時間は変化の単位です。
そして。時間の単位は、天文学的単位だという事。
ここが重要なカギ。

変化は、時間の関数ととらえる事ができる。
運動は、変化である。故に運動は、時間の関数である。

運動には、直線運動と回転運動、その他の運動がある。
ただ、分析は、基本的に直線運動と回転運動を基礎として行う。
周期的運動は回転運動とみなす。

直線的運動は一方的な運動である。

人生や歴史を一方的運動とみなすか、周期的運動、即ち、回転運動とみなすかで、根本的な思想哲学が変わってくる。

例えば、輪廻転生という思想は、人生を回転運動とみなした結果であり、人生は一回限り、これは、一神教的とらえかたや、無神論的とられ方で、終末論的な思想になる。

与えられた時間に限りがあるか、際限がないのか。
どう捉えるかで人の生き方は変わる。

問題なのは、時間の単位は不規則だという事です。

時間の尺度が一番不規則だという事と、六十進数と十二進数を組み合わせて成り立っている。
また、七進数も使われている。
このように、時間は不規則に見える。
しかし、時間は、回転運動によって形成されているという点を見落としてはならない。

多くの人は時間に基づいて生活しているのに、時間が規則正しいものと錯覚している。時間が不規則なのは、時間が、天体の運動に基づいて成立したからです。一日の時間は日が昇ったら働いて、日が沈むと家に帰って休む。三度三度の食事、それから農耕や生活、それに基づいて形成された。

最初から論理的ではない。経験的。確率的。

時間を与えられた事、所与の事と捉えるからわからないので。時間ほど曖昧で不確実な事、とらえどころのない事だと考えるべきなので。つまり変化から常にとらえなおす必要がある。逆に言うと時間が働かないと変化がない。静止している。仮にこの世の中が静止している状態が続いたとしても人は認知できない。

時間が等間隔に刻まれているというのは人間が決なおすで、実際のところは分からない。そういった時間に囚われず、物事が生起する順番を時間だとすることも可能で、実際、日本も江戸時代以前は日毎に時間の刻みは違っていたので。日時計が基本。

時間は、変化の単位であるから、定刻に基づかないで順序で捉えることも可能。
その意味では、人生を刻む時は、誕生、幼児期、思春期、青年期、壮年期、老年期、死と刻みこともできる。

時間が陰に作用しているのが定数。陽に作用しているのが変数といえる。

哲学も、科学も時間をベースにしながら時間に対する定義や、思想を明らかにしない。一神教的時間と仏教やヒンズーの時間、そして、日本人の時間の思想は明らかに違う。日本人は刹那的なんです。

何度も言いますけど、この根本思想を明らかにしないと倫理の問題は語れない。
例えば、因果応報という考え方なのか、天罰という考えなのか、神の裁きなのかそれによって倫理観の神髄が変わってしまう。

一神教徒が恐れるのは神の意向ですね。それは預言書に集約されている。それに対し仏教とヒンズーは因果応報ですね、自分の行いの報い。後は天国と地獄ですね。これらが混然一体となって倫理の基盤となっている。
日本人は刹那所義的ですから、ばれなければいい。ばれても水に流そう。だから、風呂が好き。

これは、プライバシー問題にも影響している。プライバシーは、神には誤魔化せない。この世の事ですね。ですから欧米人は聖書に手を乗せて嘘つくなと。そこが日本人にはわからない。今の日本人は踏み絵をさせても意味がない。死んだら総てリセットされると思い込んでいる。
だから、罪の意識もなく自殺する。切腹もね。

人が自分を保つためには、自分という芯がなければならない。
そして、芯は一つでなければならない。
一定の年齢に達するまでに芯を確立できなければ、自己崩壊を起こし、やがては、自己を喪失する。
芯が分裂すれば、自己を制御できなくなる。
そして、倫理は、自他の関係によって育まれる。
倫理は、相対的で相手や状況によって使い分けることは可能だけれど、倫理は、自己を制御する基盤だから、統一性がたま持てなくなれば自己は分裂するか喪失する。
だから、芯が必要なのである。

倫理は、認識上の生じる。故に相対的である。
倫理が相対的だと、普遍的価値観はならない。つまり完成されないし、統一性を保つのが難しい。
故に、普遍的、絶対的な裏付けがないと統一性が保てなくなる。
その普遍的、絶対的根拠とするのが神である。
しかし、神も分別の対象、つまり認識の対象とすると普遍性、絶対性は失われる。
ただ、存在を信じるのみである。

倫理は、自他との関係によって形成される。
分別は、自他を区分する事事によって生じるが、人は、最初から自覚、自分を意識している訳ではない。
他者に対する働きかけを通じて、間接的に自己を意識する。
故に最初の価値観、倫理観は他者に依存している。

自分を意識する。自覚するのはずっと後の事。
下手すると、自覚せずに年老いるもの見る。
動物の中に、鏡に写った自分の姿を自分と識別できないものもいる。

動物の様に、生きる為の行為を通じて早い時期に生理的に習得している部分もある。
そうした、倫理観は生理的肉体的な構造に生得的に与えられた価値観をベースに後天的に学習するのが基本である。
最初から言葉で論理的に与えられるものではなく、基本的に経験的、統計的の基準、規範である。

経験を通して人は道徳を学ぶ。
道徳を学ぶ時、生病老死の四苦は重要な契機となる。
諸行無常。

時間は変化の単位である。
運動は、変化である。
故に、運動を考える時、変化を起こす力、働きが重要になる。
これは物理的だけでなく、心理的、経済的変化も同じである。
働きとは、対象の変化に及ぼす影響力。変化を促す影響力といえる。

直線運動は、一次元、回転運動は、二次元である。
線型と言うのは、運動を一次元に還元する事である。

定数というのは、時間が陰に作用している状態を意味する。
変数は時間が陽に作用していることを意味する。
ただ、定数、変数も相対的で、条件や視点を変えると定数も変数となり、変巣も定数となる事を常に留意する必要がある。

経済で言うと貸借は時間が陰に働き、損益は陽に働いている。

時間について。
時間は変化の単位である。
運動は、変化である。
故に、運動を考える時、変化を起こす力、働きが重要になる。
これは物理的だけでなく、心理的、経済的変化も同じである。

働きとは、対象の変化に及ぼす影響力。変化を促す影響力といえる。

直線運動は、一次元、回転運動は、二次元である。
線型と言うのは、運動を一次元に還元する事である。
定数というのは、時間が陰に作用している状態を意味する。
変数は時間が陽に作用していることを意味する。
ただ、定数、変数も相対的で、条件や視点を変えると定数も変数となり、変数も定数となる事を常に留意する必要がある。
経済で言うと貸借は時間が陰に働き、損益は陽に働いている。

これらはすべて認識上で生じる事で、分別以前の存在には影響してない事を前提とする。故に最終的な根拠は事実に置く。

人の価値観、倫理は四苦、欲望による偏向や影響を受けていて常に歪められており、その前提に立って事実を確認する事で補正する事が求められる。
これは、認識上の問題。

要は、自分と他者との位置と関係と働きの上で観念、思想、倫理、法は成立しており。故に科学を含めて観念、思想、倫理、法は、不完全で相対的だという事。

絶対的な事は絶対にないという論理的矛盾を引き起こす。
認識上の産物は、相対的で不完全だという事を忘れてはならない。

これは数学的論理の無謬性という矛盾。
数学的論理も絶対ではなく相対的で、数学も神を超える事はできない。
数学も手段であって、絶対的真理ではない。
物理学も。そのような前提で科学を学ばないと、神を否定する事になる。
その時、人は自制心を失う。

知識は、真理ではない。
知識が指し示すことを悟らないと真理にはならない。
知っても、悟った訳ではない。

数学の無謬性も然り。
数学は絶対真理とはならない。
物理学も然り。

病の原因を解明したところで病から逃れられるわけでないし、まして、死からは逃れはしない。
いくら科学が発達しても生病老死が解決したわけではならない。
それを神はコロナウィルスで示された。
人は不老不死にはなれないので。
それが諦観。諦観は諦めではない。
前提を自覚する事。

生物化学兵器は、人が開発したので、神ではない。人である。
原子量を使うのは人で、原子力をうまく制御できなければかえって人に災いを招く。
人の事は人へ。神のものは神へ。

時は、無情、無常。

生きる喜びは不完全で相対的だから得られるので。
だから、完全さを求めず、不老不死も求めず、あるがままの自分を受け受け入れて。
花園をひらひらと、恍々惚々。

儚く。

もののあわれ。