいる。
また、日本人社会は、異常に高い、国民的合意、コンセンサスの上に成り立っている。
ところが、肝心の日本人は無自覚ときている。
自分たちの常識がどこでも通用すると思い込んでいる。
その為に、根本的な事で、わかっているでしょと、曖昧にしたままで、話を進めてしまい、後で話が違うという事になる。言った言わないと争う事にもなる。
特に、世代間の違い、ギャップに気がついていない場合がある。
人として守らなければならない事は、伝統的価値観に基づいて注意され、躾けられる。
人として守らなければならなければならない事とは、例えば、嘘をついてはならないとか、人を傷つけてはならないとか、人のものを盗んではならないとか言った事である。
つまり、親から子へ、子から孫へと代々引き継がれ、伝承される事で、文化や伝統、歴史、宗教に基づく。
要するに、何を信じるか、信じているかによって定まる。
戦後、日本人はこの根本が揺らいでいるのである。
危ない事、組織人として、社会人としてしてはならない事、人としてしてはならない事の三つの事を叱るか、注意する。
注意しないと、三つの事が守れなくなるからである。
だから、母親は、子供が泣こうと喚こうと注意をし、叱るのである。
三つの事が守れなければ、一人前の社会人として自立できない。
だから、母親は、心で泣いて、かわいい子を叱るのである。
この事を考えると、部下を叱れない上司が、なぜ、無責任かがわかる。
要するに、子供を叱ったり、注意できない親と同じだという事である。
注意する側、叱る側は、自分が正しいことをしているという確信がなければ注意も、叱る事もできない。
この点が問題なのだ。
自分の躾が正しいと確信の持てる親がどれほどいるだろう。
だから、母親は、常に自分と葛藤しながら、子供と向き合っているのである。
自信がなければ、叱る事も、注意する事もできない。
だから、叱る人も、注意する人も、真剣でなければできない。
叱る人、注意する人は、相手と対峙し、勝負をしている。
叱ろうとしなければできないし、注意しようとしなければ、注意はできない。
つまり、強い意志が必要なのである。
注意したり、叱る時は、自信をもって、注意しなければ、叱らなければならない。
それは、しんどいもの。
母親は、間違いが許されないのだからね。
それが、母親の重さ。
注意するとか、叱るという事は、相手に不愉快なことをし、感情的になることを覚悟しないとできない。
また、相手を傷つける事にもなるので、注意した後、叱った後、相当に落ち込む人が多い。
自分の真意は伝わっただろうか、相手は、傷ついていないだろうかと。
それでいて、なかなか、周囲の人は理解できない。
単純にストレスを解消したにすぎないなんて、ひどい事を言う人さえいる。。
その点を理解していないと注意された者も、叱られた者も報われない。
注意する事も、叱る事も両刃の剣。
注意された者も、注意した側も、傷つくのである。
母親は、満身創痍になって子を叱る。
子を叱る事で、母親も成長する。
母親が子供を叱ると、子供は泣いて嫌がる。
でもここで、心を鬼にして子供を叱らないと大きくなってから苦労する、そう思うから叱るので。
子供を叱る母親は切ない。見返りを求めていないからだ。
𠮟りながら、何故、言う事きかないの、わかってくれないのと、母も泣く。
無償の愛があるからできる事で。
それは動物も同じ。命がけで護り育て、餌の取り方を教えた雛も。
巣立てば、親を忘れる。忘れるどころか、餌を争って襲って来る者すらいる。
それでも、親鳥は、自分の温もりで卵を抱くのである。
母は、子がわかろうと、わかるまいと叱る。
反発しようが、反抗しようが、叱らなければならない時は叱る。
それは、自分が叱らなければ、一生、子供を不幸にすると思い詰めているからだ。
肝心なのは、わかるわからないの問題ではなく。
わからなければ、生きていけないと思い詰めている事だ。
子を叱るのは、母親にとって身を斬られる様な思いで…。
部下を叱れない上司は、部下に見返りを求めている。
だから、部下に媚びているのである。
部下の同情をあてにしている。
注意する事も、叱る事もできないのは、自分がかわいいから。
自分が、嫌われたくないから、よく思われたいから。
ただ、相手に媚びているだけで、本当に、相手の事を思っているからではない。
これだけは確かな事。
要するに、自分から逃げている。
克己復礼。注意すべき時、ところで注意できないのは、自分に負け、相手に対する礼がない事。
部下を育てるために、厳しくするのは、パワハラではない。
それで訴えたければ、訴えればいい。
ただ、だからと言って自分の責務は捨てることは許されない。
なぜなら、それは親が親でなくなるような事だからである。
叱る者は、自分を犠牲にしている。
誰かが、言わなければ、叱らなければと覚悟するから。
注意したところで、叱ったところで、相手が聞いてくれるとは限らない。
反発して食って掛かる事も。
怒って飛び出していく事もある。
それでも、誰かが注意しなければ、道を誤ると思うから。
だから、母は子を叱るので。
無頼漢が乱暴狼藉しても、後難を恐れて注意しないのは、勇気がないだけで。
注意するのは覚悟がいる。
何故、不愉快で嫌な思いをさせるのか。
それは、不愉快で嫌な思いをしなければ改めないからだ。
不愉快な思い、嫌な思いをさせることで、指示や規則を守らせようとするからである。
不愉快な思いをしたくないから、叱られなように、改めるので。
嫌な事でなければ、改めはしない。
注意したり、叱る時は、相手に不愉快な思いをさせているという事を自覚する必要がある。
問題は、注意する事、叱る動機の正当性にある。
本当に、必要な事だから、叱ったり、注意したのか。
自分の力を誇示せんがためではなかったのか。腹いせではなかったか。
腹立ちまぎれに叱ったのではないのか。
何故、注意する必要があるのか。叱らなければならないのか。
その意味も解らずに、人に注意したり、叱れば、唯威張り散らしているようにしか見えない。
自分の力を誇示せんがために、注意しているようにしか、或いは怒鳴り散らしているようにしか見えない。
それでは、人は言う事を聞かない。
注意したり、叱るのは、注意したり、叱る事で、改めなければならない事があるからだ。
人は一人では生きられない。
人が、助け合って生きていく為には、何らかの決まり、掟、法が必要となる。
お互いに、不愉快な事、嫌な事をするのだから、感情的になりやすい。
興奮すると、暴言を吐いたり、暴力行為に及ぶこともある。
叱られたり、注意された側が、叱られた事や注意された事に納得している場合は、それでも、収まるが、納得していない場合は、行動を改めず、反発や反抗的な態度を取り続けることになりかねない。
中には、注意されたことを恨みに思う者も出る。逆恨みする。
注意すること自体にリスクがある。
注意したばかりに災難にあった人は多くいる。
叱ったり、注意するところは、個人の思想と全体の思想の相克点である。
職務上の注意以外は、誰に対しても、いつでも、どこでも、許されている。
例えば、タバコを吸ってはならない所で、タバコを吸っていたら。
「タバコを吸わないでください。」とか。
飲食が禁じられているところで、食べ物を食べていたら。
「食事はしないでください。」とか。
騒いではいけない所で、騒いでいたら。
「静かにしてください。」(注意)
「静かに」(叱る)という具合である。
また、安全に関することは、間髪を入れずに。
「危ない。」「逃げて。」と注意する。
組織的に見て、社会的に見て、どこまでが個人の領域に属し、どこまでが、全体的な問題なのか。その境界線はどこか。
それは、極めて、思想的な問題なので。
今日の自由主義社会では、それは、組織を構成する人たちの合意、すなわち、契約に基づく事とする。
注意する側、叱られる側の言い分、思想が正しいと、注意される側、叱られる側が認めている場合は、問題ないが、自分の思想、言い分が正しいと思っている場合は、一筋縄ではいかなくなる。
今日の自由主義社会では、それは、組織を構成する人たちの合意、すなわち、契約に基づく事とする。
叱るのと、怒るのは、違う。
叱っても、従わないのは、怒っているからで。
それは、なぜ叱られているのか。
叱られている事に納得していないか。
叱られている理由がわからないからだ。
怒りとは、世の中の不正や悪、不愉快なことに対する私的な感情。
叱られた理由や原因がわからなかったり、納得がいかないと叱られた人は、怒られたと感じる。
事前に注意、説明しておかないと叱られていることが理解できない。
女の癖にとか、年下なのにとか、馬鹿にしているのかというのは怒り。
怒りに任せて注意する事は許されない。
子供の頃はね、言われた事を言われたとおりにやってればいいかもしれないが、大人になったらそうはいかない。
なぜ、どうして。
目的や、考え方を説明しないと、「子ども扱いしないでください」と注意される。
それを理解しない人は、頭ごなしに怒鳴りつける。
それでは、注意も、へったくりもない。
一定の年齢に達したら、きちんと理由を説明する義務がある。
何に納得できないのか、そこが問題である。
組織には、組織を維持、統制をする必要から、職務上、注意しなければならない事がある。
仕事で注意されて納得できないのは、職務上の注意は仕事に関わることで、前提条件によって納得感が違ってくるからである。
第一に考えられるのは、注意された事が自分の仕事と関わりがない事だと思われる時。
第二に、注意された事が、自分の責任ではないと感じた時。自分は指示に従っただけ等。
第三に、注意された事が、考えと違う時。(遅刻して何が悪い等)
第四に、注意された事が、相手の誤解だと思った時。相手が間違っている。
第五に、注意した人間が同じことをしている。信じられない。(あなただってやってるじゃない等)
第六に、自分だけ差別されていると感じた時。
第七に、最初から、規則や指示に従う意志がない。
第八に、指示や、命令が、最初から理不尽、実行不可能な事だから。
第九に、指示が要件を満たしていない。きちんとした指示が出されていない。
第十に、規則や指示が理解できない
第十一に、事前に説明された事、合意したことと違う場合。話が違う。聞いてないよ。
第十二に、筋が違う。あなたには、私を注意する権限がない等。
基本的に、組織では、正当な理由がなければ規則や指示に従わなければならない。
しかし、指示されたことに納得がいかない場合は、注意されても従わない事が多い。
特に最近、指示は強制だから、従う必要がないと教育している学校があるから始末が悪い。
ただ、注意を有効にするためには、事前に、説明・注意しておく必要がある。
そこに教育の目的の一つがある。
事前に、何の理由も説明されず、盲目的な服従、隷従が求められた時。
筋違いな指示がされた時。
曖昧で、無責任な指示をされた時。
注意されたり、叱られても反抗的にならざるをえない。
パワハラというのは権力の乱用を言う。
だから、同じ注意でも、相手が筋が通らないと思えばパワハラになる。
事前に、会議中は私語を慎むこととか、廊下は走らないようにとか、指示はよく聞くこととか。
これを常識だから、言わなくてもわかるでしょと思い込んで、説明責任を怠ると、思わぬ反発を受ける事がある。「わかっているだろ」とか、「常識じゃあない」というのは通用しない。
規則があったら、わかるわからないにかかわらず、事前に了承を取る必要がある。
事前の、了解をえずに、事後、理由を説明しても納得を得られない事がある。
特に「ここは日本です」というのも通用しない。
自分の常識が、普遍的だとする根拠はない。
自分の考えが常識で、相手には常識がないと決めつけている人が多く見受けられるが、世の中には、いろいろな人がいて、絶対的な常識はない。自分が絶対に正しいと思うのは、信仰に近い。
日本人の価値観は処世術に基づくことが多い。
例えば、正直でなければ信用されないみたいな。
それに対し、一神教徒の価値観は信仰に基づく。
神かけて約束は守るというように。
人と人の約束など信じない。
だから、一神教徒から見て日本人は信用できない。
多くの日本人は、「日本人ならわかるでしょ」と、冒頭の説明を怠ったり、また遠慮して聞かなかったりする性癖があるが、自由主義世界では通用しない。
一流割烹の仲居と大衆食堂の店員との差。
一流割烹では、経験のあるなしに関わらず、総て、初心者として戸の開け閉めから躾ける。
それに対し大衆食堂では、基本的な常識はあるだろうと何も躾けないで、後で注意するから、叱られた意味も分からず反発、反抗心だけ残ると。
日本人は、なぜという説明を面倒くさがって、端折(はしょ)る癖がある。
しかし、何故という理由がわからないと注意されても、ピンとこない。
理由もわからず、仕事をさせられたら、いつまで経っても納得がえられない。
わかる、わからないに関わらず、事前に一通りに説明しておく事が後々意味を持ってくる。
やらなければ、わからないことが数多くあるからである。
やっていて気がついた時、事前に注意されていれば、気がついた時点で、再度注意されても素直に聞けるからである。
注意された事に納得しない原因の多くは、事前に説明がされてない、事情が理解できない、必要な情報が不足しているなどである。
不愉快の事を指摘するのだから、注意の仕方、タイミング、言い方には、十分、注意する必要がある。
後から、注意してもなかなか聞かない。
事前に注意しても、経験しないと頭でわかったつもりになって、舐めてかかるもの。
事前に注意しておけば、事態に遭遇しても冷静に行動できるようになる。
それが事前訓練の効用である。
会社の方針と自分の考え、方針が違った場合、基本的には、全体の方針に従う、自分の考えを全体に合わせることが求められる。ただし、自分の考え、個人の考えを主張する権利はある。
納得がいかなければ、自分の考えを主張することは許される。
ただし、一度決定が下されたら、決定に従う事が求められる。
それでも、決定に従えなければ、立ち去るしかない。
自由主義国では、会社を選ぶ権利は担保されている。
明らかにできない事、改められない事、直せない事を注意したり、叱る事は許されない。
例えば、目の見えない人に目を開けろとか、足の悪い人に走るとか注意することは許されない。
また、人種、民族、性別、宗教などで注意することは許されない。
女のくせにとか、年下なのに、あるいは、人種差別的な事で注意する事は許されない。当然叱る事も、許されない。これは、注意する側、される側、叱る側、叱られる側、どちらに対しても許されない。
女のくせに生意気なという事も許されないが、女の言う事なんて聞けるかも許されない。
容姿や人格的な事も注意する事は許されない。というより、注意とはみなされない。
単なる誹謗中傷である。
ただ、服装や身だしなみは仕事に関係する場合は注意する事は許される。
仕事中に、仕事に関係ない事で政治活動をする者を注意する事は構わない。
注意すべき人、𠮟るべき人が、注意しなかったり、叱らないと、たちまち、秩序は乱れ、統制がとれなくなる。
注意すべき人間が注意しなければ、他の人が注意することになるが、それ自体筋違いな事であり、組織の規律を乱す事になる。
親が叱らないから、他の人が叱るようなものである。
よく、公共の乗り物や場所で、傍若無人なふるまいをする子供を、傍にいながら、放置する親がいたら。
一般に、多くの人は、子供を叱る前に、親に注意する。
それは、親が叱るのが筋だと思っているからで。
注意すべき人間が注意しないと、注意した人が悪役にされてしまう。
筋も通らなくなる。
しかし、誰かが注意しないと改まらないとなれば、筋が通らないのがわかっていても注意する人が現れる。
だからこそ、注意する人間を、臆病にしてはならない。孤立させてはいけないのである。
かといって意味もなく、やみくもに叱れば、注意しても、叱っても効かなくなる。
一般に、注意すべき人が、その場で、その時、注意しないと効かないと教えられた。
特に、親になる時。
注意する人、叱る時、場所、叱り方、言い方、何を、なぜ叱るのかが問われるのである。
人が注意している時、周囲の人の協力、理解が得られないと相手はいう事を聞かない。
危険な事、悪いこと、改める事は、気が付いたら、気が付いた時に、気が付いた人が注意する。
ただ、子供の教育がいい例だが、誰が、いつ、どこで、どのように、何を、なぜ、叱るべきかは、夫婦、親子の間でも揉める。難しい問題なのである。
注意する事も、叱る事も難しい。
母親が、「いう事を聞きなさい」と絶叫するように、注意しても、注意された者が、注意したことを受け入れるとは限らない。
思わぬ反発や反抗、反撃を受ける事もある。
怒りだして襲い掛かってくることさえ覚悟しなければ注意する事はできない。
注意には、従うようにと、注意を受けたものである。
それほど注意するのも難しいが、それ以上に、注意を守らせるのは難しい。
なぜ、幹部間で情報を交換するのか、その重要な目的の一つが注意を守らせることにある。
注意するのは難しい。
周囲の協力と理解がなければ怖くてできない。
間に立つ者は、少なくとも逆ねじをすべきではない。
意味もなく、注意された人間をかばう事はやめる。
ただ、目に余る虐待は別であるが。
注意しても、注意された者が、注意されたことを、受け入れるか、受け入れないかは、注意された側の問題で、いくら注意しても、注意した事に納得していないと、行動は改まらない。従わない。
注意した事に納得するか、しないかは周囲の人の反応に影響される。
注意しても、周囲の人間の協力がないと改まらない。
間に立つ者や周囲の人間に逆ねじをされると、かえって逆効果になることがある。
例えば、意味もなく同情されると、注意された者は、注意した側に非があると錯覚をする事がある。
注意された時、無言でいるのは、注意されたことを了解したサインとも、抵抗しているとも、どちらにもとれる。だから、無言でいるのは礼を失している。無礼である。
言い分があれば注意された時に言わなければ、基本的に、相手の注意を了解したとみなされる。
無視は最悪である。
無言の抵抗という言葉すらある。
だからこそ、組織の統制を保つためには、組織の中枢、幹部を構成する者たちの意思統一、価値観を共有することが求められるのである。
組織的に注したことを定着させるためには、同じことを、同じように、全員が一貫して、注意し続ける必要がある。
人によって注意するところや解釈が違うと注意を受けた者が迷うからで。
また、気まぐれに注意すると、注意された側もむらになるからである。
注意した側の人間は相手がどう受け止めたかを知ることができない。
相手が嫌がる事、不愉快なことをしているのだから、相手が、感情的になり、攻撃的、反抗したり、乱暴してくることも、当然、予測されるのである。
相手が、注意した事を聞かないと、段々、注意の仕方、言い方が、きつくなる。
注意する目的は、注意する事で、注意した人の行動を改める事にあるが、行動が改まらないと同じ過ちを繰り返すことになる。
注意した事の真意が伝わらないと互いに不愉快な感情だけが残る事になる。
要するに、後味が悪い。
そのために、注意をしたのに、行動が改まらないと、注意の仕方がエスカレートして、きつくなる傾向がある。注意をするのは、注意をする事が目的なのではない。注意をするのは手段に過ぎない。
注意する事には、注意する事によるリスクもある。
だから、注意するのは難しいだけでなく、怖い。
注意するのにも勇気がいる。
損得だけでは注意はできない。
人が注意しているとき一番、微妙なのが、個人の思想信条に反すること。
戦場で、「敵を殺せ」と指示された時とか、差別的な指示をされた時、その指示に従うか。
今、それは。自由主義とは何かの争点となっていて、明確な答えは出ていない。
しかし、事は、国家の存亡、兵士の死活問題であるから、一般に強権をもって従わさせられている。
たとえ、自由主義国でも。
人は、注意され、叱られて、成長する。
なぜならば、注意され、叱られることで世間を知り、自分を知るからである。
注意され、叱られることで自分を守る事を学び。
注意され、𠮟られる事で世間と自分の関り方を身につけ。
注意され、叱られること事で道徳を修得する。
人は外界とのかかわりの中で世界のありようと自分の生き方を学ぶのである。
注意され、叱られるのは不愉快で、嫌な事である。
不愉快で、嫌な事だから、効果がある。
それを親も、先生も、上司も承知して、注意し、叱る。
子供を叱る、母親の気持ちを考えてみよう。
そうすれば、母親が、なぜ追い詰められ、疲れているのかがわかる。
母親は、なぜ聞いてくれないの、なぜわからないのという思いより。
子供に辛い思い、不愉快な思い、嫌なことしている自責の念に苦しめられてる。
それでも、自分が叱らなければ、この子に正しい道を教えられる人はいないと。
子供は泣くことが許されているけど、母親は、泣くことも許されていない。
はけ口を失って、一人で抱え込むことになりかねない。
母親は、逃げる事もできない。
過ちに気がついた時、誰かに叱ってほしくなるものさ。
いくつになったもね。
でも、母親にはそれすら許されていない。
注意しなさいと言われても簡単にできるものではない。
注意なんてしたくない。
誰が好き好んで…。
母親が子供を叱っているのを見て。
子供が可哀想と思う人はいても。
母親が可哀想と思う人はいない。
注意してくれる人、叱ってくれる人がいるうちはまだ救われる。
誰も注意してくれる人、叱ってくれる人がいなくなった時、人は、深刻な過ちを起こす。
その時、母親の恩に気が付くのである。
母親は、心配な時、注意したくなるのだ。
最近の子は、叱られなれていないから、過剰に反応して、すぐに感情的になるが、それは不幸な事である。
自分を、自分の殻に閉じ込めてしまう。
最近は、不愉快な事、嫌な事はしてはならないと、注意したり叱らずに、褒めて育てろと。
だから、今の子は叱られるのに慣れていない。
ちょっと、注意されると、へこんでしまって、外にも出られなくなる。
褒めたところで、自分のどこが悪くて、どこを改めていいかを知る事はできない。
それでは、自分を守る術も、世の中との付き合い方も、道徳も身につける事はできない。
辛抱、我慢を身につける事も大切である。
注意されるのは嫌だ、不愉快だと、引きこもってしまったら、自分を守る事も、自分を知る事もできなくなる。誰も注意も𠮟りもしなければ、独善的で、世間知らずの人間になってしまう。
叱ってくれる人、注意してくれる人がいるから、成長できるという事を忘れてはならない。
注意したら、いきなり、殴られたとかね。
注意するのには勇気がいる。
礼儀知らずの高校生を見てもね、なかなか注意できない。
友達を注意したら苛めにあったりしてね。
いわんや、屈強な人とか、見るからに悪を注意するなんて。
注意するだけ損。
怖くて、誰も注意しない。誰も注意できないという社会は、無法地帯だよね。
その結果、一番、被害を受けるのは、弱者。女・子供。
勇気をもって注意、叱れるから男の意気地がある。
昔は、小言幸兵衛みたいなおじさんがいて。
注意したものだけど。
警官は、注意する為に、武装するんだ。
誰も注意をしなければ、事なかれ主義、日和見主義に支配される。
ゴミを平気で路上に捨てたり、迷惑なんて顧みないで乱舞狼藉、弱い者いじめする者がいても放置される。
和を以て貴しとなすとし、楽しければいいと、ただ表面を取り繕う事ばかりに、汲々として。
空気読めないと、世の不正を見て見ない振りしたら、世の乱れは正せなくなる。
注意したり、叱るものがいなくなれば、悪を蔓延らせる世となる。
表面は平和に見えても、偽りの平和に過ぎない。
勇気を持って注意したり、叱る者にこそ、正義がある。
空気読めない、KYとかいって、世に阿り、迎合する事をばかり教えたら自分の芯ができない。
注意をする事は、何を偉そうにといわれることを覚悟することで。
他人からどう思われようと。
注意をするという事は、注意をしなければならない事があるから。
それは、嫌な思い。他人からどう思われても護ることがるから。
では、人にどう思われようと何を守ろうとしているのか。
それが問題なのだ。
自分がなりふり構わず守ろうとしていること、守らなければならない事。
それがわからなくなったから、日本人は注意する事も叱る事も躊躇するようになってしまったのだ。
儒教でも、最悪なのは、郷原。佞人。
つまり、注意や叱る事を悪いとする風潮を作る人。
世の中から注意したり、叱る人がいなくなったら、注意する人や叱る人は狂って見える。
しかし、注意したり、叱る人のいない世界は、母の愛のない世。
注意される者も、注意された時に、すぐに感情的になったり、反抗的になったり、すねてたら、誰も、注意も、忠告もしてくれなくなる。叱ってくれる人もいなくなる。そうしたら、お先真っ暗ね。
孔子云う中庸の道守る人見つけ交際するが、最善出来ざれば狂者か狷者見出して交際するが、次善なる策。
狂者とは、その志し高けれど、大言にして壮語なる人。
狷者とは度量の狭き人なれど、心に守るところある人。
郷原は本心隠し、世に媚びて生きる輩で、徳の賊なり。
郷原は、善人として評高し、その真実は、背徳の人。
非難される程目立つこともなく、世俗に流され、濁世に迎合し、見かけは忠信、廉潔の士に似ており、世人にも好評で自身も満足している。
佞人は、義の道を損なうし、口先が旨すぎると、真実が見えなくなる
郷原を憎むのは、徳を乱す恐れがあるからだ。
君子たる者は、常に、正道を目指すべきである。
この正道さえ保たれれば、庶民は奮い立ち、邪悪な郷原は消え去るものだと。
要するに、誰からも、いい人と好かれ。自分も、本心を隠していい人を装い。
世の中に迎合するばかりで、人から嫌われるような注意をしたり、叱ったりしない。
こういうものこそ、世に悪をはびこらす。
佞人は、口当たりの言いお世辞ばかりいて、世に媚びる人間。
こういう人間が世の中を乱すのだと。
義を見てせざるは勇無きなり。