圭は、朝、いつもの時間にいつも通り目が醒めた。
定年になり、会社を辞めたのだから、もっとのんびりすればいいと思うのだけれど。
長年沁みついた習慣は簡単には抜けない。
横を見ると、女房の貴子ももう起きたとみえ。
寝床にはいない。
もう少し寝ていようかとも思うのだけれど。
歳のせいか、目がさえてしまい、寝床から抜け出すことにする。
リビングにいくと、貴子が朝食の用意をしている。
貴子も染みついた習慣から抜け出せないのかもしれない。
玄関から、新聞をとってきて食卓に黙って座り、新聞を広げる。
気配を察知したのか。「もう起きたの。」と、振り向きもしないで、貴子が声をかける。
黙って新聞を読んでいると。
「もう少し、ゆっくり寝てればいいのに。」と貴子が言う。
「目がさえてね。」と圭が応える。
ただ、それ以上、会話が続かない。

話をしたくても、圭は、他愛ない、近所付き合いの話にはついていけない。
かといって、仕事で得た話などしたところで話がかみ合うはずがない。
いいとか、悪いと言うのではない。
住む世界が違うのである。

それにしても、時間が恐ろしくゆっくり流れていく。
子供も、巣立ちをして、今は、貴子と二人きりである。
これから先、このようにして時間が過ぎていくのかと思うと気が重くなる。

会社に勤めている時は、朝早く家を出て、夜遅く帰ってきて。
たまの休みといっても、会社仲間とゴルフに行き。
家では、「風呂。」「飯。」「寝る。」としか言わなかった。
今更、毎日が日曜日と言われても、時間ばかりもて余し。
共通の話題も乏しく、何を話していいのかわからない。
職場では、結構、饒舌だったのに、家では何も話す事がない。
それが、四六時中一緒にいるとなると、息が詰まる。

子育てという共通の目標を失った時。
気がつかない内に、夫婦はまったく別々の生活、人生を歩んでしまた。
定年は、その事を気がつかせるのかもしれない。
圭は、定年離婚というのもわからぬわけでもないと思った。
しかし、それが、わが身に降りかかったら大いに困るのも自覚はしている。
かといって、いきなり、自分の生活態度を変える事も出来ず。
長い間に身についった習慣はおいそれとは変えられない。

とにもかくにも、何もする事がない。
ただ時間だけが過ぎていく。
なんだか、自分の役割は終わってしまたような寂寥とした思いに囚われる。
人生とはといった高尚の思いではなく。
ただ、どうしようもない現実を突き付けられて、心が締め付けられるのだ。
どうしようもなく。
哀しいとか、辛いとかとか、そんな感情すらわかない。
ぽっかりと心に穴が開いてしまって。
どうにもならない喪失感というか。

もう、かつての職場に行っても自分の居場所はなく。
ただの厄介者に過ぎない。歓迎されはしない。
それが現実だとわかっていても、なかなか、受け入れがたい。

定年を迎えた日、その日は圭の誕生日でもあるが、花束をもらい、拍手をされても、何の感慨も沸かなかった。会社の同僚に見送られて、一人、帰路についた。
圭は、会社の玄関を出ると、一度だけ、振り返った。一度だけ。
あっさりしたものだ、あっけないものだ。圭はつくづく思った。

あなたの居場所はもうない。
あなたの役割は終わった。
あんたは必要とされていない。
結局、そういう事かと圭は思った。

大した、誕生日プレゼントだ。

働いている時は、上司と部下の板挟みに悩まされ。
客の接待におわれ、辞めたいと思た事も幾たびかあったけれど。
いざ、働く場所がなくなってみると、これほど切ないものなのかと、圭は、思い知らされた。

朝食が終ると、手持無沙汰なので、圭は、車を洗うことにした。
車を洗ていると、「チョット、買い物に行ってくるわ。」と貴子が圭に言葉をかけて出かけた。

会社勤めをしている時は、判で押したように。毎日が過ぎていった。
同じ時間、目が覚め。
同じ時間に顔を洗い。歯を磨く。
同じ時間に朝食を食べ。
同じ時間に家を出って、同じ電車に乗る。
そんな毎日が何年も何年も続いていた。

ところが定年退職を境に、それまでの日常が忽然と消え。
根底から覆り、かといって、今更、総てを新しくするわけにもいかず。
なす術もなく、ただ、時間だけが過ぎ去っていく。
自由にしていいと言われても、この先、どう過ごしていいのか、皆目見当もつかない。
する事がなければ、自由にできる時間がいくらあっても無意味だ。
かえって虚さがつのる。

買い物から帰ってきた貴子が作ってくれた昼食を、圭は、貴子とふたりで食べる。
食事中、何かと、貴子が話しかけてくるのだが、興味のない話なので、ついつい空返事をする。
気がつくと貴子が押し黙って、黙々と食べている。
「おい、どうした。」ときくと
「だって、何も聞いてくれないじゃない。」と。
「そんな事ないよ。ちゃんと聞いているよ。」とこたえると。
「じゃあ、さっき何いたか覚えてる。」といい返してくる。
口ごもっていると。
「ほら、何も聞いてないじゃない。」と怒ったように、貴子は食事を片付け始める。
「おい、まだ、食事中だ」といっても、聞こえないふりして貴子は、食器を片付ける。

気まずくなったので、圭は、出かける事にした。
出かけると言っても、圭に、行く当てなどない。
「どうしたのよ」と貴子。
「散歩。散歩」と圭。

散歩といったところで行く当てがあるわけでもなく。
近くの公園のベンチに座ってぼんやりと考えた。
これから自分はどうやって生きていったらいいんだろう。
圭は、何度も何度も自問自答した。
働きづめに働いて。今更、遊んで暮らせと言われても。
悠々自適なんて絵空事。
結局、世間から、見捨てられたようなもの。
サラリーマンなんて始末が悪い。
職人の様に手に職があるわけでもなく。
再就職も儘ならない。

勤めている頃は、当たり前な話だが、職場には、自分の居場所があった。
しかし、半年もたてば、職場には自分の痕跡すら残らないだろう。
頭では理解していても、その日が来るまでは、実感はない。
自分のいない会社なんて想像ができないのである。
未来永劫、同じように時間が過ぎていくと…。
幻想だとは、わかているのだけれど。
会社を辞めた後の生活の方が夢のように、働いている時は、思える。

まだ働けると自分で思ったところで、耳を傾けてくれる人もいない。
哀れみの目で見る事だけはしないでほしい。
そう、圭は思うのだった。

まだ働ける。
そのとおりである。
まだ、働ける。若い者には、負けないと自分では確信している。
だもそんな圭の思いも、現実も、定年退職という決まりごとの前では何の役にも立たない。
そんな圭の自負なんてなんの力もなく、バッサリと断ち切られる。
それが決まりなのである。
人間の感情なんて入り込む余地はない。

俺は、何のために。
誰の為に生きてきたのかと。
ただ、そんな思いなんて何にもならない事もわかっている。

若い頃は、わかっているつもりでいた。
無我夢中で。仕事に熱中する事が出来た。
それなりの夢や希望、志さえも持っていたはず。
持っていたはず。
そう、圭は、呟く。
出口のない闇の底に落ちていくような何とも言えない恐怖に戦慄する。
「何が怖いかって、皆から忘れ去られる事さ。」
独り言を圭は思わず口にする。

わかっていても、現実にそういう状況にならないと。
ある日突然、何もかもリセットされてしまう。
しかも、その後の準備はなにもされていない。
定年退職後は、自分の力で生きる事すら許されていない。
国から支給されるわずかばかりに年金と、それまで、貯えてきた貯金が頼りである。
かつての様に子供の稼ぎなんてあてにできない。
親と子は家計が別なのだ。

サラリーマンはサラリーマンにしかなれない。
おいそれと転職も儘ならない。
つぶしがきかない、融通が聞かないのである。
刃物商売はどこでも生きていけると言われる。
刃物とは、料理人、床屋、仕立て屋である。
手に職があれば、どこでも食にあぶれない。
しかし、サラリーマンは、そうはいかない。

いつまで働くかだってサラリーマンは自分では決められない。
例えば、陶芸家だって、職人だって、農業だって、八百屋だって、魚屋だって、自分が働けるうちは働く事が出来る。
いつ働く事を止めるかは自分で決められる。
しかし、サラリーマンはそうはいかない。
働けるか、働けないかは、会社の定めによって決められる。
それが法治である、

圭は、確かに、そこには、俺の青春があって。
恋をし。
結婚して。
子供を育て。
俺の人生そのものと思い、信じてきたんだ。
そう言いたかったけど。

しかし、自分が生きてきた軌跡や記憶も色褪せ。
ただ死ぬまでの間、何もせず生きていけと。

生きるとは何か。
生きるためには、自分の内に魂や命があって。
自分の意志で、力で生きる。
自分の力で生きられなければ、生きているとは言えまい。
そう圭は思ってきた。

今の俺はどうだ。
本当に生きていると言えるのか。
命も、魂も、意志も持てなければ生きてるとは言えまい。

意図せぬ死。
意図せぬ。
生殺しでね。
生きながら棺桶に入れられる。

死は必定。
圭は思う。
死は現実だと。
いずれは受け入れざるを得ない。
認めようと、認めまいと。
関係なくですね。

それ以上に、サラリーマンにとって定年退職というのは、死に匹敵する。
何も為す事もなく。
どうしようもない。
ただ、漠然と時間がたっていく。
生けるしかばねですね。
定年後、何年、無為に過ごしていかなければならないのか。
その方が、ずっとぞっとする。
それなのに、誰も何も考えようともしない。
現実から、目を背けて、ただ、目の前の雑事に逃げ込もうとする。

生きるとはといったて哲学みたいな大層な事を言いてるのではない。
目の前に突き付けられた現実なのである。
これからどうやって生きていったらいいのか。
圭は、ため息をついた。

若い頃は我武者羅に生きてきた。
死ぬのだってさほど恐れはしなかったと言うのに、歳を取るにつれ死を恐れるようになってきた。
若い頃の死は、観念的な死だが。
年をとると死は現実的になる。

自分の死と向き合う事もできず。
かといって現実を受け入れる事もなく。
ただ、人生の終点に向かってジリジリと近づいていくしかないのか。
真剣に死に向き合い、現実を受け入れたりしたら、正常にはいられない。

思い出と言っても、今は、幻のようなものでただ虚しい。
昔話をしたところで、自慢話にしかならない。
話しているうちに、ただただ、哀しく。
惨めにすらなる。

人は今しか見ていない。
今しか見えない。
よしんば、今というこの時が、過去からの延長線上にあり。
未来へと繋がっていたとしても。
人には、今しか目に入らない。

その今が儚い幻のように思えて。
圭は、白日夢を見ているような錯覚にとらわれる。

人生は、所詮、胡蝶の夢か。

先の見えない者は、今しか見れない。

魂を抜かれ、もぬけの殻になったような、サラリーマンたちが。
あてもなく、彷徨い、徘徊している。

働かなくていい。
働く事は苦しく、辛い事というけれど。
働けない方が、余程、哀れだ。
誰からも相手にされず。
世の中から必要ともされていない。

働く事は意味のない事。
汗水働くなんて奴隷のする事とどこかで刷り込まれ。
働く事は苦役。辛い事。楽し事なんて何もない。
仕事の話はやめようよ。
仕事は、神が、人間に与えた罰と…。
いかに、多くの働く時間を減らし、休みを取るかに尽力してきたことか。
確かに、奴隷労働のような事は、苦役だけれど。
だからといて頭から働く事を否定するのは、どうかしている。
今の日本は奴隷社会ではない。
それより、働けなくなったら社会に貢献できなくなる。
自分はこの世で必要ではないとされる。
その方が怖い。

死ぬまで無為に時間が過ぎ去っていく。
現代人は、錯覚している。
辛い労働から解放されれば幸せになれると。
だから、休みを増やし、労働時間を短縮し。
最後は、働かんくてもいい。遊んで暮らせと。
自由に開放してやると退職させる。
目的もなく、必要ともされず。
好き放題、遊んで暮らす事が、本当に幸せなのか。
圭は呻く。

いずれは、妻子からも見放されるのかと思うと、体が震えてくる。
それでいて、泣く事もできない。

桜の花びらが一片(ひとひら)舞い降りてきた。
見上げると桜が散ってがさらさらと吹く風に舞っていた。
「気がつかなかった。」

一昨年、死んだ父は、亡くなる数か月前「桜は、まだか。桜は、まだか。」と桜が咲くの待ち望んでいたのに…。
桜が咲いた時は、桜を見る気力もなく。
「桜が咲いたよ。」と耳元で囁いても、何の反応もしなくなっていた。
その父が、「人の幸不幸は、晩年に定まるんだよ。」と教えてくれた言葉が、圭の心の底に妙に引っかかり、今でも時折思い出されるのである。
今の世の中は、老後とか、晩年とか、余生という考えは失せてしまった。
そんな思いが圭の脳裡をよぎる。
結局、老後の問題は、道徳や倫理の問題ではなく。金と設備と制度の問題でしかない。
歳を取ったら年金、介護制度、施設に任せればいい。
それで、人としての義務は果たしている。
それが、現代社会の根本思想。
根本思想であるけれど、その事に、誰も気がつかない事が、今の社会を象徴している。
そこには、義理人情といった人間性は微塵もない。

圭は、公園のベンチでただ、ぼんやりと桜の花を見て時間を潰すしかなかった。

「いつからこんなふうになってしまったのかしら。」
貴子は、思い起こしていた。
知らずしらず、貴子は自分の時間を大切にするようになってきた。
圭の事が嫌いになわけではない。
ただ、時々、一緒にいると息苦しくなるのだ。
貴子は自分の時間を大切にしたいだけだ。
圭が会社に勤めている時は、自分の時間や場所があった。
会社を辞めたら、いきなり、自分の時間や場所に圭が割り込んできたである。

「一人になりたい。」
貴子は、ただそれだけなのに、そう心の中でつぶやいた。

圭を支えていた人間関係が、定年退職を境に壊れていく。
それは、圭の生活の人間関係の核であった、会社という場が失られ、それに代わる核が形成されないまま、もう一つの核である家庭を崩壊させつつある。
このからくりが理解できなければ、老後の生活設計なんて絵に描いた餅のなる。
ドンドン、人間関係が壊れていき、希薄になり。孤立していく。
老人の一人住まい、引き籠り、孤独死、必然的にひっそりと社会問題化していく。
その一方で政治の世界では、老害が叫ばれるようになる。
老害を問題としていた政治家も年をとる。
歳を取れば、若者に席を譲ろうなどと考えもしなくなる。

圭が散歩に出かけると、食期の後片づけをして、いつもの生活に戻った。
正直言て、昼食の支度や、後片付けは、圭が会社を止めるまでは、なかった仕事である。
それが片付けば、貴子は、いつもの、仕事に戻る。
家事に、定年はない。

そこは亭主の圭には理解できない。
圭は、自分のペースでズカズカと貴子の生活区間を乱していく。
圭にはその自覚も悪気もない。
だからこそ一層始末が悪い。

圭が、散歩に出かけてから、しばらくすると、玄関のチャイムが鳴った。
貴子が、チャイムに出ると、
「貴子、私」と貴子の学生時代からの親友の智子の声が飛び込んできた。
「智子、どうしたの。長い事ご無沙汰だったじゃない。」と貴子。
「近くまで来たから…。」
貴子は、智子を家の中に招き入れた。

「今、紅茶をを入れるわね。そうそう、この間いただいたお菓子があるのよ。」と貴子は、紅茶を入れる。
「そんな、お構いなく。ちょっと近くまで来たから寄っただけだから。」と智子。

二人が、テーブルに着くと
「ご主人、退職したんだって」と智子がきりだした。
「そうなのよ。そういえば、智子のご主人も退職したのよね。」と貴子が聴き返す。
「二年前にね。一日中、家に居られてもね。息が詰まるのよ。」と智子。
「そうよね。私も、昔はこんなことなかったのに。退職したらのんびり二人で旅行でもしようかと話してたんだけどね。」貴子がため息をつく。
「私も同じ。だからさ、用事つくって抜け出してきちゃった。そうでもしないと居場所がなくなるのよね。」と智子も相槌を打つ。
「旅行とか、外食なんて言ってもお金が続かないしさ。それに、今更。」と貴子。
「そうそう、主人は仕事一筋だったでしょう。
仕事をとったら何もできないから。
それに長い事、単身赴任だったでしょ。
家に居場所がないのよ。
最近は、朝から、お酒を飲むようになってきて。
夫原病て聞いたことある。私もかかりそう。」と智子。
「以前の様に、わくわくしたり、ときめく事がないのよね。」と貴子。
結局、お互いに亭主の愚痴になる。

夫婦といっても名ばかりで、まったく違う世界に生きているようなもの。
互いの世界を知っているようで何も知らない。

圭は、結局、夕方近くまで、公園のベンチに座っていた。

家に帰ると、貴子と智子の話声が聞こえる。
玄関から、夕刊をとると、圭は、そっと寝室に行く。

「まあ。こんな時間。
帰って夕食の支度しなければ」と時計に気がつき慌てって席を立つ。
「まだいいじゃないの。」と貴子がとめると、
「そういうわけにはいかないのよ。そういえば、ご主人戻っているんじゃないの。」と智子。
「え、気がつかなかったけど。」と貴子。

智子を送った後、貴子は寝室に圭がいる事に気がついた。
「帰ってたの。」と貴子が聞くと。
「少し前にね。楽しそうだったから、邪魔したら悪いかなと思って」と圭。
「さあ、夕食の支度しないと、何がいい。」と貴子。
「何でもいいよ」と圭。
「あ、そう。」とそっけなく答えると、貴子は夕食の支度に台所に行く。

なぜだろうと貴子は思う。
別に、邪険にするつもりはないけれど、つい、醒めた事を言う。
かといって無理に装うのも空々しい。

どうしようもない苛立ちが…。
それが、ストレスになって、心の底に淀んでいく。
何とかしなければと思うのだけど。
出口のない迷路に彷徨いこむ。

貴子には貴子の時間があった。
貴子には、貴子の生活があり。
貴子の人生や夢がある。
最初は、同じ道を歩いていたはずだった。
夢を語り合い、同じ目標を持っていると思っていた。

「どこで、間違ったのかしら。
何が、違ったのかしら。」
貴子は、答えのない問いを繰り返すしかなかった。

一人、寝室に残された圭は、天井を見つめながら考えた。

これから先、あてのない時間が、ただただ、過ぎていく。
昔は、六十と言えば、還暦。
赤いちゃんちゃんこを着せられ、ご隠居といってもおかしくない。
今は。六十といっても、まだまだ、現役といっても通る。
七十、八十と生きていく事になるのだろう。
あと何年こんな風な時間が続くのだろう。
そう考えると、寒々とした思いに圭は囚われる。

「俺だって人間なんだ。」
圭は、呻くように呟いた。

働く。
働くとはなんだろう。
なぜ、働けないのだろうか。
働いてはいけないのだろうか。
働くとは、罪なことなのだろうか。
俺から仕事を取ったら何も残らないと言われたし。
実際、そうかもしれない。
だけど、それは間違ったことだというのか。
働いている時は、こんなこと考えもしなかった。
想像もしなかった。
しかし、今は、働いていた時の記憶さえ定かでなくなりつつある。

一生と言う。
人生は、一度。
一回しかない、人生だから悔いのないように生きる。
おもしろ、おかしく生きる。
やりたいことをやって。
しかし、遊んで生きることが、有意義な人生と言えるのだろうか。

仕事がない。
働けないというのは、こんなに惨めなことなのか。
働きたい。
圭は思った。