民主主義だの、自由主義なんて言っても、日本人は、民主主義や自由主義を成り立たせている会議について、正しく理解しようとしない。
だから、民主主義や国民国家に対する理解がいい加減なんだ。
日本の民主主義の土台も、議会、内閣、裁判の三つの会議によって構成されております。
個々の会議の形式も働きも違う。
日本人は、どうも会議、欧米流の会議というのが苦手みたいだ。
それでも、近代民主主義は、会議を土台とした体制だし。
現代社会は、会議抜きには成り立たない。
一体会議というのは、どのようなものなのか。
どの様な働きをして、どのような形、構造をしているのかを解きほぐしておく必要がある。
組織や社会が人の集まりである以上、何らかの形で会議はあったはずである。
それは、日本も御多分に漏れない。
ただ日本人は、会議に、それほど重きを置いていたようには見えない。
その証拠に、今日の議会に相当する言葉が見当たらない。
どちらかというと寄り合いのような、厳格なルールのようなものが決められているわけではなく。
不文律、習慣のようなもので緩やかに規制されたいた。
会議には、厳格なルールがあることを日本人はわかっていない。
話せばわかると無原則に会議をするから、会議は、会議でなくなり、単なる話し合いになる。
会議は話し合いの場ではない。
会議は合目的的な場である。
目的が明らかでない話し合いの場は会議とは言わない。
日本人が会議に抱くイメージも、密室とか談合とか秘密みたもののようだ。
それは、公開討論や多数決で決すると言う経験があまりない。
開かれた場での会議という発想が乏しい。
結局、話せばわかると言った間違った認識で民主主義を解釈しようとする。
話せばわからるの、頭に、大体、日本人ならと。一言、つくことが多い。
そうである、日本人なら、話せば解る事が多いが、逆に、日本人以外だと話してもわからないのが通例なのである。
現実の世界は、いろいろな人種や民族、宗教、風俗、価値観、言葉、思想の違う人の集まりであり。
食べ物、着る物一つとっても千差万別。
何も言わなくても、わかり合えるというわけにはいかない。
だから、民主主義というのは、話してもわからないと言うのが原則である。
話してもわからないから、厳格にルールを決めて決着をつけるのである。
話せばわかると言ってたら収拾がつかなく。
全員が一致するまでダラダラと話し合うことになる。
結局、声の大きい人間や強引な人間に引きずられる事になる。
全員一致というの、創設、入会、会議規則を決める時だけで、一度、話し合いの規則が決まったら、以後は、そのルールに従って議事を運用する。
それが、話し合いにおける原則であり。会議の成立基盤である。
話し合ってもわからない。
それが、前提だから、話し合いが始まる前に、ルールを決める。
話し合いが拗れてから、ルールを決めようたって無理。
最初に話し合いのルールを決める。それが、民主主義である。
話せばわかると、話し合い、決着のつけ方も決めないではじめたら、際限がなくなる。
全員が一致しない限り、結論が出なくなるから。
結局、力づく、暴力的、横暴になる。
そうしないと、決着がつかなくなるから。
文句あるかと押し通す。
話し合いが、つかない原因が、最初にルールを決めていないからなんて思はない。
ただ、話し合いのルールは全員一致で決める。
例えば、新規の者は最初にルールを説明され合意を取る。それが前提。
サッカーや、将棋の先攻、後攻の決め方、麻雀の親決めの決め方は予め暗黙に決まっている。
深い意味があるわけではない。
しかし、先攻後攻、親が決まらないと試合は始まらない。
大事な事だが、意味はない。
麻雀だって、ローカルルールは、最初に確認しておかないと、揉め事になる。
こういう一つひとつの形を積み重ねる事が大事。
確認を怠らない。
会議は、目的や働き、役割によって形式も、構成も、ルールも違う。
この点をよくよく理解いしていないと現代の国際社会は生きていけない。
また、ビジネスもできない。
スポーツを見ればわかる。
日本人の多くは、会議の在り方を、さも、自分達はよく理解していて、自分たちのやり方が絶対正しいと思い込んでいる。
しかし、日本人ほど、会議の在り方に対してルーズな国民はいない。
ほとんどが、我流である。
その証拠に、会議について正規の教育がされていない。
会議のルールについて議論されることも少ない。
それまでのやり方を踏襲するか。
どこからか、会議のやり方のひな型をもってきて訳も分からず、会議をやっているに過ぎない。
株主総会がいい例で、会議の実質を無視して形式的に処理しようとする。
それで、しゃんしゃんの会議だなんて謗られる。
会議そのものの機能が損なわれているのに気がついていない。
会議のルールについてもう少し慎重になるべきなのである。
民主主義や自由主義を守りたければ。
日本人の会議、打ち合わせにあるのは、誰が仕切っているのかもわからない。
役割分担も決めてない。記録もとっていない。
何もルールを決めてない。
大体何の目的の会議なのかもわからない。
事前に、出席者に対して事前の説明もない。
用意する資料が決まっていない。打ち合わせてない。
これでは、最初から、結果は見えている。
決めたくない、まとめたくないと言ってるような会議になる。
終わりのない、終わらない会議になる。
始まりもなく、結論も出ない。
堂々巡りで、責任の所在もない。
底なし沼、泥沼の会議になる。
後先、前後のない会議にもなる。
取り留めのない、つかみどころのない会議に終わる。
単なる、時間の無駄遣い、暇つぶしに過ぎない。消耗するだけ。
会議は、誰が、何を、いつ、どのように決めるかによっても根本的に違ってくる。
その場で決めるのか。
事前に決めておいて、通知するだけにするのか。
会議では、検討だけしておいて後で決めるのか。
多数決で決めるか。
一任を取り付けて決めるかによっても、会議の性格は変わる。
性格が、変わるから、目的も、主催者も、出席者も、役割も、ルールも、構成も、時間も違う。
正式か、非公式かでも会議の在り方は変わってくる。
だから、事前の打ち合わせ抜きに会議は開けないし。成立もしない。
ある意味で、会議は、イベント、儀式なのである。
結婚式だって、一つの会議の形。
事前の取り決めが鍵なのであり、前提条件となる。
議会は、法を定めるための会議。
内閣は、仕事をするための会議。
裁判は、法を執行、裁定するための会議。
会議の性格、目的、はたきが違うから、会議のルールも構成も、段取りも、役割も、仕事も違う。
日本人は、それを、会議の一言で片付けようとする。
委員会も、顔合わせも、プロジェクトも、タスクフォースも、総会も、入学式も、ワークシップも、リモート会議も、発表会も会議の一種。
スタッフ会議とラインの会議は性格も働きも違う。
諮問会議と意思決定会議、伝達会議も、性格や働きが違う。
これからに社会は、会議を正しき理解し、分類できないと成功する事はできない。
会議のルールは、先決めなのであり、ルールのない集会は会議とは呼ばない。