ただ、ボールを捕球すればいいというわけには、いかない。
次に投げる先を、瞬時に決めて投げなければならない。
次に投げる先が決められなかったり、とんでもない処に投げれば、その瞬間、試合は止まる。
投手の仕事は、単純に、的を狙って投げればいいという単純な仕事ではない。
置かれた状態、相手を見て、一球いっきゅう、球種、コースなどを決めて投げる。
それを決断するのは選手一人ひとり、監督ではない。
仕事も同じ。
一つひとつの作業を次の作業とつなぎ合わせて考える。
一つひとつの作業を繋いでいくのが、マネージャや担当者の役割。
一つひとつの作業には、総て五W一Hがある。
調べる担当は、分析する担当に繋いでいかなければならない。
作業には、直列的だけでなく、並列的に流れている作業がある。
一つの仕事は、何千、何万の作業で成り立っていて、最終的には、一つにまとめ上げる。
全員が心を一つにして、協力しなければ、仕事は成就しない。
構想、基本計画、実施計画と実際の作業に落ちていく。
仕事は、本来、奥が深い。
最後まで、やらないと。
担当は、詳細計画以後、せいぜい、小項目から後を任せられる。
パーツ、部分しか任されていない。
その為に、いわれた通りにやっていれば、自分の仕事の役割を考えないでもできる。
それでも、後先を考えなければ、仕事は止まる。
最初のセティング、設定を間違うと後、尾を引く。
だから、なんでも直後に打ち合わせをしろと。
簡単な話、直後にだれかに伝えて記録するだけでも違ってくる。
要は、パッチンと接続するようなこと。
会議で出た結論や指示、前作業と甲地と接続をするこれが結構難しい。
頭と尻尾のない仕事をするなとか。
仕事は、鰻みたいなもの、首根っこを抑えないと、捕まえられないとか。
ウイナーソーセージみたいなもの始めと終わりを締めないと、中身が抜けてしまうとか。
会議や打ち合わせた直後に指示を出さなかったり、報告をしないのは、最低。
議事録がなければ指示を出せないマネージャーがいたら、最初からマネージャーの資格がない。
言いつけ通りに行動するというのは難しい。
例えば、社長が数字で説明するようと言われたどうするのか。
質問の仕方を変えるしかない。
例えば、売り上げはどうという定性的な質問から。
今、見込み客は何件ある。
見込み客のうち、Aランクは何件、成約率はどれくらい想定している。
一日の訪問件数は何件。そのうち有効件数はと、数字で答えるしかない質問に切り替えあれば必然的に数字で説明せざるを得なくなる。
言いつけを守るというのは、守れるようにするためにはどうするかを考え実行するしかない。
打ち合わせた事を打ち合わせた通りにするというのは、結構ストレスになる。
面倒くさくなって勝手な行動をとると、すべてやり直しとなる。甘く考えない。
言われた事を言われたようにするほうが、自分がやりたいことをやりたいようにするということより、数段、難しい。
自分がやりたいことをやるのは簡単だよ。
自分は言われた通りやっていても、相手が、自分の言ったことと違うと言われたら、それまでだ。
社長がカレーを出せとカレーを出せよ。
学校で、言われたことを言われたとおりやってはならないとか。
何でも、疑ってかかれと教えるから。
それは、叛逆を絶する思想なのだ。
徹底的に戦うべき相手は、自分の意に反する理不尽な要求を強要する相手にたいしてだ。
とにかく、戦前を否定するあまり、体制の言うなりなるなっと、学校も、マスコミも。
それって、何も信じるなと教えているに等しい。
素直に、決められたことや指示に従えよ。
そうしないと、最初から、設定がぶれてしまうよ。
先ずは、言われたことを言われた通り出切るようになる事さ。
これが簡単そうで難しい。
打ち合わせた事を打ち合わせた通りにするというのは、結構ストレスになる。
面倒くさくなって勝手な行動をとると、すべてやり直しとなる。甘く考えない。
大体、手抜きをする理由は、面倒くさい。
仕事というのは基本的に面倒くさいことをすることなの。
面倒くさいと手を抜いたら、仕事にならないよ。
面倒くさいと、決まったことを伝えなかったり、報告をおこたたり、聞かなかったり。
確認を怠ったり。
そこから、抜け漏れが生じるのだから。
再現性が重要なのだ。
忠実に、指示されたこと、決められたことが再現できるか、それが肝であり、カギとなる。
再現できなければ、言われた鳥にしようがない。できない。
それを誤魔化すために、間を開ける。
間を開ければ、仕事の。連続性、継続性が途絶える。
整合性が失われる。
それで、仕事がブレる。
再現するというのは、一言一句、間違いなく再現することを意味する。
ところが、学校では、自分の言葉に置き換えろと教える。
自分の言葉に置き換えろということは言い換えること意味する。
それでアウトである。
再現性は営業では厳格に求められる。
客の注文を正確に再現することが求められるから。
前後の作業を繋いでいくのがマネージャーの役割だから。
会議前、打ち合わせ前の作業をどう繋いでいくかを、会議や打ち合わせの最中に何も考えていなかった事になる。
繋いで、繋いでいくのが、マネージャーの仕事。
全員を集めるか、幹部を集めるか、関係者を集めるかの違い。
どちらが正しいか悪いかの問題ではなく。
どちらを選ぶか、選択の問題で。違うことをいうと、間違っていると言われたかの様に、あるいは責められているように錯覚して、怒ったり、謝る者がいるが、意味がない。
最終段階では、作業を足下から隙間なく敷き詰めるようなにつめていく。
結構忍耐力がいる。
特に足元が肝心で、一歩をどう踏み出すか。
足元を固めることなんだけど、これが、結構難しい。
自分は、第一歩のつもりでも、二歩、三歩先を言っていることが多い。
そうすると、着手する瞬間に迷いが生じ乱れる。結構、繊細。
要は、初手だよね。
午後のことを考えて、午前の仕込みを読み忘れていしまうと。
作業は、前作業に制約されるから、前作業が乱れるとあと作業に狂いが生じる。
だから、一つひとつ、手順に、時系列に並べていく。
足元をしっかりさせておくと、後作業は、多少乱れても調整は聞く。
だから、最初が肝心。出だしを間違うなと。
指揮官は、一つひとつ、動作レベルまで確認し作業を確定していく。
例えば、この後、〇〇に☓☓に電話をさせ、要件を伝えさせるみたいに。
キチン、キチンと話を詰めておかないと、指揮官は、指示を出す段階で、迷いが生じ、速やかない、指示が出せなくなる。
ピッチャーは、カーブをなげるか、ストレートを投げるか、コースをどうするかを一球いっきゅう、決めなければならない。
監督は、投手を交替させるか、代打を出すか、バンドにするかを瞬時に、決断して指示しなければならない。
その時、決断できるよう、指揮官、特に、現場指揮官は、決断寸前まで話を詰めておく必要がある。
キチン、キチンと話を詰めておかないと、指揮官は、指示を出す段階で指示が出せなくなる。
ピッチャーは、カーブをなげるか、ストレートを投げるか、コースをどうするかを一球いっきゅう、決めなければならない。
監督は、投手を交替させるか、代打を出すか、バンドにするかを瞬時に、決断して指示しなければならない。
その時、決断できるよう、指揮官、特に、現場指揮官は、決断寸前まで話を詰めておく必要がある。
その時、現場で指揮、指示をするのは、指揮官だからね。
支店なら支店長、部門なら部門長。
野球は、マニュアル化できない。なぜなら、メンバー全員に、状況判断が求められるから。
現場では、常に、誰が指揮をとるか明確にする。
指揮をとるものがいなければ、戦場では、たちまち、部隊は全滅する。
現場指揮官は、自分が指揮をとれるように話を自分の責任で詰める。
東日本大震災の際、原発事故の現場で指揮をとるのは、総理大臣ではない。
仕事のはじめと終わりでは、正反対の判断と行動が求められる。
最初は、決めつけるなと言われ、最後は決めていけと言われる。
大体、最初は何も決められない。
様子を見ろ、待ってである。
しかし、最終段階では、決めていかなければならない。
最初のうちは決めつけるなと言われ、最終段階では、決めろと言われる。
始まりと終わりは正反対の事を求められるが。形はよく似ている。
仕事は拡散と収束の繰り返し。
一本調子だと手詰まりになる。
仕事の分担が難しい。
始まりは、拡散させ、それを、最終的には一点に収束させる。
例えば、旅行を計画させる為には、最初は、いろいろな、候補地や、希望地を出させ、それを最後はリーダーの考えで一つに収束させる。
ここでも、始まりと、終わりとでは、正反対の行動、判断を求められる。
だから、仕事は、経験的に覚えなければならない。
仕事の段取り、全体像を掴めないと、何も考え、判断する事ができなくなり。
馬鹿になる。
だから、状況に応じて考える癖をつけないと自分で判断する能力を失う。
初めのうちは力を蓄え、終盤は、勢いよく放出する。
作業のつなぎ方には、直列的な繋ぎ方と並列的な繋ぎ方があり、それによって組織の編成は変わる。
直列的な繋ぎ方とは、例えば、調査、分析、立案を一人の人間が担当するのに対し、並列的繋ぎ方は、調査は調査、分析は分析と別々の人間が担当する。
直列的なつなぎ方は、一貫性が保てるが、組織的な仕事には向いっていない。
例えば、調査を担当する者に調査を開始させるとともに、分析を担当する者に、準備を開始させる。
分析を担当する者は、依頼者から、分析の目的や項目、考え方を聞いて調査する者と打ち合わせる。
この様な過程を通じてチームを構成していく。仕事の密度を高めていく。
仕事の話をしていると、急にオドオドしたり、怒り出す者がいるが、仕事の話は常にクールにするよう心掛ける。それをビジネスライクという。
どちらが正しいか悪いかの問題ではなく。
どちらを選ぶか、選択の問題で。
違うことをいうと、間違っていると言われたかの様に、あるいは責められているように錯覚して、怒ったり、謝る者がいるが、意味がない。
最後は決めにかかる。
仕上げだよね。
仕上げは追い込んでいかないと。
決めきれない。
気合というか、勝負に出るんだから。
撃ち込んでいく。
決めるという事と回答する、答えをだすのとは違う。
学校生活が長いと、つい、答えを出そうとする。
答えというのは、最初から、答えが決まっているから出せる。
決めるというのは、答えが、ないから決めるので。
決めるというのは決めることである。
最終的段階は、決めの段階。
このタイミングは、経験しないとわからない。
一瞬で正反対の行動が求められる。
最初は、決めつけるなと言われ、最後は決めていけだからな。
慣れないうちはわけわからない。
でも、やっているうちに覚えるよ。やらないと覚えない。
動くなと指示されていたのが、一転して、早く動けだから。
よ〜い、ドンさ。
はじめの頃は細かいことはいうかだけど、決めの段階では、詳細を詰めろだから。
やる事が決まれば詳細が詰められる。
やる事が決まらないと、詳細に触れることができない。
頭の切り替えが求められる。
頭が切り替えられなければ、現場では致命的なミスをする事になる。
行動を起こす為には、どこかの段階で決断する必要がある。
特に、組織は、実施段階では公式に決断する必要がある。
最終段階では決めに入る。決めていく。
それまで。待ちから、一転して、勝負、決断していく。
決めのモードに切り替える。
頭を、決めのモードに切り替えられない者は、突拍子もない時に、とんでもない決断をして周囲を驚かす。
どのタイミングで決めのモードに切り替えるか。
それが決め手。
ただ、そのタイミングは、一人一人違う、個性がある。
ブレーキをいつ踏むかは、運転手が決める。
最終的には、誰に、何を任せるかさ。
自分より優秀だと思ったら、どんどん信じて任せていけばいい。
それが決めるということで。
任せてもいいけど、決めるのはお前だよと躾けられた。
最後に逃げてはだめだと。
責任はお前が持つ。
だから責任を持って決める。
決める時には、決めるべき人が決める。
逃げてはだめ。
会社を良くする責任は、社長だけが負っているわけではないよ。
全社員の協力がなければ会社が良くなるはずがない。
社長は、身も心もボロボロになるほど皆のために働いている。
それは、会社をよくする。
つまりは、みんなの生活を守り。
皆の将来のためだよ。
社長が金に厳しくなるのは当然、皆の生活がかかっているから。
自分のためではない。
冷静に考えればわかるだろう。
ただ不平不満を言って責任逃れをし、自分のエゴを通そうとしている人間と。
皆のために誠心誠意働いている人は。
そして、誰を守らなければならないかは。
若い人は、誤解してはならないよ。今、学んでいるのは、自分の将来のためだ。
他人が教えてくれないからと、楽したり、言い訳するのは、よそう。
自分のためにならない。今研鑽を積むのは自分のためだよ。
若いころに楽すること覚えたら、年を取ってから困ることになる。
自分の怠慢を他人の性のするのはよそう。
自分のためにならない。
少なくとも、決めれたことは決められた通りやろう。
決められたことというのは一種の約束。相手がいる。
決められたことを決めた通りにやらなければ、仲間全員に影響が及ぶ。
仲間に対する背信、裏切り。
「決めたら、決めた通りやろうね。」
「打ち合わせたら、打ち合わせ通りやろうね」と言うのは、基本というより、道徳的話なんだけれど、これが、結構わかっていない、できない人がいる。
自分がやるべきことをやらないで、他人のせいばかりにしているのは、最も卑劣なことだ。
自分がなすべきことを、まず、なせ。
組織にも仕事にも、歴史がある。
過去の仕事やいきさつは、今の仕事の背景、前提となっている。
歴史は歴史としてととらえる。
それが正しいとか、従わなければならないというわけではない。
言い訳をするためではない。
どう今につながっているかを知るために明らかにするのだ。
過去がいいとか。悪いとか。
やった、やらないの問題ではなく。
今の出来事とどうかかわっているかを知ることで、今何をすべきかを明らかにするためで。言い訳や、弁解でなく。
どんな、イベントや、店会。会議みたいなことでも、最初は、主旨や目的、動機、いきさつがあるので、時間がたつうちに、当初の主旨や目的が薄れ、失われ、形骸化してしまっていることが多い。
企業や組織、仕事、制度には歴史があり、多くの人の利害、得失、思惑が複雑に絡み合い、やめるにしても、変更するにしても、どのようにしたらいいのか、判然としなくなっていることが多い。
企業文化には歴史がある。
だからこそ、記録を残し、ごまかせないようにするのである。
やってありますというアリバイのための記録は有害でしかない。
重要なことは、今から、未来にどうつなげていくかで。
自慢話も、言い訳も、弁解も、責任逃れもいらない。
古きを温めて新しきを知る。
すべては、明日のために。
豊臣秀吉は、織田信長に草履を懐で温めて出した。
石田三成は、豊臣秀吉がお茶を所望したとき、ぬるい湯、少し熱めの湯、熱い湯と出した。
ただ言われた通りのことをしていたら一生草履取り。茶坊主。
才覚を働かしたから、天下取りになった。
ほんのわずかな差さ。
何もできない。
何もわからないと、頭を使わなければ、一生、うだつが上がらない。
ちょっとした工夫なんだよ。
草履を懐で暖めろと誰も教えてくれないよ。
信長は、尻に敷いたかと手打ちにしようとした。
賭けさ。
秀吉はきちんと申し開きができた。誰もかばってはくれない。
おべんちゃらとか、秀吉は、他人が何と言おうと動じなかった。
後から、秀吉の真似をしても、認められない。
才覚とはそういうことさ。
誰も教えてくれないなんて言ってるようでは、認められやしない。
教わったことを正しているだけでは。チャンスは来ない。
時が来たらなりふりかまわず、行動に移す。
その時その時、勝負しているのさ。
それが学ぶということ。
大切なのは、秀吉は、信長に認められなければ、一生草履取りで終わると気が付いたことさ。
事実だからね。
天下取りとはそういう事さ