勘違いしないでほしいのは、
人に教えるというのは辛い事。
自分が蓄えた、知識やノウハウを吸い取られるのだから。
それに対して、教わるのは、自分は、他人の知識やノウハウを吸収できるのだから、楽しい事。
最近は、この点が逆転して見える。
人から教わるのが大嫌いという人が多い。
これは、やっぱり、学校教育の弊害かな。
教わるという事の本質は、教わりたいことを教わる事。
教わりたくもない事を教えられるのは、食べたくもない物を食べさせられるのと同じ。
そりゃ嫌いになるは。
社会に出たらね。
教わりたいことを教わり、学びたいことを学べばいい。
教わりたいことを教わる事になれば、教わるのは、すごく楽しくなるよ。
勘違いするなよ。
嫌な事をするのが勉強でも、仕事でもないからな。
好きなことを学ぶのが勉強だし、好きな事で生きていくのが仕事だからな。
好きな事だから耐えられるので。
職場で、教育を受ける時は、教える側の視点で教わってご覧、そうすると、教える側の意図が見えてくる。
職場では、教える側の意図が、教わる側にとって大切なんだ。
なぜなら、職場で教えている事は現実的な事、仕事をしていく上で実際に使っていく事、一緒に仕事をするために必要な事だから。
その点が学校教育とは、全く違う。
学校では、先生の教育するための意図なんて意味ないからね。
だから、邪推される。おためごかしだと。
学習塾の先生の方が人気が出る。
目的が明確で受験に必要なこと以外教えない。
だから、学校の本性がむき出しになる。
進学塾の先生に、人生は教わるたくないからね。
でも、職場での教育は、教える側と教わる側の意図、目的を一致させる必要がある。
いったん、仕事を始めたら、共通の目的で協力して仕事をしなければならない。
そのための教育だからね。
だから、職場では教える側は、教わる側の視点、教わる側は教える側の視点を理解する必要があるんだ。
職場の教育には、目的が明確にあるからね。
職場では、受け身になったら教育の成果は得られない。
攻撃的、能動的、自分の意志で教育をうけないとね。
学校は、お金を払って教育を受けるけど、職場では、お金をもらって教育をしてもらう。
当然、対価を求められる。
学校教育は、受ける側の投資で、職場の教育は、教育する側の投資なんだ。
その点を理解しないと、職場の教育の意義を理解できない。
職場は戦場だからね。
学校のお勉強とは違う。
実践的に学ばないと。
これからみんなは、いろんなセミナーや会合にいったら、そこで学んだこと、得た情報を帰ってきて、仲間に教えなければいけない。
得るだけ、入力だけではだめ。
与える、出力も含めて、教育なんだ。
人を教える事は、自分にとって学びだし。
教える事は、一番の教育。
自分が学んだこと、得た情報を他の人に教える時こそ、自分が学ぶ時さ。
教わる事は教える事、教わる事は、教える事。
教育にはね、三つの要素がある。
教わる事、学ぶこと、教える事、そしてこれは一体なんだ。
だから僕は、いつもみんなに感謝している。
教えることは、学ぶことであり、皆から、教わる事だからね。
なんでわからないんだと思うのは、自分が学んでない証拠。
教わっていない証拠だと思って反省してるけどね。
まだまだ未熟だよね(笑)
受け身になるとね。
人は、何も考えられなくなるからね。
常に能動的に考えるように。
人から、教わるにしても、言われたことをするにしても、受け身になると、自分が自分の考えまとめることができなくなるから。
相手が言った事すら理解できない。
「何を言ってんだ」という事になる。
相手の言っていることを自分の頭の中で再構築するから、理解できるので、そのためには、能動的、つまり、自分の考えを持つ必要がある。
少なくとも相手に話を聞こうとしないと。
馬鹿げたことだけど、指示されたことがわからない、理解できない理由の過半は、聞いていない、聞こうとしてない。つまり耳を塞いでいるから。
相手の話を聞こうとする意志がなければ、まず、集中しないからね。
半端に聞いて、わかったつもりになる。
「切符買ってきて」と言われて。「はい」と言って飛び出してしまう。
飛び出した後で考える。それでは何が何だかわからない。
「切符買ってきて」と言われたら、まず自分が切符を買いに行きますという意思を持つ。
自分が切符を買いに行くためには、何を今すべきかと考えるから、「切符を買いにいてくれ」の意味が分かる。
そこから今、自分、何ができるか。すぐに行けるか。
それとも、片づけておくことはないかと考える。
ただ、切符買って来いと言われて受け身でいたら、何も考えられなくなって、頭がパニックになる。
後でなどといい加減に聞くと、さあやろうとなった時、肝心なことを聞いていなかったことに気が付けど、既に時は遅し。
聞くに聞けないで時が過ぎていく。
教わるにしろ、指示されたことにしろ、自分に置き換えて能動的にならないと、自分の事にできない。
学校では先生は常に教える側で、生徒は教わる側、この関係は崩せない。
しかし、職場は違う。
上司は常に教える側で、部下は常に教わる側と決まっているわけではない。
この点を勘違いしたら、職場は成り立たなくなる。
学校は集団であって組織ではない。
だから、一人の先生が、何十人、時には、百人を超える生徒を相手にできる。
しかし、組織はそういうわけにいかない。一人の人間が管理できる人数は限いられている。
職場では、問題や状況によって、教える人間と教わる人間は立場を代える。
上司は部下から教わることが多いのである。
学校では、知識を教えるけれど、職場では、勉強の仕方を教える。
同じ教育でも、この点が決定的に違う。
学校の教育で重視するのは試験の結果だけれど、職場の教育で重視するのは、答えを導き出す過程だ。
結果を追っかけるだけでは人を指導することはできない。
行動を変えることがカギなのだ。
トップに、運転手をつけるのは、偉いからではなく、経営に専念してもらうためだからな。自分で運転すると言われたらそれはそれで。
何か勘違いしている人いる見たいだけれど。
部門長が、指図するのは、部門長が偉いからではなくて、それが仕事、役割だから。
先輩が指導するのは、先輩が偉いからではなくて、経験があるからで。
支店長が、朝礼で訓示をするのは、偉いからではなく、全員に伝えることがあるからで。
仕事で、偉いとか、偉くないとか、別に、特権があるわけではなく。
役割や立場の違いがあるからで、その辺を勘違いしないよう。
役割を決めたら、その人が、その仕事に専念できるよう手配するのがマネージャの仕事で。
例えば、イベントの進行役を決めたら、その人が、進行役に徹せられるように人を手配するので。
そのために役割を決め、分担ができるようにする。
くれぐれも、偉いとか、偉くないとかが基準ではなくて、一人一人が自分の役割を果たせるようにすることが目的なのだから。
優劣、軽重を問題にしているわけではない。
教わる側は無責任なんだよ。
だって教わってるんだから。
それに対して、教える側には責任がる。
教わる側は、六十点で場合によっては零点だっていい。
教える側は、そういうわけにいかない。
生徒が零点では、先生は立つ瀬がない。
だから、合格点を決めて、合格点に達しない人間を不合格にする。
そうしないと、先生は、先生としての責任が果たせない。
生徒が全員零点では、何のために教えているか。
それが学校。
百点を取るか取らないかは、生徒次第。
それに対し、職場は違う。
結果を出さなければならない。
だから必要な事は教え合うし、カンニングしても満点を取らなければならない。
暗記など頼ってられないし、記憶をもとに答えなんて出したら怒られる。
その場で調べて、確かめろと。
でも学校の生徒は、調べようとも、確かめようともせず。自分の記憶に固執する。
職場では、九十九点でも許されない事がある。
九十九点取っても、残りの一点で事故が起これば総てオジャン。
それが仕事場。
仕事場では、間違いなく、確実にすることが求められる。
だから全員が一致協力して満点が採れるようにする。
わかっていることでも調べて確認をする。
それが、組織である。
学校は知識を覚えさせる。
職場の教育は、勉強の仕方を教える。
そこが決定的に違う。
だから、職場では暗記は重視されない。
調べればわかる事は調べればいい。
なまじ、記憶などに頼られる方が始末が悪い。
仕事で求められるのは、確かさであり、個人の能力ではない。
能力が劣るのなら、機械や他人の力を借りて自分の能力不足を補えばいいのである。
だから、知らない、できないを恥じる事はない。
恥じるとしたら、恥ずかしい、悔しいと自分の力不足を認めない事どぁる。
職場では答えなんて暗記しても意味はない。
答えより、答えの出し方の方が大事だからである。
他人に教える為には、自分が理解していなければならない。
わかっていなければ教えられない。
学校で物理を教えている先生で物理を完全に理解している先生がどれほどいるだろう。
教科書に書かれていることを教えているに過ぎない。
教えるのは、教わる事より、何倍も大変である。
教わる側は、合格点が六十点なら、七十点でも構わないが、教える側は、常に、満点をとる事が求められる。
教科書で学んだ事をどう仕事に活用するか、活かすかを考える。
それが学校と違う。
コンビニで働いている外人は、日本語を仕事に活かすために学んでいる。
学校のように知識として学んでいるわけではない。
人は、ある程度、先の読める事に対しては冷静に対処できるが、先の読めない状況に陥ると、何も考える事ができなくなり、恐慌状態に陥る。
予測のつかない状態になると、恐怖感や、不安に襲われ、自制心が損なわれ、外部からの情報を遮断し、あるいは、壁を作って自己防衛に走る。
それは、外界の対して攻撃的になり、その場から逃避しようとする。
感情的になり、冷静な判断が下せなくなる。
その結果、癇癪を起して怒ったり、泣いたり、笑ったり、情緒が不安定となる。
また、凶暴になって、暴力的になったり、破壊的な行動をとったりする危険性がある。
どうしていいかわからないという状態がいけないのである。
危機的状態でも、どうすべきか、何をすべきかがわかっていれば恐慌状態には陥らない。
逆に、平穏な状態でも、質問を受けたり、要求を突き付けられた時、次に何をしていいかわからなくなると恐慌状態に陥り、感情的になったり、逃避的になったり、攻撃的になる。
どうしていいかわからなくなると、人は恐慌状態に陥る。
要するに、予測がつかない事や想定外の事が起こった時、どのように対処すべきか、あらかじめ決めておくことが肝要で、それが基本なのである。
予測がつかない事、想定外の事、特に、事故や災難、苦情がこれに該当するが、つまりリスクにどう対処すべきか、それは、基本中の基本。
だから、基本が大切なのだ。
そのような、滅多に起こらない、特別事だけでなく。
日常的な事でも、自分なりに形を決めて、繰り返し体に覚えさせ、身に着けておかないと、簡単な事も処理でくなくなり、日常的に恐慌を起こすことになる。
怒りっぽい人、癇癪持ち、頑固で人に意見を聞かない人、強圧的で、強権的、独善的の人の多くは、若いころに基本を身に着けていない場合が多い。
ただ、年齢がいってから、基本を身に着けるのはかなり困難で。
そういう人は頑なに基本を拒むようになる。
だからこそ、基本は、なるべく早いうちに、身に着ける事だ。
基本ができていないというのは、誰にでも簡単に身に着けられて、できるようになれば、当たり前にできる事が、できないという事で。
結局、社会生活がおくれない人、普通に、コミュニケーションができていない人の多くが、基本ができていない事による。
それを、何らかの障害や、異常だと考えると抜本的な解決に至らない。
かつては、家庭や地域コミュニティーが基本を躾けてきたが、今は、学校に教育が特化し、学校は、マナーや作法を躾ける場ではない。
極端な場合、躾を否定する。そのために社会人としての基本を躾ける場がなくなってしまった。
なぜ、発達障害や、境界性パーソナル障害、鬱病などが増えているのか。
それは、学校教育にも一因があると思われる。
学校教育の何が問題かというと、学校が自分たちの基準によって世の中の出来事をすべて当てはめようとするからで、何度も言うように、学校の環境が特殊なので、特殊な基準で普遍的の事を推し量ろうとするから。学校の基準からはみ出たものが異常とされる。
例えば、学校で一年で習得すると決められたことを二年かけてすれば学習障害とされる。
一時間で答えを出せないと落第生にされる。
しかし、一年で習得しなければならない、一時間で答えを出さなければ、異常だとする根拠はない。
それは、学校の都合でしかない。
人には個性があり、人それぞれ成長の型が別なら、絶対的基準なんてなく。
それを無理やり当てはめようとすれば異常な人間が増えるのは必然。
それは、自分たちで異常者を増やしておきながら、違う原因があるかのように思わせているにすぎない。
人は皆、何者かの力によって生かされている。
そして、それは、人は皆、何者かを生かしていることを意味する。
人は一人では生きられない。
社会と自分の関係、公と私の関係によっていて、この関係を断ち切られたら、人は生きていけなくなり、社会も成り立たなくなる。
民主主義であるか、独裁主義であるか、全体主義であるかは、この関係の在り方によって定まる。
かつては、この関係を明確に意識してきた。
今日、我が国ではこの関係が不明瞭になりつつある。
全体と自分の関係、公と私の関係が見えなくなると、人は、孤独になり、強烈な不安、恐怖に襲われる。
手続きとか、事務的な仕事を嫌がるのは、自動車を運転して海に行きたい、皆と旅行したいとか、温泉に行きたいと言っているくせに、自動車の運転免許を取るのは面倒くさいと駄々こねているような事。
自動車の運転だってその気になれば面白い。
運転を覚えないと楽しみ方もわからない。
美味しいとこどりして、準備とか、前処理とか、手続きとか、打ち合わせとか、人間関係とか、段取りとか、後片付けとか、苦情処理処理とか面倒くさいとほったらかしていたら、何も実現できないし。
後々、何倍も面倒くさくなる。
教わる、学ぶ、調べるというのは自分でやるから意味がある。
他人だよりにしていたら、何も自分のものできない。