年功序列は悪い。
改めるべきだと言う意見が多い。
じゃあ年功序列のどこが悪くて、どこを改めろと言うのか。
あまり明確にされてない。
年功序列という言葉は、年功と序列からなる。
年功というのは、否定されるべきことなのだろうか。
年功が序列とが一体となるからおかしくなる。
年功より長制度の方が問題なのではないか。
兎に角、日本では、長とつくと何でも偉くなる。
野球に例えれば、打順や、守備位置に序列があるわけではない。
四番だから偉くて、九番だから地位が低いというわけではない。
同様に投手だから偉いというのではない。
あくまでも、役割、働きの問題である。
年功で四番を決めるわけではない。
あくまでも、野球選手は、実績と能力、期待で評価される。
そこに、序列が絡むとおかしい事になる。
また、長制度には、長の役割がある。
長の役割は、指示、命令の伝達、部門間の調整等、組織の統制である。
つまり、組織の運用管理、つまり、マネージメントである。
年功序列というのは、年功とステータス、権限、それと、処遇待遇が結び合ったものである。
それが、混然一体となっていて得体のしれないものとなている。
更に、定年退職が絡むとさらに複雑になる。
定年退職制度の残虐なのは、これらの一切合切を帳消しにしてしまう事にある。
それは、全人格の否定につながる。
年功と序列を切り離してみると違う風景が見えてくる。
年功の根底にあるのは、その人のキャリア、経歴、履歴である。
言い換えるとその人が生きてきた奇跡、人生だと言える。
だから、安直に、年功を否定することは、その人の人生を否定しかねない。
現に、今の退職制度には、そういう側面がある。
定年を迎えると、それまでの一切合切が帳消しされる。
後に残るのは、お情け、憐憫である。
それは、自尊心や誇りを傷つけ、人生を否定する事にもなり。
耐え難い、自己喪失を招くことになる。
鬱や認知症を引き起こしてもおかしくない。
ここはどこ。俺は誰。
年功とは、キャリア、実績であり、功績でもある。それは、本来、消せるものではない。
会社は株主のものかとか、経営者の、社員のものか、なんて議論があるが。
働いている者にとって不毛な議論でしかない。
なぜなら、働いてるものにとって、職場は自分の人生から切り離すことのできない場だからである。
仕事とも成長し、結婚をし、子を産み、育って。
病む時も、健やかな時も。
青春があり。夢があり。
仲間がいて、ライバルがいた。
先輩がいて、後輩もいた。
いい上司。いやな上司。
優秀な部下もいたし。
手のかかる部下もいた。
いいお客にも巡り合えたし。
客に罵倒されたこともある。
共に酒を酌み交わし、同じ釜の飯を食らい。
泣いて、笑って。
悔しくて、悔しくて。泣いた。
苦し時は、皆で、耐えて、我慢して。
成功した時は、肩を叩いて喜び合ったりもした。
同僚の結婚式に呼ばれ、自分の結婚式にも呼んだ。
夜を明かして議論して、時には、喧嘩もしたさ。
年功というのは、その人の人生そのものなのである。
それを、会社の都合で否定されてしまったら、たまったものではない。
年功序列も、定年制度も、会社の都合や社会の都合ばかりが優先されて、本来の主役である、一人ひとりの感情や都合が無視されていることが、問題なのである。
年功を言うのならば、その人が長い間、蓄積してきた技術やノウハウ、知識、経験をどう評価するのかを問うべきなのである。
そして、その評価は、その人の人格や生き甲斐と密接に結びついている。
問題は、長制度や処遇待遇と年功が癒着していて、切っても切れない関係にある事なのである。
それに、マネージメント業務が、ステータス化され、本来の、マネージメントの仕事から、逸脱している点である。
偉いからマネージメントを任されている。
本来、マネジーメンとの仕事に向いていないものまで、偉くなりたいという動機で長を目指す。
定年までに一度は部長になりたいと、何らかの長になることが目的化している。
それが、組織に柔軟性をなくさせ、硬直化させる原因ともなている。
マネージメントが機能しなくなっているのである。
そのために組織が形骸化してしまっている。
指示命令や、情報の流れが阻害されているのである。
そのために意思決定が遅れ、あるいは、機能不全に陥ている。
年功序列よりむしろ、長制度による弊害の方が大きと思う。
年功は年功。
序列と切り離して考えた方が、定年退職後の計画も立てやすくなると思う。
今、定年を迎えようとしている世代は、考えてみれば、損な、世代かもしれない。
団塊の世代からは、しごかれ、したげられ、蔑まれ。
散々、偉そうにされ。いよいよ、自分たちが威張る事が許されると思ったら。
今度は、パワハラ、セクハラ、リストラ、下の意見を尊重しろ。
一寸でも叱ろうものなら、横暴だ。
自主性、自発性を重んじて、指示、命令、強制はするな。
注意なんてしようものなら。
空気が読めない。話を聞かない。理解がない。
どうしろというのか。
うっせい。うっせい。うっせいなと言いたいのは、俺たちの方。
少しは、俺たちの話も聞いてくれよ。
一生懸命、働いてきてさ。
あげくの果てに、今までの、年功を帳消しにするというのはないでしょう。
酷すぎる。
金をくれとは言わないが、年功は、年功として評価してよ。
じゃあなっかたら、俺達の人生は、何だったというの。
家族のため、世の中のため、会社の為に働いてきて。
結局、全ては、空し、虚しい、無だと。
それはないよ。
少しは、俺に、教えさせろよ。伝えさせてよ。
序列がどうのというのではなくね。
人としてね。人として認めてよ。
金や出世のためにだけ働いてきたわけではないよ。
俺達にはさ。俺たちの意気地。矜持がある。
それを全て捨てさせ。
時代遅れ。古い。古いと片付けるなよ。
俺達だって、生きてきたんだ。
十把一絡げ、その他大勢で扱うな。
俺には俺の人生があるんだ。
一つの到達点だというのに、父親とも、功労者とも、経験者とも、専門家とも、達人、匠とも、人格者とも、何に一つ、誰にも、認められずに。花道すら用意されずに、忘れ去られていく。
儚すぎるじゃないか。夢幻というけれど。
せめて、この会社が続く間は、この国が存続する限り、俺の記憶を、足跡を残しておいてくれ。
俺が生きた証を。
年功が悪いというけれど。
俺達は、自慢話がしたいんじゃないんだ。
自分たちが生きてきた過程で学んだこと、何とか、次の世代に伝えたいだけなんだ。
長いこと生きてきて、やってはならない事はわかってきたつもりだけど。
じゃあ何をしたらいいかは、正直言って、わからなかった。
やってはならない事や基本は、教えられても、何をやったらいいかは、教えられないな。
何をやたっらいいかは自分で見つけるんだな。
だから、若いものにもさ。
成長の余地があるんじゃない。
正解が、ないんだから。
これだけは、やっちゃならないという事はさ。
教えてやれるよ。
人として、絶対、やってはならない事はさ。
教えられるさ。
でも、一番それが。肝心な事さ。