天は人の上の人を作らず。人の下に人を作らずと言うけれど。
組織には、明確に、上下関係がある。
上下関係があると言うより、できるといた方が正解かもしれない。
なぜなら、組織は、指示命令によって動く情報系であり。
指示命令は、強制権がなければ、機能が発揮されないから、自ずと上下関係が生じる。
故に、指示命令の発令者が上位に位置し、受令者が下位に位置する。
この上下関係が明確でないと、組織の統制は失われ、機能不全に陥る。
組織の実質的上下関係は、情報の流れる方向と経路によって決まる。
この点に注意する必要がある。

組織の上下関係は、地位や年齢、性別、人種、権威、経験、知識、技術などで決まるのではなく。
情報の流れ、経路、即ち、誰から誰に指示が出されたか。誰の指示に従ったかによって定まる。
いくら年上でも、地位が上位に位置していても、経験があっても、権威があっても、関係はない。
仮に、新入社員でも、指揮権が与えられれば、相手が年上でベテランであっても上位に立つことになる。
人間は動物であるから、行動を見て序列を判断する。
犬でも、家族の行動を見て序列をつけると言われる。
言い変えると、犬でもわかる常識である。

組織には公式の組織と、非公式な組織がる。
情報を伝達しなかったり、決定を遅らせたり、決定しない人がいると、組織は、その部分から機能不全に陥る。言わば、癌細胞のようなものである。
公式な組織に、あい路や、アナ、機能不全な個所が生じると、非公式な組織がその穴を埋める様に、補完するように機能する。

組織の実態を明らかにするためには、情報の流れる方向と経路を明らかにする必要がある。
誰か誰に指示を出されたかが、組織のメンバーにとって重要なので。
筋違の筋で指示を出させれば、それが、正式な経路とは別に上下関係を構築する。

だから、誰から、誰に、どのような指示が出されたかによって、組織は動くのである。
やたらに非公式に指示命令を出させると、正式な組織が機能しなくなる。

これまでの組織は、指示命令系統が一本化され、階層的に上下関係が自動的に決まり。
一方通行的な命令系統に要約されて、指示命令の優先順位が一元的に定まるように管理されていた。
しかし、今日の組織は、ネットワーク化されているために、指示命令に一元化が難しくなってきている。

そのために非公式な組織が、組織を実質的に動かしている例が多くなってきている。
意図せぬところで、非公式な上下関係が生じ、組織が指示命令系統に乱れが生じている事がある。
その場合は情報の流れと経路と確認し、整える必要がある。

意味のない平等論や逆に権威主義を振りかざすことは、百害あって一利ない。

仮に、情報の流れが逆らう場合、上位の者に指示するような場合は、指示として伝えるのではなく。
報告として伝え、改めた指示し直してもらう。
この様にして指示命令の逆流を防ぐ。

指揮権は発令しないと、効力を発揮しない。
故に、権限を委譲されて者は、みんなの見ている前で簡単な指示命令を発して効力を速やかに発効させる。
簡単な指示命令とは、受令者が拒否できないような指示(受令差にも明らかに実行不可能な指示、正当性を欠く指示に対して異議申し立てする権利はある。)
をいう。
例えば、集合命令や解散命令のようなもの。このような命令に対する抗命は、懲罰の対象とする事が出来る。
懲罰は。毅然として行う。

また、指揮権を持ってるものは、みんながよく見えるところに立って、全員に聞こえるような大きな声を出す。
全員に、自分を曝すことが重要である。
陰に隠れては、指示命令は徹底されない。
皆の中心に立って指揮している者を集団は、リーダーと見なす。
第一声を誰が発するかも、決め手となる。
サミットや国際会議、イベントで写真や宴会での立ち位置や席がなぜ需要なのか。
なぜ円卓なのか、それは、誰が、リーダーかを知らしめるからだ。
トップが宴席で上座に座るのも然り。
これは、動物的本能である。

尚、権限の委譲は、関係者の見ている前で行う事を原則とする。
誰も見ていないところで、相対で、しかも、非公式に権限を委譲しても、組織は認知しない。
その様な権限移譲は欺瞞でしかない。

何故、会議で、みんなが見ている前で決めるのか。
それは、正式の決定を全員に周知させる事が目的で。
その場合の会議は、討論の場ではない。

日本人に、正しい、指示命令に意味を教えず。
儀式典礼の働きを教えないのは、日本人を隷属化する為であある。

何でもない一見些細なこと、日常的な事柄を変えて、本質的な事を変化させるのは、他民族支配の常道である。
その典型は言葉を変える事である。

無事を報告というのは,最も、重要で有意義である。
何事もなかったと報告できるのは意義深い。
何事もなく、大過なく終わると言うのは、当たり前に見えて当たり前ではない。
平穏無事というのは、一番大切な事だが。
平穏無事な状態を維持する為にどれだけ多くの人が影働きをしているか。
それが当たり前だと思い込みはじめると、その影働きしている人に対する感謝、評価を忘れる。
そうなると、陰働きをする人が廃れ、やがては大きな災難を招くことになる。
無事を報告する場合は、報告する者は、陰働きをした者に光が当たるよう心掛ける。
これも、当たり前と言えば当たり前。

何事もなかったと言えるのは、何事もなっかたと言えるようにしている日地たちがいるからで。
この国が平穏無事でいられるのは、平穏無事でいられるように、第一線でこの国を守ている人たちがいるので。
その事を忘れたら、その時この国の終わりが始まるのだろうに。