親父たち、創業者は、みんな、社員の事ばかり考えていたんだよ。
寝ても覚めてもね。
戦後、何もない時代。
食うや食わずで、住むところもない焼け野原で。
肩を寄せ合い、助け合って生きていくしかない。
あいつ、今、何してるかな。どこでどうしているか。
寝ても覚めても、心配して。
三度の飯を二度に削ってもね。
ひもじい思いをさせたくないと。
住む家がないと聞けば、自分の家に下宿させ。
独り者と聞けば、嫁の世話をし。
暮れには、モチ代とボーナスを出し。
ボーナスを一人一人に感謝を込めて手渡しをした。
忙しい時には、みんなを連れ出し潮干狩りをしたり。
春になったら花見に行こう。
年の瀬には忘年会。
気分転換にハイキングをしたりね。
一生懸命がんばったら、おいしものでも食べに行こうかと。
遠く故郷を離れて就職してきたら心細いだろうと、歓送迎会を開き。
金が儲かったら、慰安のために社員旅行でもするかと。
病気になったら医者を手配し。金はあるかと。
子供が学校に入学したらお祝いだと。
何もなかったからね。
それが、福利厚生、社員旅行の源。
そういう考えなければ、社員旅行なんてするか。
でも時代が変わると、付き合いを嫌がる社員も出てきて。
それに考えるのも面倒くさいと廃っていた。
でも、根本にあるのは、社員に対する思いだよね。
感謝の思いとか。思いやりね。
共済会には本来、親父たちのそういう思いがいっぱい詰まっていて。
俺は、子供の頃から親父たちのそういう姿を見て育ってきたから。
思い付きだけで社員旅行なんて始めないよ。
当時は、金も、時間も、暇もなかったんだからね。
自分たちが幸せになるためには、何が必要なのか。
どうしたらいいのか。
最終的にどんな状況、環境にしたいのかそれが目標であり、目的で。
それをどこかの置き忘れたり、失ってしまうと、自分が何をしているのか、どうしたいのかもわからなくなる。
仕事にとって、会社にとって、それが根本にある。
なくしたら、存在意義を失う。
会社は、単なる、金稼ぎの機関ではない。
多くの人、特に、社員の生活を担っている。
それが、過激な、反体制、反権力、反権威運動の中で失われてしまい。
会社が、社員みんなの生活や夢を実現するための手段だという事が忘れ去られたしまった。
会社が、生活や夢を実現する機関だと信じるから、辛くて、苦しくても、会えって自分の限界に挑戦できる。
ところが、社畜になるな、会社の言いなりになるな、愛社精神なんて欺瞞だと。
繰り返し、繰り返し刷り込まれ。
労働は苦痛であり、苦役である。休め、休めと。
その結果、世のため、人のためにはならない、役立たずの人間を増殖させ。
今になって、どうしようもないと若者を責めるなんて。
会社は、社員を搾取しているように言うが、二十四時間、三百六十五日、社員を守っている。
三十分、朝、出社しなければ、すぐに安否確認をする。
事故にあえば、すぐに保険を手配する。
健康管理はしてくれる。
何よりも働く場所を用意し、生活費を支給してくれる。
家がなければ、住む家を用意してくれる。
家族の面倒を見てくれる。
老後の資金を用意してくれる。
もういい加減、目を覚ませ。
俺に、文句を言いたいなら俺が元気なうちに言え。
気が付いた時は手遅れになるぞ。
文句を言いたくとも、その時は…。
今、行動を起こさないと。
何を、この会社を自分たちの砦にすればいい。
そのためには、根源にさかのぼって考えろ。
我々が若いころはね。
ベビーブーム世代、高度成長時代。
それが団塊の世代。
上は少なく、下は裾野が広い。
だから、若くても責任を持たされ、仕事も任せてもらえた。
上は減らずに、下は増えない。
少子高齢化だからね。
待っていたら、いつまでたっても、チャンスはもらえないよ。
上が厚くて譲る気ないから。
若いのはなりふり構わず挑戦しろ。
そうしないと、決断力も、責任感も身につかず。
ただあきらめだけの人生になるよ。
自分の人生を他人の手にゆだねてはいけない。
自分の手で切り開かないと。
俺は、団塊の世代の先輩に言ったんだ。
あなた方はぶっ壊すだけ、ぶっ壊して何も建設的な事は後輩たちに残さなかったじゃないかと。
だけど、三無主義世代みたいに、どうせなにやって変わらない。
俺なんか、何をやってもダメと、日和見主義、事なかれ主義。
面倒くさいと、何もかもいい加減に投げ出していったら。
始める前から諦めたら、絶望的な未来しかない。
たとえどんな困難、逆境があろうとも、それを乗り越えて幸せをつかむんだという強い意志を持て。
そうしないと、あきらめだけの人生になるぞ。
幸せになれ。幸せを自分の手でつかみ取れ。
そのために、根本的な事を熱く語れ。突け。
どうせ何をやったって変わらないさ。
俺なんて。俺一人くらいと。
面倒くさいと投げ出すな。
いいか、根本に何があったのか、何があるのか、恐れずに、明らかにするんだ。
そこから、逃げたり、ごまかしたりしていたら。真実の人生なんてありえないよ。
それこそ何も変えられない。自分自身すら。
行動あるのみ。
若い時にしかできないことがある。
若い時にしか学べないことがある。
時を大切に。
労働者の権利を守るのが労働組合。
それに対して、会社の福利厚生政策の一端を担うのが共済会。
どちらも、社員の生活向上を目的としていることには、変わりない。
ただ、立ち位置が違うので。
社員の生活向上を担うのは組合だけではない。
会社も、会社で、社員の生活向上を担う。
はたきやすい環境を実現するのは、むしろ、会社の責務でもある。
給与(生活費)を支給するのも、会社である。
会社は、一部の過激派が言うような搾取機関ではない。
ただ、搾取機関に変質する危険性があるというだけだ。
社員旅行のために共済会があるわけではなく。
会社の福利厚生政策があってその一環として社員旅行がある。
ちなみに、社員旅行には節税という意味もある。
共済会活動を規定するのはあくまでも、会社の福利厚生策。
また、販売店会も本来は、共済会と同じ目的を持っていた。
個人事業主の従業員の福利厚生を担う。また、啓蒙活動。
福利厚生策を担うのは総務だから、面倒くさいと手抜きをすれば、社員旅行も施行されなくyなる。
根本にあるのは、福利政策を担う責任者が、どう会社の福利政策に取り組むか、フリンジ・ベネフィットをどうするかによって共済会活動は変わってくる。
また、クラブ活動などを通じて、広報活動や社会貢献などに間口を広げることができる。
何も考えがないと、総務は共済会の下請け、使い走りになる。
財形とか、保険的活動、金融活動、共済活動、社員の健康維持、節税などにも活用ができる。
だから、慶弔、見舞金、祝い金、奨学金、報奨金等は、共済会につきもの。
いずれにしても、会社の福利厚生活動があってのことで。
だからこそ、経営理念、経営方針にまでさかのぼるのである。
組合と共済会を混同して考える人がいる。
中には、人事総務の人間の中にも。
組合は、あくまでも、労働者の権利と労働条件の改善に主眼が置かれている。
だから、会社と独立した機関なのに対し、共済会は、会社の福利厚生策の一部を代行する機関。
それに対し、共済会は、会社から資金的な援助を受けることができるし、節税にもなる。
組合がなくても、共済会がある会社はいくらでもある。
学生協や。生協は、共済会から発展したとも言える。
ただ、学園紛争が盛んな頃、過激派の一部が生協の乗っ取りを画策した。
それは生協の持っている資金が狙いで学生の福利厚生を考えてではない。
労協は、組合に共済会が母体。
つまり、共済会には保険や金融活動の一部を担うことも可能。
小手先、目先の事ばかりにとらわれていたら、具体的な施策は立てられない。
考えられなくなり、面倒くさくなって投げだせば、途絶えてしまう。
だから、根本思想、哲学が問われる。
共済会の在り方も、会社の未来や社員の生活向上を中心に据えれば取り組み方も変わってくる。
他人に言われたからと言ってやっていたら、社員の事も他人事になる。
これからを担う若者に対する啓蒙活動や教育機関とすることもできる。
だからこそ、社員による民主的な運営が求められたのである。
故に、一部の活動が組合と被ることがある。
ただそれは、視点、立ち位置が違う。
今日テレビで、日本は、先進国の中で、一番、愛社精神が低い。それが、働きがいがない会社にしていると。
働きがいのある会社の上位六社が外資であるという資料を見せながら、報道していたが。
さんざん愛社精神は悪い、愛社精神を持つなと言ってきたのはメディアと学校だという事を忘れないよう。
構想とか、基本的なカ所をしっかりと作りこんでおく必要があるのは、確かに基礎土台という事もあるが、それ以上に、最終工程で威力を発揮するという事がある。
意外に思われるかもしれないが構想や基礎は、実行段階で重要な働きをする。
雑なつくりをしておくといざ実施という段階で雑になる。
基礎となること、根本的なところが入念にされているからこそ、実施段階の細部まで主催者の考えが浸透するのである。
だから、最初が肝心と躾けられた。
むろん、時間をかければいいというのではない。
厳しく詰めておくことが大切だという事。
丁寧にきちんきちんと結論を出しておけば、迷うことなく実行できる。
今の若い連中は、我慢することばかり、学んでいるんだよな。
我慢することはないのだよ。
我々の先輩は、我慢することができなかった。
それで暴発した。
それが、確かに一時代を作った。
ただ、彼らの行動は、破壊的な事に向かい、創造的な事には向かわなかった。
だから、次の時代へと引き継がれなかった。
決断するは、ある意味で爆発力も必要。怒ることだよ。
怒ってはいけない、暴力は、何がなんでも悪いと、
そんなこと言ったら、何も決められない。
怒ることも必要。
怒ることを忘れたら、何の変革もおこらない。
冷静に、判断し。
感情的に決断する。
決断は思い切ること、冷静には思い切れない。
だから、決断は感情的になる。
決断できなければ、何も始まらない。
若者に゙責任をもたせ仕事をさせる。
実際に仕事をするのは、若い担当者。
そういわれてきた。
それは、高度成長、団塊の世代だから。
結局。人口分布はピラミッド型、ヒエラルキーも、ピラミッド型でしかも市場も拡大してたから、若手を抜擢できた。
しかし、今は違う。
若手は、待っていたらどんどん年を取る一方。
気が付いた時は手遅れになる。
料理ができなくても、レストランの経営者にはなれる。
腕の良い料理人を雇えばいい。
経営者と料理人の仕事の内容は違うので。
経営者の仕事は、どのようなレストランにするのかの構想であり、その構想に基づいて経営方針をたて、料理人を雇い、レストランを経営することである。
フランス料理店を経営しようとしているのに寿司職人を雇っても役に立たない。
料理人が必要なのに、港湾労働者を雇っても無駄である。目的が違う。
簿記のわからない経営者はいくらでもいる。簿記がわからなくても、経営はできる。
腕の良い料理人が、レストランを経営しても、必ずしも、成功するとは限らない。
料理と経営を両立するのは難しい。
監督に、求められるのは、選手の守備位置や打順を決める事で、いいピッチングをする事ではない。
自分の役割を正しく理解しないと。
リーダーの仕事とメンバーの仕事は違う。
部門長の第一の仕事は、部門を束ねる事。
目標の達成が難しいからと言って、目標値を下げるのは、謬りである。
そんなことをしなら、目標は目標としての意味を失い。
以後、誰も、目標を達成しようとしなくなる。
リーダーは、信用を失い、誰も言うことを聞かなくなる。
大体、目標が達成できないからと言って、目標値を変えること自体、意味不明である。
目標は、目標である。
百点を取るのを目標として勉強してた子が、八十点しか取れそうもないという理由で目標を八十点に下げるような事である。
弊害でしかない。
今までのやり方を変える目的で、今まで通りのやり方では、達成できない、目標を掲げたのに。
やり方を変リーダーにとって自分の考えがなかったり、整理できてなくて、部下や関係者に説明ができないのが問題なので。
マネージャーの仕事、役割は、会社の方針、トップの考えを正しく理解し、それを部下に伝え、仕事をさせる事にある。
考えなしというのは困るのだが、勘違いしてはならないのは、自分の考えと言っても、会社の方針、トップの考えを理解した上でという事で。
面倒くさいからと会社の方針を理解しようとしなかったり、適当に、蔑ろにして、自分の考えやそれまでのやり方を押し通そうとするのは、明らかな、抗命、命令違反、叛逆でそれを、中核の人間やマネージャーが露骨にしたら、組織は、成り立たなくなり、崩壊する。
犯罪に近い行為である。
困るのは、自覚なしに、自分の言ってる事は間違いないのだから正しいと思い込んでいる事で。
全体の方針やトップの考え方に反しても正しい事は正しいと。
自分が正しいと思うならその根拠を示し、根本から変更する手続きが求められる。
それでも従えなければ去るしかない。
リーダーが、自分の考えがなかったり、整理できてなくて、部下や関係者に説明ができないのが問題なので。
マネージャーの仕事、役割は、会社の方針、トップの考えを正しく理解し、それを部下に伝え、仕事をさせる事にある。
考えなしというのは困るのだが、勘違いしてはならないのは、自分の考えと言っても、会社の方針、トップの考えを理解した上でという事で。
面倒くさいからと会社の方針を理解しようとしなかったり、適当に、蔑ろにして、自分の考えやそれまでのやり方を押し通そうとするのは、明らかな、抗命、命令違反、叛逆でそれを、中核の人間やマネージャーが露骨にしたら、組織は、成り立たなくなり、崩壊する。
犯罪に近い行為である。
困るのは、無自覚に、自分の言ってる事は間違いないのだから正しいと思い込んでいる事で。
自分が正しいと思うならその根拠を示し、根本から変更する手続きが求められる。
会社をただ大きくすればいいというのではなく。
人を育てるというのが方針であり、その方向性が間違っていなければ、本来の目的を見失うことはない。
それが、どこかで方向を間違うと、当初の目的とは違った会社になってしまう。
社会に貢献できる会社を方針にかがげるか。
儲かる会社を方針とするか。
本来は、社会貢献を志しながら、日々の経営の中で、原点を見失うと、金儲けだけが目的になる。
本来の志しや目的を見失ったら、どんなに、良い結果が出ても、志や目的のために還元できない。
手は手、足は足、頭は頭で勝手に、自分の思惑で動いたら、全体の一体性は保てなくなる。
苦しい時に一致団結するのは、志を同じくするからで。
苦節は共にできても、栄辱は、共にできないという中国の諺もある。
だからこそ、根本理念、思想、哲学が大切。
夢や理念、思想、哲学は、ただのお題目ではなく、また、してはならない。
なぜなら、そこが原点だから。
言っていること行っていることの統一性も保てなくなる。
目的や志を失えば金しか残らない。
だから、何故と追う。
それは無駄ではない。