古来、兵は防人(さきもり)と言われた。
侵略を専らとする軍は、余り存在しない。
守りを専らとする軍の方が多い。
専守防衛というが、では、国防とは何か。
守りに徹すると言っても、敗けてしまえばそれまでである。

今の日本では、国防を論じるだけで侵略者と言われかねない。
国を守る事を考えるのと他国を侵略する事を考えるの同じ事ではない。
この辺の道理すら、今の日本人は、理解しようともしない。

檻に入った虎をからかったとしても勇気があるわけではない。
現実は、野に放たれた虎と対峙しなければならない。
戦争は現実なのである。
目の前の現実の脅威から目を背けたら平和など保てない。
戦争は嫌だ、反対と叫ぶだけでは、戦争はなくならない。
平和も、また現実なのである。

国を守る事を準備しただけで好戦的というのは言いがかりに過ぎない。
健康食を食べただけで不健康だ、病気というのは理不尽だ。
災害に備えるだけで、災難を呼び込む事、忌事とするのは、いわれなき迷信である。
軍人だって戦争を望んでいるわけではない。
むしろ、一番、平和を望んでいるのは軍人である。
軍人は殺人鬼ではない。

ロシアは、自国の大義のよって攻め込んだ以上、おいそれと撤退する訳にはいかない。
ウクライナはウクライナで自国の領土を占拠されている限り、妥協の余地はない。
ロシアもウクライナも、互いに譲れない以上、長期戦の様相を呈してきたと言える。

こうなると、国力を使い尽くしたほうが敗ける。
互いに消耗戦になる。

戦争は、想像以上に国力を消耗させる。
勝者も敗者も国力を傾ける事になる。

孫子曰く、凡そ用兵の法は、馳車千駟(ちしゃせんし)、革車千乗(かくしゃせんじょう)、帯甲(たいこう)十万にて、千里にして糧を饋る(おくる)ときは、則ち内外の費、賓客(ひんかく)の用、膠漆(こうしつ)の材、車甲の奉、日に千金を費やして、然る(しかる)後に十万の師挙がる。

軍を国外に展開し、常駐させるのは、巨額のコストがかかる。
だから、国外に大軍を展開した場合、長期戦になれば、攻め込んだ国の方が不利になる。

夫れ兵久しくして国の利する者は、未だこれ有らざるなり。故に尽く用兵の害を知らざる者は、則ち尽く用兵の利を知ること能わざるなり。善く兵を用うる者は、役は再び籍せず、糧は三たびは載せず。用を国に取り、糧を敵に因る。故に軍食足るべきなり。国の師に貧なるは、遠き者に遠く輸せばなり。遠き者に遠く輸さば則ち百姓貧し。

ベトナム戦争もアフガニスタン紛争も、大国の国力を消耗させた。
そして、それが大国の衰退の要因の一つとなるのは、歴史を見ればわかる。
特に近年は、全面戦争となる事が多いから、勝者が戦利品で潤う事も期待できない。
戦争は、割に合わないビジネスである。

アメリカも泥沼化したベトナム戦争によって国力を衰退させ。
広範囲に反戦運動が起こって大義を失い。
敗北へと導かれ、未だにその痛手に苦しんでいる。
ソビエトは、アフガン撤退、二年後に崩壊した。

いずれも短期に決着つけようとして失敗したのが致命的となった。
大国も泥沼化した長期戦に引き込まれれば、亡国の憂き目にあわされる。
長期戦となったら、目先の勝敗に一喜一憂するのは愚かである。

中国も例外ではない。泥沼の紛争に巻き込まれれば、国力を衰退させていく事になる。

戦争の背後には、経済の問題が隠されている事を忘れてはならない。

日本人は、架空の世界で生きてるようなものである。
現実を直視しなければ、災難から逃れられはしない。
いつまでも、現実から逃避し、先送りにしているわけにはいかないのである。

兵の基本は防人であることを忘れてはならない。
国を守る事で、他国を侵略する事ではない。

孫子曰く、兵とは国の大事なり、死生の地、存亡の道、察せざるばからざるなり。
故にこれを経るに五事を以てし、これを校ぶるに計を以てして、其の情を索む。
一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法なり。