差をつける。
差を見つける。
差をつける事は、悪い事ではない。
物理学とか、数学は、差をつける事、差を見つける事によって成り立っているし。
統計学の基本は誤差である。
経済も差があるから回っている。
差そのものが悪いわけではない。
存在は、絶対的でも、認識は相対的。
意識は、認識によって形成される。
故に、意識は、相対的。
相対的認識は差によって構成される。
時間的、空間的差によって、人は、位置と運動と関係を認識する。
差がなければ、人は存在を認識することができず、意識を構成できない。
差をつける事は、悪い事ではない。必然的な事である。
逆に、差をつけなければ、あらゆる学問も、社会の仕組みも成り立たない。
差をつける事と差別する事は違う。
差をつけること自体が、差別につながると、何でもかんでも、同じにし、差をなくしてしまえと、乱暴なこと言う人がいる。
差があるから、やる気がでるので。
ただ、差がありすぎたり、変えられなかったり、理不尽な理由で差をつけられるのが悪いので。
差をつける根拠や基準が問題なので。
差をつけること自体が悪いとされた、差別の本質など見えてこない。
差別化と言っても、差別する事を必ずしも意味しない。
差をつけたり、差を見つける事を差別と結びつ勝て、全否定してしまったら、かえって差別を増長するだけである。
なぜなら、差の根拠を見極めなければ差別の根源原因が明らかにできないからである。
差をつけるから評価をする事が出来る。
男と女は違う。
差がある。
男と女の差や違いを認識するから、平等になる。
男と女が同じ条件で一緒にすれば、それが差別になる。
男と女の差や違いを明確にしたうえで別々に競技をするから平等になる。
ただ、賞金や賞品に差をつけるから差別が生じるのである。
差があるから進歩や成長も期待できる。
差があるから位置づけができ。変化を読み取る事が出来る。
差がなければ、位置づけも変化も見えない。
差が生じるから変化も読めるし、関係も推測できる。
差がなければ因果関係も理解できない。
高低差があるから水は流れる。
差によってエネルギーも貯えられる。
差があるから比較できる。
比較する事で差が生じる。
差は位置と運動と関係の源である。
差別用語というけれど、誰が、それを決めたのか。
いつもそれが不思議で。
一種のタブーですよね。
誰がどのような基準で差別用語と定義したのか明確に示されないのに。
差別用語を使ったと言うだけで指弾される。
それて、言論の自由を弾圧する事にはならないんですかね。
差別用語を使ったと言うだけで、職を失ったり、差別されたり、迫害を受けたり、糾弾されたり、追放すると言うのは弾圧でしょ。
確かに差別は否定されるべきです。
また糾弾されても仕方がないけど。
問題は根拠ですよ。
根拠も明らかねされないで、差別用語だと決めつけられれたら出版もできないと言う事になったら、言論の自由なんて絵空事。
知らず知らずのうちに使ってはいけない言葉が増殖して。
何かに抵触しただけで世の中から抹殺されたら。
現実に、外国では、大学や学界から追放されたケースすらあると。
言葉狩りというのは怖いですよね。
あからさまな差別は許されないけど、差別というのは差別する側の意図と、差別される側の受け取り方にあるので。
前提条件や状況、時代的な背景などで変わってしまう。
もともと、言葉というのは相対的なので、絶対的意図などない。
百姓とか、貴様と言った、本来、由緒正しい言葉もある。
途中から、差別的に使われるようになったからと言って最初から、差別的だったと決めつけるわけにはいかない。
結局、根拠も明らかにされないで悪い事は悪いと言われてるようなもので。
それ自体民主主義的でも、自由主義的でもない。
差別である。
まるっきりの専制的で、強権的、封建的な行為。
日本人は騙されているの。
平等と同等とは同じではないからね。
差をつけてはいけないなんて、彼らは言ってはいないからね。
大体、社会主義国は、階級社会だし。
思想そのものが、一党独裁主義、前衛主義、エリート主義だから。
アメリカだってスポーツや芸能の世界を見ればわかる。
野球だってプロとアマでは、明確に差があるし、メジャーリーグとマイナーリーグとでは格段の差がある。
大谷が、マイナーリーグの選手とでは報酬も処遇も格段に違う。
ビジネスの社会でも、実績が上がったら個室を与えられ、更に、成績次第では、秘書までつけてもらえる。
それなのに日本人は、平等と同等とをはき違えて、何でもかんでも同じにしなければ気が済まない。
というより、同じ、対等にしなければ悪いと思い込まされている。
幼児と大人を同じ基準で競わせたら、誰だって、不公平、不平等と思う。
男と女、素人とプロ、老人と青年だって同じ。
問題は尺度、基準、評価、根拠の問題。
男と女は違うけど、その違いを前提としてどうしたら公平になるかを県とすべきで。
何でもかんでも、何がなんでも同じにしてしまえば、平等になるなんて考えるのはお門違い。
差をつけるのはあたり前なの。
ただ、差をつけられた当事者に、それを当たり前だと思わせてはならない。
なぜ、差をつけられたのかの意味がわからなくなるから。
その時、格差や差別は悪となる。
合理的でない不条理、納得のいかない、実力の伴わない基準で差をつけられるから差別になるのである。
仕事を管理するのではなく。
人を管理するのだから、生臭くもなるさ。
だから、自他ともに違いが分かるようにする。
そうしないと、責任者は守れない。
管理職の責任も役割も、一般職とは違う。
責任が重いから、権限も与える。
責任と権限は表裏一体。
責任があるところに権限があり。
権限がるところに責任が生じる。
責任と権限は作用反作用の関係にある。
管理職は、偉いのであり。
偉くするのであり。
偉くなるのである。
そうしないと、虚勢を張り、暴力的になる。
舐められたら、人は使えない。
実力が伴わなかったら、虚勢を張るか暴力的になる。
組織人は偉くなるために、頑張るので。
偉くなるために、勉強も、研鑽もする。
今の日本は、オヤジの権威がなくなったから、家庭が崩壊した。
親父の権威を取り戻せと言うのではない。
中心を欠いたどんなに小さな組織でも成り立たないと言う事である。
反権威、反権力、反体制に凝り固まった(これも異常だけれど)人間の集まりでは、まともな社会は築けない。
差がつけられなければ、組織なんて成り立たない。
人は皆違う。
男と女は違う。
その違いを前提に、どう差をつけるかが問題で。
男と女は違うからと言って差別するのが問題なのだ。
親父たちは、出世するに従って飲む酒、ウイスキィの等級(レッド、ホワイト、角、オールド、リザーブと)を上げていった。
車も、中古、新車、いつかはクラウンと車の排気量や格を上げていった。
差をつけることで自分を鼓舞したのである。
基本的に評価は自分ではできない。
だから、組織が必要なので。
難しのは、ヘッドである。厳しすぎても、甘すぎても、組織に響く。
間違えば、際限がなくなり。
天に裁かれる事になる。
問題なのは差をつける時の根拠である。
それを間違うと差別の素となる。
また、違いに基づいてどのような尺度で差をつけるかである。
差をつける事が悪いと刷り込まれたから、自分が偉くなった時、差をつけられるのに後ろめたさを感じるようにされた。
差をつけられる事に後めたさを感じたら、日本人を植民地化しようとしている者の思う壺である。
だから、日本は指導者が不在になったのである。
人の上に立つことに罪悪を感じる様に洗脳されたのである。
正しく差をつける事が大事なので。
差のつけ方をm違うと、差別になる。
正しい差は、その人の実力に対する評価を意味し。
役割と働き、影響力の基づき、結果、実績によて実証される必要がある。