信仰 月影 禅の教えに、池に石を投げ入れると波紋が広がって池の水に映った月の影は、乱れる。水面の月影が波紋で乱れても、月そのものに変わりがあるわけではない。なぜ、水面の月影が乱れたからと言って驚くのか。それは、月そのものを忘れているからだと。何が一番難しいのかと考えましたよ。苦しみましたよ。なぜ、こんなに、苦しくて、辛いのかってね。なぜ、信じられないのかって。その時ふっと思ったんですよ。信じないんではなくて、信じている自分が信じられないんだと。相手を許していないのではなくて、自分が許せないんだと。人を赦す事は難しい。しかし、それより難しいのは、自分を許す事。信じる事。まず自分の過ちを認めなければならない。これが辛い。死ぬほど辛い。認めたら、それを改めなければならない。これも辛い。でも、それが出来たら、自分が囚われている呪縛から自分を解き放つ事が出来る。それが真の自由です。人と比べて劣っているからどうなんですか。人に自分が劣っているのは、自分が許せないから苦しいんです。嗚呼、この人は、私よりこの点で優れていると認め感動できたら、どれほど楽か。劣等感に囚われているのは、自分なんです。自分が許せないからです。その事に気が付いたんです。じゃあなぜ、自分を許せないのか。それは、自分の限界ですよ。自分で自分を許したとしても、それは許した事にはならない。だとしたら、自分を超越する何者かを信じるしかないじゃあないですか。そうしなければ、自分を許す事が出来ない。自分を心底信じる事はできない。だけど、それを世俗的なものや他人に委ねるわけにはいかない。壊れてしまうものや自分を裏切るもの、不純なものに委ねたら、今度はそれに囚われる。地位とか、名声とか、愛とか、富とか。偶像とか。そんなものに委ねる事はできません。それで、僕は、神と対峙し、自分の行いを一つひとつ顧みる事にしたんです。そして、自分が間違っていると思う事があったら、それを神だけに打ち明けて、悔い改める。それしかないんです。神とは鏡です。自分の真の姿を映す鏡。神道のご神体は鏡であり、神道は、偶像を崇拝しません。僕は、何々教と言う宗教は信じませんが、神道は綺麗な宗教だと思います。神は言葉でなくて形として表します。神は、世界そのものです。宇宙そのものです。神とは生命です。つまり、あなたを、あなたたらしめる存在。あなたを生かしている存在です。僕は、生きとし生きる者は、神によって生かされているのだと思うのです。美しいと感じる心。その源に神はおられる。悲しいと感じるこころの源に神はおられる。何が、美しと感じさせるのか、哀しいと感じさせるのか、不可思議です。その不可思議な存在が神です。美しいと感じた時、ああ自分は、生きている、生かされていると感じた時、そっと手を合わせて感謝する。それだけで充分満たされるのです。夜、ひとり、寂しくホトホトと涙が出てきた時、その暗闇の向こうに神の息吹を感じて救われるのです。それが神です。悔しくて、辛くて、苦しくて、どこにもぶつけようのなくなった時、神は優しく自分を包み込んでくれる。自分の過ちや醜さに気が付き、あるいは、誰も、俺を認めてくれないと憤り、人を妬み、恨み、憎み、自分に絶望した時、その何もかも承知の上で許してくれる。それが神です。神は、希望です。絶望の淵から救い出してくれる存在。それが神です。神は、貴方にとって貴方が存在する根本原因です。貴方がいくら自分を虐げ、否定しても、貴方がいま生きている事を否定する事はできない。生きている証こそが神の本質なのです。前を見る。自分を信じて前を見た時、神は、貴方を導いてくれるはずです。神は、わかるのではなく。感じるのです。なぜなら、言葉は相対的で不完全だからです。百万言費やしても愛の本質を言いつくす事はできませんが、人を愛すれば、愛の本質は体得できるのです。神とはそういう存在です。神は救いです。神は許しです。感情に任せて心にもない事をいって相手を傷つけた時。人の成功が妬ましくて自分が惨めに思えた時。相手の優れたところを素直に認められなくて自分を卑下した時。誰も俺の事を認めてくれない、愛されていないと投げやりになった時、自分の醜さに気が付いた時。言い訳をして自分に嘘をついた時。辛い事、苦しい事から逃げ出そうとした時。自分の弱さから目を背けようとした時。受け入れがたい自分や現実をどうしても受け入れなければならなくなった時。神は、そっと微笑んでくれるのです。そのままでいいんだよ。あなたは、あなたでいいんだよ。ただ、自分がそれは間違いだと悔いたなら、それを改めれば。遅くないよ。生きている限り、遅くないんだよ。だから、自分に素直になろうね。自分に正直になろう。自分を信じよう。その時、神は降臨される。あなたは、神に祝福されてこの世に生まれたのだから。神に愛されていないのではなく。神の愛を拒んでいるのは、自分なのです。それが自分。