手順にやればいいよ。
手順にやれば簡単だよと言われたけど。
これには前提がある。
一緒にやる奴が皆手順を頭に入れていればねという事である。
これは野球の対抗試合などを考えればわかる。
基本的なルールを頭に入れておくのは、当然だけれど、対抗試合を成立させるためには、ルール以前の決まりも頭に入れておかなければならない。
仕事も同じである。
だから、手順は早く覚えろよと言われた。
自分の形を作れとも。
号令によって、形を作り整えていく。
手順というのは、意識しなくてもできる。
要は習慣なのである。
朝起きて、職場や学校に行くまで手順は、人それぞれ、決まった形がある。
それは、なんとなく、習い性でそうなった形なのか、意識して作った形なのか。
意識して作った形でも、自分の意志なのか、強制されたのかで大きく変わってくる。
強制のない社会はない。
挨拶を悪い事。
起立、礼を、強制的で封建的だから、廃止すると誰が言わせ誰が決めたのか。
始礼、終礼もしかりである。
誰が、起立、礼の号令をなくしたのか。
誰が、挨拶をしなくていいと決めたのか。
言葉狩りもしかり。愛国心も。
誰が、どのような権限で廃止を決めたのか。
闇の中である。
それこそ、独裁的。批判も、反論も許さず。
言論の自由なんてどこ吹く風。
社会主義国も、自由主義国も、指示命令は悪いなんってどこも言っていないし。
むしろ、指示命令の重要性は変わりない。
その結果、コロナの対策を自主、自発性に求めたのは、日本だけ。
日本以外、特に、中国は強権をもって臨んだ。
中国を称賛する人達が、なぜか、強制的処置に反対したのは、なぜか。
始まりもなく、終わりもない。
けじめというものを、親父たちは、重んじてきたけど。
けじめなんて意味ないと…。
ダラダラと始まて、だらだらと始まる。
開始の号令と終わりの号令が忘れられたのである。
大学紛争が盛んな時代、「挨拶を、なぜ、しなければならないか。」と、よく議論を吹っ掛けられた。
結局、「挨拶をする事で、どんな不都合な事が生じるのか。そんなに不愉快なのか。挨拶をすることで、人間関係が円滑になるならいいではないか。」と納得させはしたが、結局、そいつは、社会に出ても満足に挨拶ができず。
社会に、適合できないで苦しむことになる。
俺の家に遊びに来た時、親父が「なぜ、あいつは挨拶をしないのか。」と怒るから、「しないのではなくて、できないんだ。」と、親父は、「最高学府に入学できたのにか」というから、「最高学府に入ったからだ」と答えた。
集合。
解散。
こんな簡単な、号令もかけられない。
だから始まらない。
終わらない。