今日は、晦日、明日は、大みそか。
一年の終わり。

日本人は、厳粛な気持ちで、晦日、大晦日を過ごし、正月を迎えた。
昨今は、正月らしさが失せ、単なる長期休暇でしかなくなりつつある。

僕らにとって大晦日や正月は、特別な日だったんですよ。
餅をついたり、門松を立てたり。
おせち料理を作ったり。
正月は親戚中の人が集まって。
お雑煮を食べ。
凧あげに羽根つき、カルタ、福笑い、双六、書初め、そしてお年玉。
遊びだって、正月の遊びは、特別で。
そして、初詣に初日の出。
でも今は、特別感なんて何もない。
大晦日は、あわただしさの中に静粛に過ぎて除夜の鐘が百八つの煩悩を。
元旦の空気はピンと張りつめ、新鮮で清々しく。

何事にも始まりと終わりがある。
一年に始まりと終わりがるように、人生にも始まりと終わりがある。
仕事にも始まりと終わりがある。
一日にも、始まりと終わりがある。
春夏秋冬にも始まりと終わりがある。

その事を、親父たちはどこかで意識していたように思える。

始まりと終わりがあるのは、命の営みだから。
死と再生。
だから、始まりと終わりを厳粛な気持ちで過ごした。
生きる事に芯があるとしたら始まりと終わりによって凝縮される。

今は、何にでも、芯がない。
仕事にも、生活にも、学問にも、家族にも心がない。
だから、まとまりがない。まとめようがない。

魂があれば、肉体は保てる。
魂がなくなれば、肉体は、ただの骸。
朽ち果てるだけ。
仕事も、計画も、組織も、命がなければ、心がこもらなければ、まとめようがない。
始める傍から、バラバラに解体していく。

何でもだらだらと、曖昧に始まり、ケジメなく、なんとなく終わる。
或いは、ダラダラと際限なくやり続ける。

だから、仕事に命が宿らない。

僕らは、仕事だって、組織だって命、魂、心がこもろなければ、始末に負えない。
形骸に過ぎない。

でも、仕事でも、組織でも、計画でも、魂や命、心がこもれば、仕事や、組織、計画が、自身の力で我々を導てくれる。
魂のこもらない仕事も、組織も、計画も続かない。
制御できなくなって暴走するか。
力がないと、進まなくなる。
挙句、正体のない、とりとめない仕事になる。
そして、仕事や組織、計画に魂を込めるのは最初と最後にあると。
だから、親父たちは厳粛な気持ちで始まりと終わりに儀式を行い、祭礼をして、魂を込めた。
神棚に詣でて、心を込めたのである。

なぜ、初詣をするのか。
何を誓うのか、
なぜ誓いを新たにするのか。

現代人は、儀式だの祭礼なんて、形式に過ぎないというけれど。
儀式や祭礼を骸にしてしまったのは自分達であることに気がついていない。
儀式や祭礼に魂を込めるのは我々なのだ。