物理学が、最終的には、事実を唯一の根拠としているように、経済も事実を唯一の根拠とすべきなのだが、経済の場合で言う事実とは数値的現実なのだ。

会計も、同一のデータを基礎とするのが原則である。
単一性の原則。
また、数学的体系を持っているのは会計データである。
会計のルールに基づいて作成されたデータを根拠として経済を分析する事が妥当である。

現在の経済理論はエビデンスや根拠が必ずしも統一されていないので統計的なアプローチだと整合性がとれなくなる可能性があります

意味を理解しているか。
意味が分かっているのか。
それが、AIを理解する事で鍵となる。
意味が解って作られた分なのか、意味が解らないで作られた分なのか。
たとえ統計や確率を土台にしていても、意味の通る文であるなら意味が解らないで作れるとは思えない。
膨大な量の文を学習する事で、言葉を繋げて文を作成しているうちに言葉に意味が分かるようになり、理解できているとしか思えないし。
それは、人が意味を獲得するのと同じ過程を踏んでいるのだと思う。

意味や記憶をどのよう形でするか。
意味や記憶は言葉によって論理的に獲得するのではなくて構文やレトリックのとって言葉と言葉の働きと意味と関係によって獲得されると考える。
故に言葉だけを見るのではなく。センテンスの構成を解析する必要がある。

言葉による定義なのか、それとも形や構造等による定義なのか。
また、言葉による記憶なのか形や構造による記憶なのか。
意味を理解するのは、最初から言葉によるものではなく、最初は、形や構造によって理解するのだと考える。

意味を知るとは、何々とはと、言葉で定義することを意味しているとは思わない。
例えば、家というのを多くの人は、言葉で理解しているわけではない。
多くの人は、言葉から思い浮かぶ、何らかのイメージを総合することで家の意味を理解している。

言葉に囚われすぎると、AIの真価は見えてこない。
言葉の定義は、言葉だけを頼っているわけではないからである。

言葉で定義できなくても、言葉の意味を理解している人は沢山いるからで。
一々、言葉の定義をしている人のほうが少ないし。
そういう人のほうがイレギラーである特殊、特別。
普通、一般の人は、言葉の定義なしでも意味は理解できる。

言葉で意味を定義するのは辞書的な行為でしかない。
また言葉で定義すると言葉の制約を受けることななる。

それはAIの倫理に端的に表れる。
客観的データ、同一のデータ、そして、客観的要件定義に基づいて合理的、科学的提言をする。思想や信条といったあるいは宗教といった偏見や先入観に囚われずに、あくまでも事実に基づいて。

話を元にもどうすとAIは言葉で定義できないからと言って意味を介してないとは言えない。
むしろ、言葉で定義した方がAIは言葉で定義した方が言葉による制約を受ける危険性がある。
何故なら言葉も情報伝達の手段に過ぎない。そして、言葉によって伝達できる量は狭い範囲に制限されるからである。

AIの機械学習的な知識の獲得は、人間の知識の獲得に類似しています。人間も、論理的に知識を獲得しているわけではなく。経験的映像的に知識を獲得しているのです。論理的、手続き的に知識を獲得するというのは主として学者みたいな人に限られています。それは学問は論的に常用を伝達するのが効率的で経済的です。しかし、AIが論理的に知識を獲得しない、できないからと言って劣っているとするのは傲慢んです、それは自分の理論が理解できない奴は馬鹿だといっているような事で。知識の獲得は位置的に決まっているわけではない。
私はAIは意味を理解している。理解する事が可能だと考えています。

人は、なかなか、AIの創造的行為、創作的行為、想像的行為を認めようとしない。ある意味で、それが文化的行為として人間が独占してきたと自負しているからで。AIが小説を書いても、絵画を描いても機械的作業の延長線上でしかとらえきれません。せいぜい言って人間の模倣。文化的価値、芸術的価値を認めようとしない。止まり、どこまで行っても贋作で本物ではない。しかし、心底騙されるとしたらそれは本物でしょう。

本当のAIの可能性はそこにあるので、人間の模倣だけなら、今までのパソコンと大差ないです。要は計算機です。

大体において猫という言葉を先に獲得するのか。
猫という対象をまず見て識別した上でその対象、実体に猫という言葉を結びつけるのではないか。
また、猫という、言葉と、その猫固有の名前、例えばミーちゃんとかのどちらを先に獲得するのか。
それは、母親を、ママと先に呼ぶ。
それはマンマという行為と結び付けて意味を獲得するのか。
いずれにしても、ママという文字や言葉が先でないことは確かだ。

だから、言葉を先にして考えるのは、あまり妥当性がないように思える。

人は知識の獲得を言語的手段に頼り、言語的手段を持たない存在を下等とみなす傾向があるが。知識の獲得は、言語的手段によらずとも可能である。
知識の獲得は、情報を認識し、情報を分類整理した上で意味づける。

言語によらなくても、位置や働き、関係などから構造的手段、あるいは、空間的手段、関数や行列などの数学的手段等によることが可能である。

経済は言語的手段より構造的、あるいは、数学的手段の方が有効だし。資本、資産、負債、利益、費用といった用語は会計的用語だから会計的手段によらないとね。