誰に、何を、いつまでに、どの様にさせるかを考えるのが、マネージャが最初に考え、実行する事。
マネジャーは基本的に一人でできる事はない。
何故なら、マネージャーの仕事、任務は組織を運用する事、人を動かす事だから。
その為に仕事の詳細をある程度理解しておく必要がある。
それは仕事、作業の全体像を組み立てる必要があるからで、自分が作業をするためではない。
この点は、十分注意する必要がある。
監督は、基本、バッターボクッスに立たない。
例えば、方針を決めるにしても、方針を決める為の作業になるべく多くのメンバーを参画しておくことが鍵になる。
方針を一人で決めて、自分一人納得しても、他のメンバーに、伝えたり、納得させ、理解させることができないから。
方針は、チームワークの為に定めるので、チームが共有する事が求めらる。
支店長一人が、始点の方針を理解し決めても、誰にも伝わっていないで、理解されていなければ方針を決める意味がない。
これは予算や計画も同じ。
いかに、方針を全員に周知させるかが。大事。
その意味では、現実離れした、抽象的で、難解な方針は始末が悪い。
指示命令に美辞麗句入らないと言われている。
方針は、簡単で誰でも思い付き、わかりやすい事が最善である。
先ず方針は独りで立ててはならない。
故に、いきなり、「方針は」と決めつける事はできない。
つまりその場では決められないようにできている。
ある程度自分の考えをもってというだけである。
その場で決まられるのはとりあえず最初にやる事。
決められることから、決め。
できるところから始める。
最初から、結果を求めても不可能。
試合の結果も試験の結果もやってみなければわからない。
その上で方針を立てる為にとりあえず、誰に、何をさせるかを考えるのが先決。
気がついた人が注意する。
注意する前に躾けておく。
教えずに注意しても反発するだけ。
教えても、その時は反発しても、注意された時に気付く、気付けば改める。
嫌がるからと言って躾けなければ、直しようがない。
基本が身についていないと常識がない事になる。
常識は社会人として身に着けておかなければならない基本的な事。
常識のある人にとって何でもない当たり前な事。
常識のない人は、その何でもない事、当たり前な事ができない、わからない。
だから、常識のない人を注意しても、改まらない。
なぜなら、常識がないから。
常識のある人にとって、常識のない人が理解できない。
常識のない人にとって、注意された事がわからない。
だから始末が悪い。
注意する前に教えろ言われたも。常識ですよと。
好例が挨拶も礼。
引きこもりの原因は、挨拶ができないからですよと言っても、そんな事と。
「挨拶しろ。」「お礼しろ」と注意しても、挨拶の仕方、お礼の仕方がわからないのだからしようがない。
挨拶の仕方、お礼の仕方がわからなければできない。
挨拶の仕方、お礼の仕方を誰かが教えないといけないのだけど、常識ですよ。
互いに、わかっていることを前提としている。
野球を始めてからルールを学ぶような事。
ルールは、全員が身に着けておかなければならない。
監督だけ、審判だけが理解していればいいという訳ではない。
躾けておかないと挨拶一つできなくなる。
挨拶一つできなければ、正常な社会生活が営めない。
挨拶は始まり。お礼は、始まり、礼に終わる。
答礼は自分でする。
親が挨拶したからといって、子が挨拶しなくていいという事ではない。
何故なら、挨拶は自分の為にする事だから。
挨拶は自分が他者に対する接点。
ON・OFF。
つまり、スイッチ。
挨拶ができないと、集団活動に加われない。
相手の社会の入り口だから、相手の社会、組織に入れない。
だから、心ある親は真っ先に挨拶の仕方を躾ける。
挨拶ができないと引きこもる。
引きこもりの原因の第一は挨拶にある。
礼は形に意味がある。
言葉に意味があるわけではない。
礼は、形、行為が伴って初めて意味を持つ。
態度、姿勢に現れる心。
礼が封建的なのではない。
礼の形が封建的なのだ。
前に居たら、後ろが見えない。
後ろから見た前が見えない。
脇に気がとられたら、前も後ろも見えなくなる。
遠くばかりを見ていたら、足元が見えなくなり。
足元ばかり見ていたら遠くが見えなくなる。
木に気をとられて森を見ず。
森を見ていたら木を見失う。
上からは、裏が見えない。
下からは、表が見えない。
内に居ては外がわからない。
外からは内は見えない。
一人で見える範囲には限界がある。
だから、チームを組む。
チームを組まなければ身動きできなくなる。
常識、挨拶ができないとチームワークをしたくてもチームに加われない。
利害が一致したところで結束し、得意なところを分担する。
一致した利害が目的となり、分担したところが役割となる。
全体では、使命があります、人には才能がある。
人を指図し動かす事は悪いことではない。
倫理というのは、命題にあるのではなく、働きにある。
倫理は、内的規範であり、自分の内に向けた命令。
仁義礼智忠信孝悌とは、例えば仁とは、仁という働きを言う。
仁とは、人と人の関係、つながり強化する働き。
義とは、人の行動を律し、社会全体を統制制御する働き。
礼とは、人と人の関係を円滑にし、秩序を保とうとする形による働き。
智とは、与えられた情報を整理、体系化しただし判断ができるようにする働き。
忠とは、忠実、自分の行動を律し、自己実現を促す働き。
信とは、社会全体の人間関係を保証し、維持するための働き。
孝とは、自分の出自を尊び、人としての尊厳を守ろうとする働き。
梯とは、人と人の絆を大切に保持し、志を同じくする者の結束を強くする働き。
嘘をついてはならないというのは絶対命題だけれど。その命題を現実に適用させようとすると種々の条件や前提によって嘘の解釈や定義が変わってしまう。
結局、嘘か否かは言葉の働きによる。故に、倫理の本質は、言葉で表された命題でなく、働きなのである。
この点を理解していないと、中国人の価値基準である徳の意味を理解することはできない。
元亨利貞の意味も分からない。
根本は働きにある。個人情報の取り扱いがいい例で、例えば、医療の個人情報法を医学の進歩や患者の治療に役立てるのと、脅迫やゆすりの種にしたり、政治的に利用するのとで、まったく意味が違う。
礼も形式論的にとらえていたら理解できない。
礼は、形によって定義された徳であり、倫理である。
無論、礼の裏にある思想、哲学の正当性の問題はある。
礼の下地、基礎にある思想が封建主義であれば、封建的な例となり、独裁主義ならば独裁主義的な例になるが、民主主義ならば、民主主義的な礼になる。
民主主義は理念主義的体制だから、民主主義にとって礼は重要な働きをしている。
体制が変わって根底の思想が変われば礼も変わるが、だからと言って礼そのものを否定するのは道徳を否定する事に通じる。