私は、今年、七十歳になりました。

七十年生きてきて、最近しみじみ考えるのは、人間、いかに生きるべきかという事ですね。

人間いかに生きるべきか。
敗戦以来、日本人は、この大命題を考える事が許されなかった。
例え、許されたとしても、国家とか、国益とか、建国の理念、憲法、国防、戦略といった国家に関することは禁忌とされ。
また、なんのため、誰のためといった問も許されない。
なんだかんだ言っても、コミンテルの指令か、アメリカからの押し付けの自由主義。
つまりは、外国勢力の物真似でしかなく。
その結果、日本人は、いつの間にか、歪な価値観を持つようになり。
挙げ句、日本人自身は無自覚と来ている。

今の政治家は、キャッチフレーズとスローガンばかり。
政策に志もなければ、魂も感じられない。

気迫を感じられない。

嗚呼、英霊たちよ、英霊たちよ、神よ。我が祈りを聞き給え。
貴方達の犠牲をあざ笑い、志を侮辱し、私腹を肥やすものを許せるのですか。

頂き女子とか、闇バイト。
彼らは、年寄を騙したり、欺く事に罪悪感なんて感じない。
彼等の目的は、金に見えるが、それでいて、お金に何の価値も見出してもいない。

その証拠に大人をだましてせしめた大金も使い道がわからず。意味のない事に散財し、どうしようもない男に貢ぎ、手元には何も残っていない。
金の為と言いながら、金に何の価値も見出していない。

八十年前。
まだ二十歳にもならない若者が爆弾を抱えて長い時間かけて、沖縄へ飛んで行った。
それは、歴史的事実。

七十になり、自分の人生を振り返り、これからどう生きていこうかと考える事があるのですね。

なんだか、人類の滅亡なんかも、妙に現実味を帯びてきて。
そりゃあ、これまでも、キューバ危機とか、核兵器が開発されて以来、最終戦争は。話題に上り。
東日本大震災やコロナのパンディミックの時は、人間の傲慢さと限界を間のあたりに見せられた。

ただそんな事より、滅亡が現実のものになりつつあるのに、多くの人が自分の生きざまを省みることなく。
何も変えようと、神に頭を垂れ許しう請おうともしない事が、人の滅亡をより現実的にしている気がする。

今の世界情報、戦争に経済に、環境異変。そして、生物化学兵器、エネルギー問題、宗教対立、思想対立、民族対立、などなどを考える時。
人間は、存在するに値するかという問題に、人間が対峙させられる事になるでろう。
人間の歴史など、宇宙や地球の歴史の比し、一刹那に過ぎない。

それでなくとも、生の行き着くところにある死が闇で、生も死も、純粋に個人的な事柄とするのならば。
いつかは、一人ひとりが底なしの闇と対峙せざるをえないことを意味するのだろう。
その時、私は、神の方を真直ぐ見て、怯えもせず、言い訳も、抗いも、たじろぎもせず、無言を通すことができるであろうかと。
この世の地位も、富も、名声もなんの力もないであろうし。

その時、一人ひとり自問自答することになる。
自分の一生は何だったのか。
なぜ、なんのために生きたのかと。

共産主義者でもなく、キリスト教者でもなく、イスラム教徒でもなく、仏教徒でも、ユダヤでも、ヒンズーでもなく、独裁者でもなく、ホームレスでも、大僧正でもなく、農民でもなく、犯罪者でもなく、裁判官でもなく、経営者でもなく、一人の人間として。

己が犯した罪におののいでも、救いはない。

地位とか、名誉とか、富とか、玉葱の皮剥きのように一枚、一枚、剥がしていた挙句。
最後の芯に、何も残らない様な生き様は空しい。
何のために、誰のために、なんの目的で、突き詰めても、何もない。
そんな生き方は空しい。

人は、結果しか見ようとさない。
しかし、結果だけで自分の人生を測ろうとしたら、生きる目的は失われる。
自分の人生の意義を知りたければ結果ではなく、生きる目的こそ問うべきなので。
だからこそ、人は、義を求めるのだ。
義に照らした時、人生の闇に明かりが灯る。
義を忘れれぱ、人生の闇は深い。

地位も、名誉も、富も、義を捨てれば、かえって闇を深くする。

この国の為に、命を懸けた人々よ、わが祈りを聞いてくれ。
今日本人の魂が絶えようとしている。

我々の業界は、インフラを担う産業でそれこそ、国家、国益を考えなければ、世のため、人の為に、何をすべきが問われるべきなのに。
結局、根本的命題を忘れた。
残されるのは、金の為。
その金の為すら、昨今は怪しく。

企業業績というけれど、何の目的で、企業業績を上げるのか、目的がわからない。
企業は、公器である。
株主や、経営者だけのものではない。
企業の存在意義は公の役割にある。

ところが、最近の企業の行動には、経済的合理性もない。
それに変わる大義があるというのか。

義も経済的整合性もない。
義もなく、経済的整合性もな変えれば何が残るのか。
誰の為に何のためにか、何の目的なのか。

国益なんて口にすら出せない。

今、日本に国難が迫っている。
一番の危機は、危機感のなさです。

世界は騒然とし、経済は危機的だと言うのに、相変わらず、難しい話は嫌だ、堅苦しい話は嫌だと。

世界が一つになるといった幻想が打ち砕かれると、改めて、国家とは、独立とは何かが問われ始め。
途端に、日本人は、日本が危うく、脆い地盤の上に立たされている事を思い知らされることになる。

日本人が、日本人として行動することが求められ時、国家の存亡が問われる。
その時、日本人としてのアイデンティティが失われたら、日本という国の存在、独立が問われる事になる。
それが、密かに進行する存亡の機、国難なのである。

日本人は、日本に生まれたということ以外に日本人である事に積極的意義を見出だせなくなっている。

今は、日本男児がいなくなった。 
自分は、血の一滴まで、日本男児です。 

今、我々は、自分たちの道義が問われていると思うのです。
こんなに日本にしてしまったのは、我々です。
この上、過ちを、恥を上塗りしたら、日本は独立国として成り立たなくなる。
だから、亡国の危機だと言うのです。

 人として。