心のタガを外すことさ。
今の若い人は、心にタガが嵌められている。
もっとストレートに、もっと率直に、自分の思いを、情熱をぶつけてごらん。
我々の先輩、つまりは団塊の世代は、学生時代、心のタガを外した。
それでやりたい放題。
でも、結局、建設的な方向に向かわなかった。
仲間割れ、仲間争いに明け暮れて。
彼らが救いを求めたのは、社会主義革命、自由主義革命だったから。
その化けの皮がはがれたら、行き場を失った。そして挫折した。
その挫折を見てきた、次の世代は、心を閉ざして、三無主義に陥ていた。
そして心にタガをはめて、無感動、無関心、無気力、事なかれ主義、日和見主義、ご都合主義に。
その結果、冷えびえと、氷のように心が凍り。何をやっても無駄と。
どちらも極端すぎるよ。
熱くなろうよ。
自分の体の内に潜んでいる熱量を引き出してさ。
心の叫びを、表に出して。
憤れよ。怒ってもいいんだ。
心にはめられたタガを外してさ。
自分達の力でこの会社を、この社会を、この国を。
情熱をもって動かしてごらん。
燃えるよ。
今の日本の若者たちはね。
知らずしらずのうちに心にタガをはめられて自由に自分を伸ばすことができなくなっているのさ。
だから、歪に、卑屈に身を縮める。
僕は、今、日本で一番哲学的なのは、日本のアニメや、漫画だと思っている。
そういった、アニメや漫画をね、蔑んでみせるのは。
それこそ、心にタガをはめる事ね。
漫画なんてくだらないとか、たかが、アニメじゃないって。
何が、日本のアニメを国際的にしたのか、それは、漫画やアニメがものすごく哲学的だからね。
僕はそう思う。
それが、他の国がまねできない事だし、たとえ、一時的にマネできたとしてもね、すぐに弾圧される。
なぜなら、他の国では、日本のアニメや漫画の様に無政府主義的状況にならないから。
日本のアニメや漫画は、何物にもとらわれない自由な発想が保証されているからね。
今の日本の若者の価値観の根底は、漫画やアニメによって形成されている。
でもね、漫画やアニメはくだらない。
あんなのは子供だましよ。
大人がまともに話すことじゃないと、タガをはめる。
それで、コスプレなんて、変人のすることと。
それに、若者は反発するけど、心のタガは外せない。
哲学とか、思想は、完成していて、それを、学ぶものと学校で刷り込まれ。
カントの有名な言葉に「人は哲学を学ぶことはできない、せいぜい哲学することを学ぶことができるだけだ」というのがある。
哲学や思想は学ぶものではない。
哲学するものだと、偉い哲学者が言いてる。
道教の世界でも、書物など抜け殻に過ぎない。
哲学は、過去の遺物ではなく。
今も、人々の生活に息づいている。
思想は、危険なものでも、有害な事でもの、過激なものでもない。
ただ、ありようによっては危険で有害、過激なものになる。
思想なんて、日常生活の中では、なくてはならない事。
危険で、有害で、過激の事と言う印象を持たせて、抵抗感を植え付けている。
それで、今の若者は、何の考えもなしに行動しているがごとくいわれ。
考えなしではなくて、表現するのが怖い、表現の仕方がわからないようにされていて。
思想について語り合えないでいるにすぎない。
でも、実際のところは、知らず知らず思想を語りあっている。
思想だなんて大上段に振りかざさなくても。
なぜなら、思想がなければなにも決められないから。
何の考えもなしに、思想もなく生きていくなんてしんどいもの。
例えば、こんな社会にしたいねとか。
どういう家庭を築きたいかとか。
夢ね。
あるいは、こういう不正は許せないとか。
世の中のこういうところが嫌なんだといった憤り。
そういった何気ない会話を洗練したのが思想なんだ。
それを思想などというと危険人物か変人扱いされて心にタガが嵌められた。
思想は普段から、日常的に話をしなければ。煮詰まっていかず。
いざという時に決断が付かなくなる。
何故、人を好きなるのかとか。
どういう仕事に就くかとか。
結婚はなぜするのかとか。
家族はなぜ必要なのかとか。
親に、どう接したらいいのか。
子供を、どう育てたらいいのか。
友と、どう付き合ったらいいのか。
責任を持つとは、どういうことかとか。
こういう事を自問自答しながら自分なりの考えを持つ。
それが思想であり哲学である。
だから、結婚をするからには根底に何らかの思想があるので。
何の考え、思想もなく結婚するわけではない。
ところが思想はなにか、特別な事、難しい事で、危険で、有害な事とタガをはめられているから、気楽に結婚の事や友達の事が語り合えなくなる。
人生意気に感ずは、本音で語り合うからで。
自分の心を押し隠している限り。
本音で付き合える人に出会う事はできない。
心にはめられたタガを外して。
自分の思いを。
世の中の不正や、政治に憤ることも。
どうせ、自分が何を言っても、何をしても変わらないよと。
心にタガをはめて、あきらめる。
団塊の世代は、革命、大学紛争、べトナメ戦争反対とでも、本質的な事は何も変わらなかったと。
次の世代は、事なかれ主義、日和見主義。
斜に構えて、何事にも醒め。
でも、行動を起こさなければ、何も変わらない。
わかっていても自分一人ぐらいと。
心のタガを外さないと心の底から信じあえる人とは、出会えない。
憤り、怒りは、そのこと自体悪い事ではない。
不正や悪を正し、世の中や、会社をよくするためには、憤り、怒りは、原動力となる。
変革や、改革は、若者の憤り、正義感が力となる。変革や改革は、破壊を伴う。
ただ、建設のない破壊は単なる暴力に過ぎない。
我々も含め、多くの若者たちは、変革を求めて体制に挑んだ。
それで反体制、反権力、反権威、反米、反戦、反公害。総て、反が付き。
しかし、いかんせん、建設的な構想を持っていなかった。
建設的な思想がなかったのである。
なかったというより、マルクス一辺倒、教条主義敵的なものだった。
要は、反逆、革命思想。
その為に、何ら、建設的な事を示せず、破壊で終わってしまった。
自分はかつて、先輩に対し、「あなた方は、ぶっ壊すだけぶっ壊したが、何も、後輩たちに建設的な事を残せなかったじゃないか」と大喧嘩した事がある。
破壊するだけなら、単なる暴力に過ぎない。
それが次の世代に絶望的な諦め、挫折感、虚脱感をもたらした。
その結果、三無主義。
ご都合主義、事なかれ主義、日和見主義。
自分の考えを持たず、世の中に迎合し、要領よく立ち回ればいい。
そういう思想。
戦争に負けてからね。
戦争を煽った知識人が追放されたのをみて。
戦後の知識人は、反体制に偏った。
意見は反対すること。意見、即、反対意見。
何でもかんでも反対していれば間違いないと。
結局、負け犬根性なんだよ。
戦争に負けてね。
アメリカに憧れて、でも、恨みもあって。
それで反米、共産主義。
大義は、勝者の側にある。敗者は、勝者の憐憫に縋るだけ。
多くの知識人は、戦前は権力に阿(おもね)り。
戦後、進駐軍に阿り。
鬱屈した感情が、何でもかんでも、体制に反対していればいいと。
戦前に、権力に迎合した反動で、知識人は反体制でなければと。
挙句、学園紛争に挫折して。
難しい話はやめよう。嫌なことは見ない事にして。
今が楽しければいい。
辛い事、嫌なことは悪い事。後回し。
空気が読めないの。
政治的話はご法度。
天下国家なんて身の程知らず。
思想、哲学は危険。
他の人の事になるべく関わりたくない。
自分の事はほっといてと、知らず知らずに心にタガをはめ。
でも、これも思想だよね。
結局ね。思想は、突き詰めると自分の問題。
自分が辛くて、苦しんで、悩んで、答えを求めて足掻き。
そこから、思想が生まれる。
自分の悩みや苦しみを直視できなければ、思想なんて生まれない。
でも、自分の悩みや苦しみと対峙しない限り救われはしない。
逃げたくても、自分からは逃げられない。
だから、思想は救い、希望。
破壊的、破滅的の事ではない。
あの人はいい人なんだけど、自分がない。
どうせ、なにをしたって変わらない。
お前、一人ぐらい変わっても何も変わらない。
本気になるから、真剣になるから、傷つくんだ。
誰も、お前の事なんて、認めてくれない。
お前の考えなんて、誰も、聞いてはいないよ。
どうせ一生懸命、やったって報われない。
真剣にやるだけ損。
むきになるだけ馬鹿にされる。
正直者は馬鹿をみる。
何の得があるの。
周りの空気が読めないと、仲間外れにされる。
何事も、見ざる、聞かざる、言わざる。
見てない事にすればいい。
ええから、ええから。
お前でなくてもだれかやってくれるよ。
臭いものには蓋をしておけばいいんだよ。
どうせ、何を言っても聞いてくれない。
何もしなければ、責任を取らされることはない。
人を信じるから、期待するから、裏切られる。
人を信じても、自分が傷つくだけ。
なんでもそこそこ適当、いい加減でいい。
夢なんて、夢さ。
本音と建前を使い分けろ。
聞いたふりをしておけ。
どうせ、わかってはいないんだから。
耳元で囁かれて心にタガがはめられる。
世の中は善良な人間ばかりではない。むしろ、悪党ばかり。
味方ばかりではない。敵だってたくさんいる。
いい時ばかりじゃあない。うまくいかない時のほうが多い。
確かに、それが、現実かもしれないが。
それでも、諦めてしまう言い訳にはできない。
逆境こそ自らの真価が問われる。
大切なのは、希望であり。
それが思想である。
希望こそ思想であり、哲学。
それを忘れてはならない。
どんなところに住みたいか。
どんな生き方がしたいか。
自分の役割は何か。
自分にとって仕事とはどんな意味があるのか。
仲間とは。
信じるとは。
お金はなぜ必要なのか。
何が間違っていて、何が正しいにか。
悪とは何か。
会社とはなにか。
家族とはなにか。
人生とは。愛するとは。
自由に話せる場を作る。
それが、自由主義、民主主義の根本思想。
この会社をどんな会社にしたいかというのは会社をやっていく上での根本思想。
人事制度だって、営業政策だって、仕入れだって、根本思想がなければ統一できない。
なぜなら、それが、会社を経営する目的だから。
だから、なるべく多くの社員の意見を聞く。
それが民主主義的な経営。
自分の言葉には責任をもう。
覚悟を持つ。
正しいと思ったら、正々堂々主張する。
金を儲ける事は、悪い事ではないよ。
今の時代、金を儲けなければ生きていけない。
金を儲けることは、夢や希望を実現するために必要なことさ。
金儲けは悪い事とタガをはめる事はない。
金儲けは汚いとタガをはめる事もない。
ただ、金をもける事は、手段で、目的ではない。
手段である金もうけを目的にしたら、本末転倒。
なぜ、金儲けをするのか。
本来の目的を見失ったら金に報復される。
金を儲けるのは手段なら、金の使い道のほうがより目的に近い。
今、仕事の話というと金の儲け方ばかりに偏って、金の使い道は疎かにしている。
でも、一体全体、何で金儲けをするの。
それは、金の使い道があるからじゃない。
そして、金の使い道こそ、目的じゃないの。
金が儲かったら、みんなで、おいしものを食べに行こうよとか、家でも買おうとか。
みんなで旅行するのもいいなと。
社員、皆が一戸建ての家が持てるようにしたいなと夢を語っていた経営者がいたな。
戦後の焼け野原で、みんな貧しかったころ、そんな夢を語ってたよな。
あの頃は食うや食わずで、その日暮らしだったけど。
それから、高度成長、バブルと。
でも、本当に日本は豊かになったのかな。
バブル当時は、金はあったかもしれないが、馬鹿な浪費、使い方をしたんじゃないかな。
あの時、もっと賢い使い方ができていたら。
究極的に言えば、金を儲けるのは家族を養う事かな。
でも、金を儲ける事ばかりに熱心になっていたら家族が崩壊した。
笑い話にもならない。
金を何に使うのか、それが目的で、そのために儲けることは手段さ。
金を儲ける事より、賢く使う事のほうがずっと難しい気がするし、そこに思想があるのだと思うな。
心のタガを外して、熱く語れ。
感情を爆発させることも、たまには必要だ。
ただ、感情に任せるのではなく。
志に向かっては発露するなら。
好きとか嫌いとか。
泣いたり喚いたり。
笑っかと思ったら、急に怒り出したり。
とかく、感情というのは厄介だ。
でも、結局は、人の世は、感情によって動かされている。
なぜなら、感情の源は、心だから。
人を動かすのは心だから。
心をなくした組織は魂を抜かれたようなもの。
心無い社会は殺伐とする。情けない。
だから、最後は感情に訴えるしかない。
それが皆の求めている集団じゃあない。
人生において決定的な影響を及ぼすのは、出会いさ。
師との出会い。
友との出会い。
愛する人、伴侶との出会い。
同志との出会い。
仲間との出会い。
神との出会い。
仕事との出会い。
夢との出会い。
出逢いで重要のは、共鳴共感。
人生意気に感ず。
共鳴共感は、感動する心、信じる心ががなければできない。
自分が傷つく事を怖れていては、共鳴共感はできない。
素の自分をむき出しにし、無垢なる魂、純なり心になれるから共鳴共感できる。
無防備な自分を守るのは自分の思想。
世の中は善良な人間ばかりではない。悪党ばかり。
だから、信じあえる人との出会いが鍵なのだ。
味方ばかりではない。敵だってたくさんいる。
故に、助け合える会える仲間との出会いが大切なのだ。
いい時ばかりじゃあない。うまくいかない時のほうが多い。
ただ、逆境こそ自らの真価が問われる。
艱難辛苦は、汝を玉にする。
信じあえる人、愛する人に出会うためには、素なる自分を晒す勇気が必要。
人生、いかに生きるべきか。
一緒にやっていくんだから。
一緒にやっていけるようにしなければ。
そのためには、自分たちは、何を目指しているのか。
どんな生き方がしたいのか。
どうしたら助け合えるか。
そう、思想を、本音で語り合っていかなければ。
腹を探り合ったり、騙し合ったり、嘘ついたりしてたら苦楽をともにできやしないよ。
苦しくなったら、投げ出して逃げてしまう。耐えられない。
敵前逃亡する奴とは手は組めない。
苦しい時に頼りなる奴こそ、真の友、仲間だ。
いざと言う時に、逃げだす奴は信用できない。
思想は、破壊的、革命的、暴力的、過激、反社会、反体制、反道徳的、非日常的、何回で近寄りがたいと言う印象を植え付けてしまった。
しかし、思想は希望であり、創造であり、夢である。
また、道徳の根源に思想がある。
思想や哲学は道徳そのもので。
反道徳主義なんて思想や哲学としての存在意義もない。
どんな国にも、会社にも、問題はあるさ。
だから、問題点や、改善点を話し合う事は悪いことではない。
それが、最初は、不平不満、愚痴のような事でもね。
ただ、それが、前向きな事、建設的な事に結びつかなければ、単なる、批判、非難で終わる。
解決できないまま内にしまってしまえば、そのうち、暴力的になり、争いの種になる。
だから、オープンにして話し合えるようにしておくことが大切なんだ。
思想や哲学は、何も、特別な事でもなく、異常な事でも、非日常な事でも、難解な事でもない。
当たり前で、日常的な、普通なことに、根本にこそ、思想や哲学が隠されている。
教育も思想。しつけも思想。
どんな子に、どんな人に育てるかは、最も思想的。
ルソーもロックも教育論を重んじた。
スパルタ教育を是とする人もいれば、自由放任を是とする人もいる。
でも、母親の数だけ教育思想はある。
思想とはそういうもの。
結婚も思想。
どんな人と、どんな家庭を築くかは、思想そのもの。
誰をどのように愛するかは、哲学である。
性こそ思想信条の問題。
何を信じるかで定まる。
教会で結婚する人もいれば、神前、仏前、最近は人前なんて言うのもある。
結婚式自体を否定する人もいる。
すべて、その人その人の思想のなせること。
ファッションも思想。
どんな服着て。どんな髪型にするか。それはその人の信条をよく表している。
だから、ファッションから、革命は始まる。
かつて、長髪は抵抗のシンボルだった。
詩は、思想の表れ。
だから、昔、詩は、武士の嗜みだった。
志を、詩に託したのである。
故に、武士は、辞世の句を残したのである。
それを教養という。
志しだよね。
自分はこうしたいと。
これから、十年、二十年と一緒にやっていくんだから、生半可な覚悟で続かない。
やり抜けない。
やっていい事、悪い事。
何を守らなければならないのか。
いかに生きるべきか。
それを探求し始めた時、考え始めた時、思想は生まれる。
年功序列、実力主義。
男尊女卑、男女平等。
皆、思想。
パワハラだって、セクハラだって、なぜ、どこが悪いのかは、根本思想がわからなければ。
自然の法則とはわけが違う。
年金だって、社会保険だって、税金だって、刑法だって、憲法だって、根本思想の問題だ。
人事制度もコンピュータも設計思想がある。
だから、自由に思想を語り合えなければ、築き上げる事はできない。
なぜなら、思想は、社会や会社の基礎、土台だから。
自分たちの意にそぐわないければ、国や会社は建てられない。
なかなか、パワハラや、セクハラがなくならないのか、それは思想だから。
この事を考えないと、簡単には、パワハラも、セクハラもなくならない。
納得するとか、しないとか。
改まるか、改まらないかではなく。
どこが悪くて、何をしてはならないのか。
それは、根本にある思想を理解しないと判断がつかない。
ただ、現象を捉えて、いいとか、悪いとか言ったところで核心はつけない。
どのような思想が背景にあるのか、それを明らかにする必要がある。
なぜなら、それは、思想的対立を意味しているからで。
日本人は、思想的対立を殊更恐れ、回避しようとする傾向がある。
しかし、民主主義では、思想的対立は、不可避とみなすからで、だからこそ、法によって判定することを原則としている。
これも、法治主義という思想である。
自分の思想(個人の思想)と自分たちの思想(全体の思想)は一致しないことがある。
このことは注意しなければならない。
その場合、自分(個人)が自分たち(全体)の思想を許容できるかが問題となる。
つまり、どこまでが許せて、何が許せないか。
それが、問題だ。
個人の思想と全体の思想に、どう折り合いをつけるか。
同じことでも解釈の仕方でいかようにもなる。
そこが厄介な事で。
全体の思想が統一されなければ国も社会も成立しない。
会社だって成り立たない。
どうやって、折り合いをつけたらいいのか。
そこで、考案された手段の一つが多数決。
ただ、それは、折り合いをつけるための手段の一つ。
人(指導者)に合わせるという思想もある。
神の意志に従えという考え、思想もある。
力ずくという思想もある。
勝負、ばくちで決着するという思想もある。
どうやって決着をつけるか、やり方には、こだわりもある。
どう折り合いをつけるかは予め決めておく。
そうしないと、争いになり。
結局、力で決着させることになる。
合意に基づき、予め、決めておく。それが契約である。
目的によってどこまでが許容範囲なのか。
仕事をする上でどこまで強制できるか。また、許されるか。
これが、学校や、国では、どこまでが許容範囲、守備範囲かの問題で。
会社、学校、国では、許容範囲が違う。
法と制度によって統一を保ち、統制を保とうという思想が、近代の国民国家の礎となる自由主義、民主主義、共和主義、法治主義という思想。
個人と全体で最終的に、総ての人から了承がとれるのは何か。
突き詰めると、観念の所産である宗教や哲学でと統一するの不可能で仕組みでしか合意は取れない。
つまり、自由主義は仕組みに忠誠する思想といっていい。
それでも、最終的合意がとれないから、戦争になる。
勘違いしてはならない。
近代国民国家は、民主主義を絶対とはしていない。
現に、アメリカは、大統領は、君主主義の所産、上下代議員制は、貴族主義、選挙は民主主義の三つの思想を、一つの体制に組み込んだものである。
戦争の原因の一つは、思想の問題。
だから厄介なのだ。
互いに許せない一線を越えているから戦いになるので。
妥協できない。
近代国家は、誓いと契約に基づいている。
そして、手続きの正当性に重きが置かれる。
成人式は、国の法と制度に従う事を誓う、誓約のための儀式。
国の法と制度に従う事を国家と契約した者が、その国の国民なのである。
それが、国民国家のにおける国民の定義。
何に、誓うか。
それは、自分が信仰する唯一絶対なる存在。
つまり、自分が信じる神。
人は欺けても、神は欺けない。
その典型が、結婚式。
新郎新婦は、神に誓うのである。
これも、思想。
人前結婚式は、社会主義に基づく。
一神教とは、人に信を置かない。
神への誓いと信仰に信を置いている。
人の気持ちは変わるし、背信行為も、また、人なんて簡単に裏切る。
信じる神も違えば、なおさら。
人を信じても騙されるリスクは、妨げられない。
しかし、一神教徒にとって神に対する誓いは絶対である。
たとえ、信じる神は違っても信仰心が絶対なのは変わりない。
神かけて誓わせるから契約が成立する。
モラルの問題というより信仰の問題なのである。
だから、一神教徒は、聖書に手をのせ宣誓をしてから契約のも裁判にも望む。
一神教との契約とは、人と人の約束ではない。
人と神との誓約なのである。
これが日本人には理解できない。
聖書に手を乗せ宣誓したところで嘘はつけるだろうと。
それで、日本人は、一神教徒の国から信用されない。
信じるに値する根拠がないと。
神を信じないと…。
彼らにとって神を信じない者は獣と同じ。
契約は、事前に、条件を明確にして、文章にして神に誓約する事で成立する。
事後承諾は、原則、認めない。
人と人との約束ではなく。
神掛けて誓う。
それが本来の在り方。
民主主義は手続きの思想でもある。
自由主義は、法と制度によって表現される思想。
近代国民国家は、キリスト教、一神教の基に成立したのは、唯一絶対な存在である神に対する信仰があったから。
そして、民主主義も、近代科学も、近代スポーツも、資本主義も、共産主義も一神教を母体として成立している。
唯一絶対な存在、神を前提とするから相対的考え方を受け入れる事が出来た。
これを忘れてはならない。
一神教徒は、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒を経典の民として他と差別している。
また、思想と信仰を持たない者は人としてみなさない。
野生の動物か家畜と見なしている。
今の日本人に自由は、家畜の自由でしかない。
なぜ、今の日本の若者は、思想や信仰を嫌悪するように仕向けられているのか。
それは、日本人を家畜にするため。
日本人は、思想、即、危険思想と吹き込まれている。
そして、生理的な嫌悪まで。
思想というのは、得体のしれない、怪しげで、危険な事の様に思わせて。
誰が、何の目的で。
どのような思想に基づいて。
そりゃあ、危険思想もあるさ。
でも、危険なことを防ごうとするのも思想。
反戦、平和、反暴力・非暴力、無抵抗主義も思想。
社会は暴力でしかう変えられないとする思想もあれば、暴力反対というのも思想。
危険思想があることを理由にして、思想は危険だ、思想は悪いと、思想そのものを否定する考えこそ、危険思想。
人の世は思想によって動いている。
これは真実。
思想を否定したら、社会全体が機能しなくなる。
何を信じるか、何が信じられるかが、肝心なので。
何を信じるかは、それこそ、思想の帰結なのである。
国家や組織は、何に信の根拠を置くか。
物理、科学は現実、実証、論理に信を置く。
スポーツは、ルールに信を置き。
貨幣経済は、現金の出納と記録に信を置く。
自由主義は、法と制度に信を置く思想で。
法と制度の下の平等であり自由。
法と制度を前提とするから、自由と平等は保障されるので、自由と平等は、相互補完的関係にある。
法と制度によって個人の思想の自由を担保しようという考え、つまり、思想が自由主義。
同じ神を信じる者同士は、強固に結束できる。
信じられる存在がない。
それが、現代日本人の弱さだ。
何も、信じられなくなった時、自己は消滅する。
共通した信じる物事を持たない組織は、霧散する。
スポーツの根本には思想がある。
野球のルールの根本には思想がある。
サッカーにはサッカーの思想が根底にある。
組織の中では、上下、左右の人の考え方、すなわち、思想がわからないと、組織を統制、制御できない。
貢献に応じって成果物を配分すべきだという思想もあれば、必要に応じて配分すべしという思想もあるし、何でも平等に配分するべきだという思想もある。
市場競争によって適正な価格を維持しようというのが市場経済の思想。
価格を統制しようというのが、統制経済。
中央政府が、計画的に経済を制御しようというのが計画経済。
破産するという恐怖感があるから会社は結束する。これも思想。
どんな会社にしたいの。
どんな家庭にしたいの。
どんな国にしたいの。
どんな世界、社会にしたいの。
どんな人生を生きたいの。
いい会社かって。
いい会社にするのさ。
みんなで。
自由に語り合えない、家庭、会社、国には、未来はない。
確かに、理解しない、理解できない人に話してもね。
でも、話さなくなったら、理解してくれる人、理解できる人と出会えあない。
自分の思想も磨けない。
思想や哲学のない人生なんて、仕事なんて、会社なんて、国なんて、底の浅いものになる。
若いから、年寄だから、女だから、男だからなんて、そんなことは、関係ない。
真偽、成否、是非、善悪、美醜に、新旧、老若、男女の別はない。
正しいとすることは、その人にとって正しいのだ。
人は、存在、生きている事実において平等だ。
だから、どんな人生をと問う事は、自由だ。
誰にも妨げられない。
自由に思想を話し合うことができないなら、
言論の自由のない独裁国、全体主義国、帝国と何ら変わりない。
目に見えない自己規制に縛られているなら、なお、質(たち)が悪い。
それこそ、不自由だ。
心のタガを外せ。自由になれ。自分で自分を縛るな。
自分を解放しろ。
自分の可能性に賭けろ。
自分の未来を見ろ。
可能性は将来にある。
それこそが夢の正体。希望。
人生はシナリオの無いドラマ。
決断は、決断した時、身につく。
決断は、決断するから身につく。
決断は、決断するから身につく。
決断は、決断することによって身につく。
決断力は場数が肝心。
故に修練鍛錬である。
決断は度胸である。
決断力のない者は、自分が決断しなければ、許されると思込み。
他人の決める事には、自分は責任がないと、他人に決めさせようと画策する。
愚かな。自分で決められないで、他人に決めさせようと策略したところ思い通りにはならない。
そういう人間は、結果が良ければ自分の手柄にし、結果が悪ければ他人の性にしようとする。
しかし、それでは、いつまでたって自分の問題は解決できない。
自分の人生も他人事になってしまう。自分の思想がない。
不決断は、最大の誤判断。
夢や希望を語り合った時、思想や哲学が生まれる。
そのためには、自分の殻を破り、素の自分をさらさなければならない。
裸の自分をぶつけあうから、真の信頼関係が生まれる。
真の信頼関係は、背中合わせの信頼。
自分の死角、弱みを補い合える人こそ、本物の同志。
そういう同志に出会うために、昔の騎士は遍歴の旅をしたのである。
それこそ、学問も同じ。
上面の事に囚われていたら、大事は成せない。
核心は、表面の裏に隠されている考え、思想。
大事をなすには、ただ一途に継続することが肝要で。
継続が力。その核心は思想にある。
堅牢な思想がなければ続かない。
途中で挫折する。
自分で仕事を組み立てるためには、自分の考えがなければならない。
なぜなら、自分で仕事を組み立てるというのは、言い換えると、自分の考えに基づいて仕事を組み立てることを意味しているからで、当然、自分の考えがあることを前提としている。
当たり前に、自分の考えで判断し、自分で決めていくのだから、自分の考えがなければ仕事を組み立てることはできない。当然と言えば当然だが、自分の考えで仕事を組み立てることはできない。
そして、仕事は、一人では、できないのだから、仕事を一緒にする人は、皆、同じ考えに、つまり、同じ思想に基づかなければならない。
それが、設計思想であるし、政策、施策である。
いずれにしても考えが明確でなければ、仕事を一緒にすることはできない。
思想は、日常的な判断をしていく上での基準。
経営思想とは、会社を経営、あるいは制度を制定する時の基準。
営業政策や仕入れ政策の根拠。(いつもニコニコ現金払いも経営思想の一種。)
仕事の思想は、仕事上の判断を下す時の基準、尺度。
設計思想とは、設計をする際の判断の基準。
だから、思想を明らかにしておかないと、統制の取れた判断はできない。
思想は絶対的、普遍的の事とは限らない。
これから、君たち若者の時代が始まる。
自分たちの時代とは、自分たちの力で生きていかなければならい時代が始まるという事。
自分たちの時代、だからと言って、やりたいことができるとは限らない。
その前に、自分たちの力で生きていかなければならない。
大体、自分たちが何をやりたいかが、わからなければ、やりたい事はできない。
自分の考えがなければ。
自分たちの時代とは、自分の力で生きていかなければならない時代だという事。
このことを今の大人は教えてこなかった。
我々は、絶え間なく、親から、社会に出た時、困らないように、一人前の社会人になるようと厳しく躾けてくれた。それがいつの頃か。いい学校に入れればいいと。
昔の親は、学校なんて卒業しなくてもいい。自分で生きていく術を身に着けろ。手に職をつけろと。
生きる事、自分の力で生きていけるようにする、それが、子育ての、第一の目標だった。
今はどうだ。
何故、引きこもりがこれほどいるの。
何故、就職できない人がいる。
何故、転職を繰り返し、正職に着けない人も増えてる。
何故、結婚できない人が増えてるの。
何故、社会人と自立できない人が増殖してるの。
何故、思想や政治についって話をするのは厄介で、煩わしく、面倒くさい事だと決めつけているの。
なぜ。
自分の考え、思想がなければ自立できない。
これから、皆は、自立した、一人の社会人として生きていかなければならない。
他人から、指図されなくても、自分の考えで判断できなければならない。
そのために大切なのは、自分の思想を持つこと。
自分たちだけの力で問題を解決できなければ、自分たち以外の何者かの言いなり、つまり、隷属しなければ生きていけない。
自分たちの考え以前に自分の考えがなければならない。
自分の考えを整理して、洗練した体系が、自分の思想。
だから、自分の思想がなければ自由に生きていけない。
自由の本源は、自分の思想にある。
自分たちの自由を守るためには、自分たちで問題を解決していかなければならない。
自分たちで問題を解決するとは、何を意味するのだろう。
それは、自分たちの力で問題を解決しなければならない。
また、自分たちの考えで問題を解決しなければならない。
要するに、自分の力、自分の考えに基づかなければ、何もできない。
どうしたらいいか、何をしたらいいかわからない。
思想は、自分が生きていく上での糧。本源。
だから、思想は、小難しいこと言うのではなく。
自分たちの日常的な考えを洗練したこと。
日々の悩みや、経験、失敗を反省し、自分なりに整理し、洗練したこと。
天下国家を語る事だけではない。
思想は、僧侶やサムライの専有物ではないよ。
職人には、職人の、農民には農民の、商人には商人の思想哲学があった。
それは身分を固定する働きがあたかもしれないが、身分制度を根底から突き崩す力も内在していた。
思想とは、魂の叫び、心の奥底から湧き上がる思い、希望、モラル、意志、夢、理想。
抑えがたい気持、好悪、善悪、愛、自尊心、誇り。
その一切合切を坩堝に入れ、どろどろに溶かして一つの塊にして。
その塊を磨いて、磨いて、鍛え上げる。。
生きていくための知恵、技術。これまでの経験や教訓。親や師、友達からの教え。
誰にでも持っている、生きていくためには根本にある価値観。
思想がなければ自分の統一性が保てなくなり、人格が分裂し、あるいは自我が崩壊し、狂う。
心の奥底に思想の塊があって、それが、人の心を揺り動かし、決断、行動へのエネルギーを発する。
恋をしたり、子供をそだてたり、友と付き合ったり、物を買ったり、進学したり、仕事をしていく上での指針、基準、尺度となる事。
生きていくための価値観。
だから、思想は道徳の本源。
今の自分を振り返ってみよう。
自分の力、自分の考えで生きてると言えるだろうか。
何故と自問自答してみよう。
なぜ、人が指図してくれないと仕事ができないの。
なぜ、マニュアルがないと、どうしたらいいかわからないの。
なぜ、教えてもらわないとわからないの。
これは、すべて自由にかかわる事。
自由になるためには、まず、自分の力で生きていけるようにならなければならない。
誰かに依存していたら、自由になれない。
そのためには自分の思想がなければならない。
要は、自分に隷属させたければ、自分の思想を持たせなければいい。
自分の思想というのは、ユニーク、自分独自なものである必要がある。
でも、独自というのは、他人と違うとか、特殊とか、いうのではない。
それは異常、異端というだけ。
独自というのは、自分の考えや経験に基づくという事で、人は皆、生まれた時も、場所も、環境も、親も違う。性格も能力も違う。生まれ育った環境も違う。
だから、自分の考えや経験を洗練すれば、自然に自分の思想はもてる。
大切なのは反省して、自分の考えを持つ。
自分の考えを知識とし、知恵にする。
その知識と知恵を洗練したのが思想であり哲学。
何も難しい事ではない。
なぜ、人に言われないと、何もできないのか。
自分が何をしたいか見つからないのか。
人を愛することさえもできないのか。
自分一人では何も決められないのか。
そう自分の考えがないから。つまり、自分の思想がないから。
自分の考えがないから、やりたいことがわからない。
自分の考えがないから、何をしていいか自分で決まられない。
食べる事だって、着る服だって、自分の意志がなければ、自分で決められない。
そして、仕事をするためには、自分の考えを、自分たちの考えに昇華しなければならない。
どうやって、自分の考えを自分たちの考えに昇華するのか、それは話し合う事である。
計画が、構想から始まり、基本計画を経て、実施計画へと成熟させる必要があるのか。
それは自分の考えを、自分たちの考えに昇華させ、仲間が一体となるため。
考えを共有できない者は、黙って従うしかない。
だから、欧米人は、この世には、自由人と奴隷しかいない
という。
市民と異邦人、社員と使用人という考えも同根。
それは、志や思想で決まる。
小手先のことばかりやっていては仕事は、覚えられないよ。
根本的な考え方にもメスを入れないとね。
根本的な事に触れさせてもらえなかったり、タブー視させられてきた。
例えば、イベントやキャンペーン、料金表などを見なおす際、なぜという事を抜きにして、出し物とか商品企画を考えても意味がない。
そんなことをしていると根本的なことを忘れて、出し物や数字に囚われてしまい、出し物が目的になったり、ユーザー会が旅行会みたいのことに変質してしまう。
本質的なことが失われ、形骸化しているのに、無自覚に継続し、変更することも、やめることもできない状態に陥ている場合がよく見受けられる。
それが、社員旅行みたいな事なら、まだしも、商品企画、料金政策、考課制度、人事制度など経営の根幹にかかわる箇所にまで及ぶと、いわゆる死に至る病巣になってしまう。
イベントや政策、制度の根源には必ず、経営思想や戦略、経営方針が隠されている。
それを明らかにしないと、変更や廃止したとき、どのような不都合が、どこに現れるかわからない。
だから、是非、善悪としてではなく、実務上の要請からいきさつを明らかにする必要がある。
ただ、その際気を付けなければならないのは、明らかに不正だとか、不法、犯罪でない限り、善悪を持ち込まない事である。
基本的に考え方の違いであり、その違いを、どう、とらえ、以後、どうしたらいいのかに頭を切り替えるかである。
ただ、根本思想から、自分の考えに改めない限り自分達で主体的に組み立てることはできない。
まず、事実を正しく理解し、事実に基づいってどうすべきかを考える事である。
いきなり答えを出す前に、何をすべきかを明らかにすることである。
答えを探す前にやることを考える。
その場で答えられない時は、即答せずに、どうするかを考える。
憶測、推測に基づいて返答しない
。嘘になる危険性が高い。
手元に資料、記録がない場合は確認してから応える。
やってないことはやってない。
わからないことはわからない。
確実な事、事実に基づいて決断しなければならないから。
間違った情報からは正しい判断は下せない。
目的を明らかにして、文書にして提出しなさいと指示された時。
多くの人は、自分一人で考えて、答えを出すものと決めつけているように見える。
しかし、目的の性格から自分以外の人の意見を聞いて決める方が妥当だと考える。
問題は、誰の意見をどのように聞くかだ。
そこが打ち合わせの肝となる。
外(例えば、ユーザー)の人から聞いたほうがいいのか、内(メンバーやスタッフ、上司等)の人に聞いたほうがいいのか。
どんな項目を選択するかの基準は、帳票の使用目的、用途に基づくから、必然的に目的を明らかにする必要が生じる。
いきなり、目的とは何ぞやとやったら、とったん自分一人でやろうとしたら、自分一人でできる事しか、思い浮かばない。
組織は、自分一人では、何もできない、仕組なのである。
自分一人では、何もできないのに、一人でやることしか思い浮かばなかったら人を差配することはできない。マネージメントはできない。
根本的な事を考えていく上で何が知りたいのか、何を学びたいのかが先。
急がば回れである。
自由になりたければ自分の思想を持て。
自分の思想がない国は、独立国とはみなされない。
日本人は、思想の本当の意味を知らない。
だから、他人から借りてきた思想を自分の思想としてしまう。
しかし、それは、借りてきた先に、隷属することを意味する。
思想とは、自分の思想。
自分の考えを洗練したこと。
このことを正しく理解しないと自由にはなれない。永遠に。
自分にとって何が正しくて、何が間違っているか。
どこまで許せて、何が許せないか。
それが自分の思想。
それは、最初はあいまいだけれど、歳をとると伴に確信に変わってくる。
ただ、過去の過ちも明らかになるし。
一つ間違うと、頑固頑迷になる。
自分が許せなくなるから。
それが年を取るという事。
思想は自分の思いが凝縮したもの。
自分の思いをむき出しにすることを恐れるな。
傷つくことを、戦う事を恐れるな。
心にタガをはめていたら、人好きになれやしない。
失恋を恐れていた恋なんてできるはずがない。
傷つくことを恐れていたら、人を許すことはできない。
裸になれなければ、人を愛することはできない。
自分をむき出しにできなければ。人を信じることはできない。
素の自分を出せなければ、自分を信じる事なんてできない。
自信が持てない。
自分が許せない。
自分の思想がなければ、自分の人生なんて歩めない。
人生のマニュアルなんてない。
十代、二十代の若者にとって、これから、五十年、六十年と長い人生が始まるのだ。
今から、考える事をしなければ、無為に過ごせば、人生の土台ができない。
思想がなければ、底の浅い人生しか過ごせない。
今、諦めたら、自分のない人生になってしまう。
自立できず、隷属的、屈辱的一生に終わってしまう。
だからこそ、志が。
思想とは、思う、想う事なのである。
心のタガを外そう。
勇気を出して。