学ぶという事は、学んだ事を消化し、生きるための養分として、自分の内に蓄え、必要に応じて活用、役立てなければ意味がない事。
仕事にどう活かすかが肝心要だ。
学校は、必要のない事、役に立たない事を勉強させるけど、
世の中では、必要のない事、役に立たない事は、学ばせない。
なぜなら、時間の無駄になるから。
学んで何になるのか。
何にもならないことを学んでも意味がない。
使えない英語。
論理性のない数学。
現実離れした、社会。
暗記するだけの歴史。
実体の伴わない科学。
道徳のない倫理。
感動の伴わない文学、芸術。
世の中では無駄になる事は教えない。
学んだことを無駄にしない。
人生は短いのである。
講演も、自分の歯で噛み砕き、咀嚼しないと自分の身にならない。
学校の授業ではない。
鵜呑みにしただけでは消化不良を起こす。
自分がどう感じたか、何に心を動かされたか。
大切なのは、共鳴共感さ。
怖いのは、何も感じない事。
感動のない学問なんて。
感動のない人生みたいな事。
それは、心を失っている証拠だから。
学校の授業で心を動かすなんてことなかっただろ。
試験のための授業だから。
でも、現実は違う。
本当の民主主義の国では政治家の言葉に民衆の心が動かされ。
それによって国の運命が決まるのだ。
必要だから学ぶんだ。
必要でない事を教え続けられていたら、必要だとも言えなくなり。
何が必要なのかも見分けられなくなり。
「あなたは、私にとって必要だ」とも言えず。
「この仕事は生きる上に必要だ」とも言えず。
何が必要なのかもわからなくなり。
「必要だ」というのも躊躇うようになる。
何が、本当に必要なのか。
それも学ぶので、本来なら。
それが学ぶこと。
必要としない事を学ばされれば、学ばされるほど、学ぶことが空疎となり。
そりゃそうだ、自分が必要と感じていないのだから。
必要としない事を学べば学ぶほど、自分も「必要とされていないのではないか」と思い始める。
これは絶望的だ。
本当は、必要だから学ぶので、必要とすることを学ぶから、必要とされる人間になる。
間違うなよ。必要とする事、必要とされる事は悪いことではない。
今の日本の政治家の言葉はなんと空疎なのか。
国民が、今、何を必要としているかを考えようともしないから。
仕事や生きていく上で必要な事、役立つ事の何を学び取ったのかそれが肝心なのだ。
物事の道理、大企業の横暴、仲間、自分は何をすべきか、何と戦うのか、国の方針、役人の性格、現実の矛盾、不正、世の中の裏事情、醜さ、社長の志、知識、技術、話し方、今、販売店が何を悩んでいるのか。
学ぼうと思えば、何からだって学べる。
駐車場の誘導だって、講師の話し方、身振りから立って、質問の仕方からだって、司会の話し方からだって、部屋の片付けからだって学ぶ事は多い。
逆に学ぶ気がなければ、何も学べない。
自分の仕事、生き方に結び付けて考えれば、どんなことからでも学べる。
近い将来、自分の力で、自分たちだけで問題を解決していかなければならなくなる。
自分たちの力で、この国を、この会社を動かしていかなければならない。
その時、誰も助けてはくれない。
自分の手で切り開かないと。
誰かが何とかしてくれるなんてあてにしても、誰も助けてはくれない。
これから自分が生きていくために、仕事をするために何が必要で何が役に立つのかを学んでいかなければ、自分の力で生きていく事はできない。
学び取るのだ。生きる知恵を。
資格試験だって、試験のために勉強していると思うから、身にならないので。
仕事に必要な事、役に立つ事を学んでいるので。
試験は、自分がどれくらい習得しているかを試されているというのが、本来の姿。
それに、仕事をするのの必要な資格なら、仕事をしながら学ぶさ。
かつての大人たちは、早く一人前になれと、十五で元服したら大人として扱った。
今の大人は、いつまでも半人前でいてほしいものだから、二十歳を過ぎても子ども扱い。
意識の問題だよ。
いつでも、とってかわれるぐらいの気構えでいなければ。
いきなり、「任せる」と言われてもできるわけがない。
いつ任せられてもいいように、日ごろから、心の準備をしておく必要がある。
我関せずでは、いざという時、何の役にも立たない。
必要とされない、役に立たない人間になってしまう。
若いうちから、いつ、責任を持たせられてもをやり抜くだけの根性を養っておかなければ。
学校のお勉強ではないんだから。
自分で学ばないと。
誰も教えてはくれない。
自分達が、この会社を、社会を、この国を、いつか動かさなければならなくなるのだから。
その日のために。
今の自分の生活や仕事に何が一番影響を与えているか、常に関心を持つ。
現実から目を逸らさないで、直視する。
大企業の横暴の一番、影響を受けるのは自分達なんだよ。
関係ないなんて言って見て見ぬ振りをしたら。
自分達の時代になってそのつけを払わされる。
自分たちで解決することができなければ、服従と隷従しか残されない。
自分たちで問題を解決できるよう、今から覚悟して準備する。
自分たちで会社の事、社会の事、国の事を解決しなければならなくなった時の為に、必要なこと、役に立つことを予め身に着けることが、学ぶという事である。
自分が必要だと思うこと、役に立つ事を学ぼうとするから、向学心がわく。
「なぜ、自分が必要だと思わない事、役に立たない事を勉強しなければいけないのだろう。」
そんな本質的な疑問が持てなくなった時、心を失うのである。
感動する心も、好奇心も失う。
向学心が持てなくなる。
学校で学んだことが世の中に出たら何の役にも立たないなんて、思いたくもない。惨めだ。
何が必要な事か、考えもしなくなる。
それでは、何事に対しても、無関心、無感動、無気力になる。
自分の人生と関わりがない。必要でないのである。
必要のないことを強制的に教えるのは罪である。
究極にあるのが、マニュアルである。
マニュアルが悪いのではなく。
あらゆることをマニュアル化してしまい、何も考えないでいい状態にすると。
その結果、何も考えられなくなる。
組織は、環境よ状況の変化に適応することが求められる。
何の変化もない、あるいは、絶対的リーダーに支配されているときは、考えなしに、ただ従えばいい。
しかし、環境、状況が大きく変化した時、あるいは、絶対的リーダーを失った時、組織は、変化に適合できなくなる。
どんな組織も共鳴共感から始まる。
共鳴共感もない組織は、単なる集団でしかない。
自分が生きていく上で必要とすること、役に立ち事を身に着けようとすることが学ぶという事である。
だから、必要と思えば、何にでも学ぶことができる。
失敗からも、負けたことからも、悪党からも、嫌な奴からも、漫画からも学ぶことはできる。
学ぶとはそういう事である。