学ぶという事を学ばねばならない。
私は、若い頃、学ぶのが下手だと痛感した。
だから、高校時代は成績も悪く。
落ちこぼれで、大学も、二年浪人してやっと私立大学に滑り込んだ。
七転八倒してやっと学ぶのが下手だという事を思い知らされた。
要するに、学ぶのが下手だという事を学んだのである。
そこから、学ぶとはどういうことかを、学び始めた。
師は、たくさんいた。
というより、自分が気がつかなかっただけだ。
学ぶ気になれば、師は、どこにでもいたのだ。

学ぶというのは、予め、教える事が設定されていて、先生が決められていることを言うのではない。
自分が生きていく為や仕事をするために必用な事で、わからなかったり、できないことを、わかるように、あるいは、できるようにするための行為をいう。

故に、学ぶというのは、主体的、自主的行為で、教育は、この学ぶという意志を引き出すことから始めなければならない。

学ぶのは、自分が生きていく為に必要な事や仕事に役立つ知識や手段。

自分の力で生きていかなければならない環境なら、学ばなければ生きていけない。
環境が学ばせるから、自然状態なら放っておいて学ぶ事を覚える。
しかし、動物園や家畜と飼育された動物は、生かされているから、自分から学ぼうとしない。
現代の社会は、自然状態とは違う。言わば、動物園の動物、家畜のようなものだ。
学ばなくとも生きていける。
だから、学ぶ事を学ぶ必要があるのである。

学ぶことができないと、生きていくためや、仕事をするために必要な知識や手段を、身につけることができないから、自分をガードするようになり。人を寄せ付けなくなる。
しかし、人を寄せ付けなくなる理由を、当人が、自覚するのは難しい。

学ぶのは、生きていく為に必要な事や、できなければ仕事に差し支える事。
だから、学ぶ事が出来ないと、わからない事やできない事を、隠そうとする。
知られたら、自分の居場所がなくなる事を、恐れるからである。
自分がわからないことや、できないことを指摘されると、逆上したり、パニックに陥り、相手に攻撃的になったり、思考停止して自分をガードしようとする。
人を受け付けなくなり、避けるようになり、引き籠るようになる。

病気なのがわかっているのに、治療法がわからないような事だからである。

一番の治療法は当人が自覚する事で、自覚する事で八割方は治癒する。
しかし当人が自覚しないと治療に着手することもできない。

学び方がわからないと言うのは、当人にとって想像以上に深刻であり。
放置すれば深刻な状態になる。
今は、鬱だとか、学習障害とか、統合失調症と言った、病名をつけて解決したがるが、根本には教育問題が隠れている。

自分一人では解決できない問題を抱えている。
周囲に相談できる人がいない。
外界との関係、連絡を総て断つと言う状態は、かなり危険な状態だと思っていてほしい。
なぜなら、出口がないからである。
この様な状態に堕ちらないために、必ず、どこかに一つでも、出口や外部との接点を、確保しておく必要がある。エアスッポトの様に、気がつかないで嵌り込むことがある。

学び方は、簡単。
わかっていると思われる人、できると思われる人を探して、頭を下げて自分から教えてもらう事。
それだけ。
ただ、自分から学ぼうとしない者を教える事はできない。
教えようとする者は、相手が、本心から学ぼうとしているのがわからない限り、教えられない。
だから、頼み方が難しいのである。

今の学校は、頼み方なんて教えない。
そんなの関係ないである。
ただ、決められた事を、ただ、一方的に教えるだけである。
生徒がいたい何に興味があって、何を学びたいかなんて、関係ない。
そして、全てに試験の成績が優先される。
だから、生徒は、学ぶ意欲を失い。
ただ試験に受かる事ばかりに専念するようになり。
試験が全てになるのである。
長い間、試験が全てだと教え込まれたら。
学ぶと言うのは試験勉強だと思い込んでしまう。

コンビニで働く外国人労働者は、短時間で日本語が使えるようになる。
それは生きるために、生活をしていく上で不可欠であることを自覚しているからである。
彼らは、学び方を知っている。
なのに、日本人は、学校で何年も英語の勉強をしても片言の英語もしゃべれない。
今の学校では、学び方を教えられないのである。

最初は、見習い、物真似、見よう見真似から入る。
始まりは、素直に、言われたことをやる。
基本ができるまでは、とりあえず、忠実に再現すること専念する。
ある程度基本が身に付いいたら自分の考えを持つように指導する。
なぜ、見習い、物まねから入るのか。
それは、人それぞれ個性があり、違うからである。
一律に鋳型にはめる様には教えられない。
だから、一度、やらせてみて、一人ひとりの個性に応じて指導しなければならないから。
教科書のようなものではなく。
やって見せ、やらせてみなければ、指導方針が立たないからである。

学ぶことを覚えないと、いつまでも、わからないし、できない。
そして、自分がわからないことできないことを相手にも伝えられないから、自分をガードしようとする。

人は、自分の能力や価値観の許容量を超えると自分をガードするようになる。
要するに、頭のヒューズが飛ぶのである。
そうすると、拒絶反応が出ていろいろな障害が生じる。
典型的なのは回避行動、抵抗である。
この様な、状態は、自分の限界や許容量を超えて入りので極めて危険な状態にあると言える。
しかもなかなか独力では抜け出せなくなる。
外部からの援助を必要としている事を事前に教えておく必要がある。
その場合は速やかに周囲に相談する。
指導を受けるときは、自分から、一時的に、自分のプロテクトを解除し、相手の教えを受け入れる用意をする必要がある。
プロテクトを解除すると、自分が無防備になるので、なかなか、自分からプロテクト外すのが難しくなる。

指導期間は、プロテクトを解除させるから、期間を限定しておく必要がある。

基本的に正常に戻すためには、限界、許容量に達しているのだから、一旦、頭の中にある物を吐き出させリセットする。
その上で、環境を変え当たり、休養を取らせ、自分を客観的に、冷静に観察できるようにする。
また、自信や主体性を喪失している場合が考えられるので、その場合は、自信や主体性を回復するようなただ手を施す。
基本的に、とことん話を聞くのである。
自信や主体性を回復する手段なので、なるべく、聞き役に徹し。自分の考えを押し付けないようにする。
特に、ネガティブ、否定的な事は控える。共鳴共感を重視し、同じような経験がなっかた自分も探ってみる。自虐的になっている場合は、自尊心を取り戻させる。
自慢話や、成功話にも真摯に耳を傾け。
俺にもできるとか、虚勢を張らないように心がける。

以前は、指導的立場にある者は、舐められてはいかないと、虚勢を張るように指導された事があるが、却って、逆効果になる場合が多い。
無理して、尊敬されるようにする必要はない。
無理して虚勢を張っても続かない。自分がおかしくなる。
あるがままでいいのである。
大切なのは、共感である。

仕事場では、限界ぎりぎりまで追い込むことが多い。
それは、限界を超えなければ、成長が期待できないからである。
だから、限界を超えたり、許容量を超えるのは、予想しておかなければならないし、その対処方法も用意しておく必要がある。
日常的な事であり特別な事ではない。
かつては、その対処方法も伝えられていたが、会社が拡大したり、老齢化すると時代に合わなくなたり。
劣化している場合が多い。
常に見直しをして、時代や環境の変化に適合できるようにしておく必要がある。
留意すべき点はインプットと王とプットのバランス。
やらなければならいと決められた事、考えている事が、実行できない、結果が出ない状態におかれると人間は、いわゆる、精神の便秘状態に陥り。
話しだけが、煮詰まり。
考えが、頭の中で、ループし、堂々めぐるを始める。
そうすると頭が過熱して、出口のない悪循環に嵌り込む。
この様な状態に堕ち居たら、速やかに、行動に移せるように導く。
要は、出力部分を補強するのである。
わかっているのにできないと言う状態が人を狂わすのである。

限界や、許容量を超えて我を忘れると言う状態になるのは、日常的に、誰でも陥る事である。
だから、必ず上司がいいてその時の為に毎日報告を聞くのである。
なぜ、報告をするのか、それは、自分では、どうしていいか、わからなくなった時に対する備えである。
この点を錯覚すると報告の意味が失われる。

幼児期は、学習意欲が旺盛だから、その健全な学習意欲を満たし、伸ばすようにすれば、自分から勉強するようになる。

日本人は、恥ずかしがり屋とか、シャイだとか言われるが、そうではなく。
うまく、コミュニケーションが取れないだけ。

どうやって声をかけたらいいのか。
挨拶の仕方とか。
そんなことがわからない。

そういう時はこうしたらいいんだよとか。
見ず知らずのところに行って紹介者も知っている人もいない。

学校教育、最大の弊害は、学ぶという姿勢を失わせることだ。

子供の健全な、意欲を削ぎ。
子供の意欲とは関係なく、ただ、大人の都合を一方的に、一律に強要する。
これでは学習意欲は歪められる。
登校拒否、苛め、学級崩壊、引き籠りと結果が出ていると言うのに改めようともしない。
聞く耳を持たない。
これだは、学ぶ事を教えるどころか、学ぶこと自体、拒否するようになる。

わからない事、できない事が、あったら聞けばいい。
学ぶ事である。

わからない、できない事が恥かしいのではない。
わからない事、できない事を隠し学べない事が恥なのだ。

師は、自分で選ぶのだ。
何を、学ぶかは、自分で決める。
だから、覚悟を決めて自分から頭を下げる。
かつては、師は自分で選んだ。

師は師なのである。
学ぶという事は、学ぶ事である。
学ぼうと思えば、師はどこにでもいる。
若者から学ぶ事はたくさんある。
素人、初心者から学ぶ事は、多くある。
子から学ぶ事もある。
お客様は、最高の師である。
真の師は、弟子からも学ぶ。
弟子は、師を尊敬し、師は弟子を認める。
今は、真の師弟関係が失われた。

学ぼうと思えば、師はどこにでもいる。
学べないのが一番問題なのだ。

師は、師である。
教師でも、コンサルタントでも、トレーナーでもない。
単なる労働者とも違う。

師は師なのである。
だから、師と弟子の絆は、何よりも強かった。
師弟愛というのは、夫婦愛や、親子の愛より濃い事さえあった。

今の学校は、学ぶ事を教えない。
学校は、学び舎である。
工場ではない。
学び舎で学ぶ事を教えられなければ、人は生涯学ぶ事ができなくなる。
師と出会えなくする。

自分が、わからない事、できない事を受け入れ、能動的に学ぶ事ができなければ、いつか人は狂う。
今の学校は、社会不適合者や精神異常、未熟者を大量生産している。

学びは、一方的な事ではない。
師は弟子であり。
弟子は師である。
夫婦も、互いに学び合う事ができれば、互いを尊重し、認め合う事ができる。
それが、互いの愛を深めるのである。
学ぶ事を忘れない事である。

弟子が師に挑んではいけないと言っているのではない。
むしろ、弟子は、師に挑んでいくべきである。
弟子は、師を超えることを目標とし、
師は、弟子が超えていくことを喜びとする。
だから、礼節が大切なのである。
師は、身を削って教え導ている。

我々の子供の頃は、教わり方、学び方から、躾けられた。
特に、礼儀を。
わからない事があたら、自分で頭を下げて、教えてもらうんだよ。
教えてもらったら、ちゃんとお礼を言うんだと、礼儀にはうるさかった。
でも今は、そんな事どうでもよくて。
自分が解らないのは、できないのは、教えないからだみたいに、刷り込まれ。
だから、実際に社会に出たたらどう聞いたらいいのか、教わったらいいのかわからくて。
結局、引きこもる。
先ず、教わりたかったら、自分から、頭を下げて、何が、聞きたいのか、わからのいのか、教わりたいのかぐらいは自分で考えておくものだと。それが、最低限の礼儀。
教わってやってるんだなんて態度では教えられなし。
自分から、頭を下げるから自分も覚悟ができる。
教えることもできる。
自分から学ぼうとしない者を、教える事はできない。

特に人生の師は大切だが、我々の学生時代は、共産主義、全盛時代で、生きるとは何かと問うたら、共産主義的な事しか教えられなかった。
人生の師は大切である。
生き方の達人だから。
だから、自ずと、高い精神性を持ち、尊敬できる人だ。
過激派や狂信者、金の亡者、得体のしれないカルトの教祖を師と仰げば人生を過つ。
自分が出会って心から尊敬できる人を師と仰げばいいのである。

師は、自分の身を削って弟子を育てる。
だから、師に対する礼が大切なのである。
師とは、人格者なのである。

かつては、人生の師に出会えるのは、奇蹟。
無上の喜びとされたのである。

始めないと。
しかし、いつ始めるか。どう始めるかは自分で決めないとね。

克己復礼。