教わろうとするから、苦しくなるんだ。
学ぼうというふうに頭を切り替えれば、もっとクールに冷めた目で見れるようになるさ。
相手は、自分より年上で、経験も豊富だから、自分よりわかっている、知っている、できるはずだと決めつけるから、ただ、教わろうと思いこむ。
でもね、ハッキリ言えば、自分も七十になってわかったけど、年を取れば取るほど、経験を積めば積むほど、わからないこと、知らないこと、できないことがかえって増えるんだよ。
だから、いつも、いつまでも、学び続けなければいけないなと。
それが大切なんだよ。

親父たちの時代は、何もかも、始めって、テレビもなく、電話もなく、冷蔵庫も、洗濯機も、掃除機もない。無論、コンピュターもない。
だから、誰も教えてくれない。
自分で学ばなければ道が開けない。要は、僕の前に道はない。自分の後に道ができると言う状態。でも、一度、道ができると、後の人間は、後ついていけばいいと錯覚する。
道が出来てから来た者は、道は教わるものだと。
だから、広場の道でも道の上しか歩けなくなる。
車の走っていない砂漠の交差点でも信号が赤だと進めない。

線路の上しか走れなければ、線路がなくなったら、動けなくなる。脱線するしかない。
いつだって、自分たちの前に道が開けてるわけではない。
自分で自分の道は切り拓かなければ、開拓者、パイオニアがいなくなった途端。
パニックになり、混乱し、思考力が停止する。
そして、道の迷い、漂流、挙句に、遭難する事になる。

相手がね。
自分より、優れていて、わかっている、知っている、出来ると思い込むから見えなくなる。
人を見るんだよ。
学ぶ気になれば、クールに冷めた目で人が見れる。
この人は、本当は、わかっていないんじゃないか、知らないんじゃあないか、できないんじゃあないかって。
そうしたら、本当に、わかっている人、知っている人、できる人を自分で探すさ。
自分の師を自分で探すさ。
昔、学を志す者、自分で自分の師を求めて、旅をしたんだ。
まず、本当の師をね、自分で選んだ。
だからこそ、師の恩なんだ。
学ぼうとしない者に教えることはできない。

日本の学校と欧米の学校の違いは、日本の学校は、教えることを中心にしているのに対し、欧米の学校は、学ぶ事を中心としていることかもしれない。
教える事を主とする日本の学校は、どうしても、先生中心にならざるをえない。

俺だって、剣道のこと、野球のこといっぱしのこと言えるさ。
でも、実際にやれば、素人だと言うのが、一発でわかってしまう。
だったら、できるふりして、やらないさ、バカにされるの嫌だからね。
特に、年下で、部下の前ではね。自分の専門分野はなおのこと、口が裂けても、わからない、知らない、できないなんて言えない。だけどそれではいつまで経っても、剣道も野球は学べない。
年をとると既得権も増えるからね。
自分が、わからない、知らない、できないと、知られたら既得権を失うかもしれないからね。

何を教えてもらったかではなく。何を学んだかだよ。
結果から何を学んだかだよ。
何を教わるかでなく。何を学ぶかだよ。
何も教わる事はなくても、学ぶ事はできる。
失敗だって、失敗こそ学ぶ事はある。
その気になれば。
教えてくれないと恨むより、学ぶ事さ。

どうやって生きていくかは教えられない。
だから、学ぶしかない。
何が知りたいかは、教えられない。だから、自分で学ぶしかない。
何が知りたいかが分からなければ、何を教えていいのかわからない。
誰が知りたいことを知っているかは教えられない。
誰が答えを知っているかもわからない。
だから、学ばないと。
何をしたら問題を解決できるか、誰も、教えられない。
だから、皆で学ぶ。
学ぶことを知らない者とは、一緒に問題解決はできない。
問題解決は、皆で学ばないとできない。
今の学校は、学ぶことを教えられない。
なぜなら、学ぶとは、自分で問題を設定することから始めなければならないから。
どんな子に育てたらいいかは、教えられない。
学ばなければ。

学問とは、自らに問い学ぶ事。

自分が何を教わりたいか、何が問題なのかが分からなければ教わることはできない。
まず学ばなければ。
自分に問い、自分で問題設定ができなければ。

何を学んだきったて。
何を教わってきたかではなくて。
旅は、学ぶ事さ。
だから、楽しんだ。
生きる事も学ぶ事さ。

答えがあると思うから、間違える。
教えられる事なんてわずかさ。
一緒に学ぼう。

学んでこなかった人は、教える事はできない。
自分が教わった事を唯伝えるだけ。
そのつもりで、学ばないと、訳が分からなくなる。
学べなくなる。

この歳になるとね。
若い頃の三倍、勉強しないと、皆についていけない。
教えるなんてとんでもない事さ。
だから、保安の事は、若い人に教えてもらおうと思う。
むろん、学ぶさ。
でも、学ぶ事が多くてね。
保安の事は、俺より、現場の人間の方が詳しいしプロだからね。
ただ、保安教育だから、教えようとすると間違うよ。
どうやって学ばせようかって考える事さ。
自分の身は自分で護る。
現場の人間が、自分の身を守るためになにが知りたいか、何を学ぶべきか。
それがわからなければ、教えたくても教えられないからね。
当番の時、何がわからなくて不安なのか。
緊急の連絡が掛かってきたらどうしようとか。
お客様と対応していて困った事ないか。
仕事していてヒャとした事とか。
当人たちが一番、知っているさ。
事故だって、一番、怖い目あったのとは、当事者だからね。
だから、当事者の話を聞くさ。
そして、自分たちで考え、自分たちで調べ、自分たちで答えを出していく。
そうでないと身につかない。
学ばせる事さ。
教えようとしたら、教えられないよ。
自分達の事は、自分たちで片付ける。

水辺に馬を連れて行っても水を飲ませる事はできない。
馬に水を飲ませたかったら、馬を全速力で走らせることだよ。
のどが渇けば馬は教えなくとも水を飲むさと。

それが学びさ。

僕はね。皆から学びたいんだよ。
教えるのは辛い。
怖くて教えられない。
皆と学びたい。

学校で剣道を教えてもらっても、剣道を教える事はできない。
剣道を教えたかったら、自分から師を選んで修行、学ばなければ。
学ぶという事はそういう事。
生きる事は、教えられない。学ばなければ。
学ばなければ、自分の力で生きられなくなる。

人を見るさ。
この人は、本当、わかっているのか、知っているのか、出来るのかってね。
でも、わかってない、知らない、出来ないとわかっても、相手をバカにしてはだめだよ。
なぜなら、本当に、わかっている人、知らない人、できる人は、わからないことは、わからない。知らないことは、知らない。できないことはできないというから。
学ぶことさ、ともに学ぶことさ。
そうしたら、他人は皆、師に思えてくる。
学ぶということは、自分の虚飾をかなぐり捨てないとできない。

教わる相手を間違えてはいけない。
間違えたら、何も学べないからね。
ヤクザに学べばやくざになるさ。ペテン師に学べばペテン師になる。
師は、自分で探し、自分で選ぶ。それが、本来の学問、修行。

師は弟子に学び。
弟子は師に学ぶ。
親は、子に学び。
子は親に学ぶ。
上司は部下に学び。
部下は上司に学ぶ。
学ぶ気がなければ教えられない。
学ぶ気がなければ、教われない。

現場の事は、現場に聞け。
現場の人に教わらないと。

一人の人間がすべての情報を持っているとは限らない。むしろ稀。
上司は、自分が教えられることと教えられないことを仕分けし、自分が教えられないことできないことは誰に聞いたらいいか、手伝ってもらったらいいか一緒に考え。
必要に応じて自分から依頼、紹介、指示をする。

自分一人で全てを解決しようとするから学べないんだ。
自分一人では解決できないと悟った時、学ぶことを覚える。
聞く耳を持てる。

一人で教えるなんてできによ。
教えるなんて考えあたら苦しくなる。
でもじゃあ何にも教えられないかっていえばそうでもない。
自分で教えられる事があったら喜んで教えるよ。

年をとると、それまでできてたことができなくなったり。
物忘れをするようになったり。
新しいことの理解力が悪くなったり。
判断力が鈍くなったり。
耳や目が悪くなったり。
でも、それまで学んできた事や経験を教えることはできる。
だからコーチや監督になる。
この歳になると教える事より教わる事の方が多くなるかな。
大体、教えるにしろ、何を知りたいか、教わらないとね。
教わると言う事はそう言う事さ。

僕はね、教えようなんて思っていない。
学ぼうって、一緒に、学ぼうって思っているだけ。
だから、ともに学ぼうという人がいなくなったら。
師を求め、友を、同志を求め、旅に出るかなって、そう思い始めている。
だって、俺は、もっともっと学びたいもの。

学ぶ気のない人からは心が離れていくんだよね。
どうしょうもなく。