長い間、権力は悪だと言う考え方が、支配的であった。
かく言う私も、権力は悪だ言う考え方に囚われている。
確かに、権力には危険な要素がある。
何よりも、多くの人々に服従を強いるのであるから。
服従を強いられる者は、何らかの犠牲を支払わなければならなくなる。
しかし、権力がなければ世の中は無法・無秩序となり。統制が取れなくなる。
理不尽な暴力や犯罪に対し、人々は、自力で立ち向かわなければならなくなる。

権力がなくなっても、暴力がなくなるわけではなく。
より暴力的な社会となる。

人間は、権力の必要性を認めなけらばならない。
権力の必要性を認めたうえで、権力を制御するのである。
包丁も、自動車も、使いようを間違えば凶器となる。
それは、包丁や自動車が悪いのではなく。
使い手である人間が悪いのである。

権力を認めなければ、権力の正体を見極めることはできない。

人間の世は、人間が支配しているのである。

権力者は、聖人でも、悪党でもない。
権力者は、神ではない。人間なのである。

だからこそ、権力者には自制が求められる。
権力者は、自覚しなければ自制できない。

権力を悪だとするから、権力者は権力を隠そうとする。
権力の側に立ちながら、反権力者を装う。

それこそが独裁を生むのである。

権力を認めようとしないから、統制も、秩序も、規律、忠誠も悪とされる。
反権力的な学校では、道徳すら否定される。
つまり、その社会の共通の規範を受け入れようとしない。

必然的に、子供たちは、社会に出ても社会の決まりを理解できないし、したがわなくなる。

権力者のあるべき姿、権力の仕組みについて検討すら許されないのである。
その結果、日本から優秀な指導者が現れなくなった。
無自覚で、無節操、優柔不断な権力者が、最も悪い。
その事に日本人は気が付いっていない。

将来、AIに支配されると怖れる人がいる。
組織を動かせる人がいなくなり。
AIでしか組織が動かせなくなるのが怖いのだ。
人による支配を受け入れなければ、人のよる権力を認めなければ、
機械による支配を、受け入れざる得なくなり、機械による権力を認めなければならなくなる。

西洋文明が他の文明を抜きんでいるのは、他の文明が集権的な体制を追求したのに対して、西洋は、権力を探究して、会議を中軸とした分権的体制にいたたことだ。

日本人の悪いところは、自分たちに都合の悪い事は、見て見ぬふりをし、日和見、事なかれになる事だ。
欧米人は、権力の危険、怖さを承知したうえで、権力の必要性を認めているから、権力者や権力の在り方を、厳しく追及が出来たなだ。
権力者には、厳しく、倫理性、思想、志、使命感を求め、妥協する事は許さない。
それでも、人の弱さを認め、権力を分割し、任期の上限を定めた。
個人崇拝を厳しく戒めている。
ところが、日本人は、権力の存在すら認めようとせず。
権力者に何も期待しようとしない。
これでは、優秀な指導者は現れない。

ノーブレス・オブリージュ。
高い志と使命感。
公儀の為なら私心を捨てることのできない者を、権力者にしてはならない。

我々が、求めているのは、高潔なる指導者だ。