日本人は、民主主義に幻想を抱いている。
まず、民主主義は、降って湧いて出るようなもので。
放っておけば自然に成るような事だと思い込み。
民主主義と非暴力主義、人道主義を一体のものと決めつけている。
自分が丸腰になれば、相手は襲ってこないとか。
自分に攻撃的意志がなければ、相手は攻撃しないとか。
戦争は嫌だ、したくないと呪文を唱えていれば、戦争は、向こうの方から退散してくれると本気で思っている。
これはもう、宗教的願望なのだけど。
それも、宗教は、全て、非暴力主義で、平和主義だという日本人の勝手な思い込みなのだけど。
太平洋戦争だって、日本が、一方的に悪くて、他の国は良識的。
だから、中国や、北朝鮮、ロシアやアメリカの良心を信じていさえすれば平和なんだと。
戦後の安逸した生活に馴れている日本人は、非暴力を、あたかも自明なことの様に受け止めているが、平和主義に潜む暴力に気がついていない。
平和主義や非暴力主義も、時に、過激化するのだ。
民主主義は、ダーウィンが唱えた進化論の如く必然的帰結で。
独裁や圧政は、市民によって倒され、何もしなくても民主化され。自由化されるなんて、ありえない。
民主主義が進歩的で、独裁主義国や、イスラム国は、根拠もなく後進国だと決めつけ。
共産主義と資本主義の決着はついたと思い込んでいる。
だから、アフガニスタンがタリバンに制圧されても、意味が分からない。
圧倒的暴力の前に良民は、無力である。
人権も、自由も、平和も、多くの人々の血によって勝ち取られたという歴史的真実も見ないで。
自分たちの力で、自分たちの権利を守ることができなければ、いとも簡単に、独立なんて奪われる。
大体、自国の力で独立を守れない国に主権なんてない。
丸腰では、無法者から、自分だけでなく、家族も守れない。
そんな、道理すら、理解することができない。
非暴力主義も、無抵抗主義も、唯物論者や独裁者、急進的一神教徒にも通用しない。
ヒトラーにも、スターリンにも通用しない。
人道主義を国是としている国民国家だからこそ通用する。
アメリカもフランスも奇蹟的に確立されたのであり。
人民の意志があって獲得された体制だという事を忘れてはならない。
決して平和的手段によって獲得されたのではない。
お人好しの権力者が、己の悪事を悔いて、自発的に権力を、譲ってくれると、本気に、信じている日本のジャーナリスト。
それを世界の常識だと。
独裁者は独裁者。
革命の場も、戦場も修羅場。
何が、人権で、何が人道なのかも考えもしないで。
民主主義の方が、君主制度や封建制度よりずっと歴史が浅いのだ。
圧政は、世の常。
良識が、常に、暴力に勝つなんて限らない。
歴史は、残酷だ。
日本人は、話せばわかるという。それが、民主主義だと。
それが日本人の民主主義に対する幻想なのだ。
話してもわからない。
だから、厳格なルールに基づいて会議場で決着をつける。
それが、民主主義だ。
民主主義とは、会議場の決闘なのである。
戦い、競技なのである。
会議場で決着が付かなければ、往々にして武力が用いられた。
日本人は、民主主義は市民革命という、権力闘争の果てに確立されたということを理解しようとしない。
日本人は、敗戦で、天から、民主主義が降ってきたと錯覚している。
屈辱感も、誇りもなく。
言論の自由を口にする。
香港や、中東の戦場で戦っている者に対する、痛みの、共感もなく。
檻に入った虎をからかったところで、勇気があるとはいはない。
不正や圧政と戦う覚悟もなく、簡単に民主主義を口にし、安直に、人道主義や平和主義とゴチャごちゃにしてしまう。
自由も、民主主義も、安易な平和主義、非暴力主義と同じではない。