存在は、前提であり。
存在を認識する過程で意識が生じる。
意識が生じることによって存在は対象化される。
存在自体は絶対で完全、言い換えると、不完全な存在などない。
存在を認識し、対象を識別する過程で、存在の絶対性は失われる。
すなわち、対象は、不完全で、相対的になる。
存在そのものは、無分別である。
在り在りて在る。
存在は、前提である。
気がつく以前に在る。
だから、簡単には、気がつかない。
気がつきにくいい。
存在は、自明な事であって、考えるまでもない。
見ようとした、見えなくなる。
意識したなら、気がつかなくなる。
考え出したら、わからなくなる。
でも、確かにある物はある。存在している。
存在は、前提なのである。
存在は、前提である。
考える、故に、吾ありは、存在証明。
考えるという行為によって、吾と在りを証明する。
行為は、存在を自覚させる行為であれば何でもいい。
自覚とは、自分が存在を知覚する事。
見た、故に、吾、在り。
感じる、故に、吾、在りでも。
おなかがすいた、故に、吾、在りでもいい。
証明される対象は、吾と在りである。
二にして不二。不二にして二。
色即是空。空即是色。
何事にも、始まりと終わりがある。
始まる前は知らない。終わった後は未知。
今は、始まりの前も、終わった後も不可知。
神を信じて生きていくしかない。
存在が証明されると、存在は、認識され、存在は前提となる。
存在が前提になろと、対象化される。
存在が対象となると自他が生じる。
存在は認識され、対象化される事で識別される。
識別化される事で前提となる。
認識する存在を主体とする。
自己は、主体である。
対象は、自他の別があって成立する。
即ち、吾と在るである。
自とは主体であり。
認識前提である。
対象は認識する主体によって成立する。
自己があって対象は成立つ。
認識されなければ対象の対象は、意味をなさない。
対象は、認識しようとする自己の意志があってはじめて成立する。
主体とは自己である。
欲は、自分の存在を自覚させる。
欲がなくなれば、自分の存在を自覚するのが難しい。
欲がなくなれば、自分の居場所を見失う。
だからこそ、自制しなければならない。
自制心を失えば、欲は、際限なく拡大し、自分を破滅へと導く。
自滅から逃れるためには、人は、自らを超越した存在を受け入れるしかない。
自他の存在を受け入れるしか。
人は、神を必要とする。
神を否定する者は、自らを神とする。
一は二となり、三となる。
太極と自己とは一対一で二となる。
道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は萬物を生じる。
太極に有無はない。
有無は吾にある。
有無も、一も、二も自分の意識が生み出すのである。
対象にあるわけではない。
人の体に貴賤の別はない。
頭だから尊くて肛門だから卑しいという事はない。
尊いとか、汚いとか、卑しいとするのは、吾である。
賤があって貴があり、貴があって賤が生じる。
何を貴とし、何を賤とするかは、自分である。
対象に貴賤があるわけではない。
全体は一である。全体の総和は零(〇)である。
全体の総和は零であるが故に天、即ち、全体は一となる。
光あるところに物があれば、影が生じる。
光だけの世界は、何も識別できない。
物があり、影が生じるから識別ができるのである。
光と物と影の三つが揃って世界は認識できる。
光と物と影の根本にある実体は一つである。
それ故に、人が物を認識した時、陰陽が生じる。
しかし、陰陽の本は一つである。
一から、陰陽の二が生じる。天は陰陽を含んで三となる。
易に、不易、変易、簡易の三義あり。
自己は間接的認識対象。
人は、自分だけでは、自分を知ることはできない。
故に認識は、相対的になる。
存在は絶対、認識は相対。
自他は、分別によて生じる。
根本は、無分別である。
科学は認識の産物なんだ。
だから最初から相対的なのであり。
絶対的にも完全にもならない。
近づく事は、できても、到達はできない、それが科学である。
AIを恐れるのは、人間の視点で見ているからだ。
AIが人知を超えたら、人間以上に神に近づくだけで、何も恐れる事はない。
恐れなければならないのは、人である。
例え、将棋において人がAIにかなわなくても、藤井聡太には関係がない。
百メートル走で自動車に人がかなわなくても、ウサインボルトの偉大さに影響がないように。
人は、なぜこれほど無慈悲になれるのか。
戦争で行われることは、普通なら、全て犯罪。
悪である。
英雄、豪傑は、暴虐、残忍である。
冷酷非情でなければ英雄になんてなれない。
戦争とはそういうものである。
プーチンだって、ロシア兵も人の子。
残忍な行為を繰り返しているのは人の子。
正すべきは人の子。
悪魔に魂を売ったかだって。
悪魔だって滅亡を望むほど愚かではない。
人の事は、人が解決する以外にない。
仏陀も、イエスも、ムハンマドも、孔子も人の子。
ソクラテスも、プラトンも、アリストテレスも、人の子。
カントも、デカルトも、ガリレオも人の子。
ニュートンも、アインシュタインも、マザーテレサも人の子なのだから。
猫に小判。豚に真珠というが。
猫は小判の為に殺し合いはしない。
豚は真珠の為に仲間を欺いたりはしない。
ならば、人と猫や豚、どちらが、真の価値を知っているのか。
科学は、真理の探究というが。
何が、真理なのか。
なぜ、真理を探究する必要があるのか。
それが、いつの間にか失われ。
ただ、科学の成果だけが持て囃されるようになった。
その結果、科学の目的が見失われ、成果だけで評価される。
科学技術が発達したからいいではないかと。
しかし、科学の成果は、諸刃の剣。
人々の暮らしを豊かにする利器にもなれば、人類を滅亡に導く凶器にもなる。
人には守るべきことがある。
守るべきことを忘れたら、科学は人類を破滅へと導く。
科学に人類を救えるわけではない。
科学が生み出すのは道具に過ぎない。
科学は両刃の剣。
科学も技術も手段に過ぎない。それを忘れてはならない。
科学は、目的にはならない。
ならば、何を守らなければならないのか。
そこにこそ、科学の本質が隠されている。
何を恐れなければならないのか。
何を失ってはならないのか。
それこそが、神の摂理、意志である。
一人の死も、人類の滅亡も一つの終結であることに変わりない。
一神教徒は、恐れてはいない。
なぜなら、予言通りに最終戦争が起きたと思っているから。
自分たちだけが生き残れると信じているから。
それに気がつかない日本人は人がいい。
日本人は、ただの戦だと思っている。
一神教徒にとっては信仰の問題なのである。
人は、幸せな時、神を侮り。
不幸になると神を罵る。
しかし、神は、神だ。
神を、必要としているのは、人間であり、
神は、人間を必要としていない。
人は神にはなれないし。
神を超えることできない。
神を否定する者は、自らを神とする。
その時、全ての存在は、前提を失う。
最後に、人は神に対峙し。
神は、人と対峙する。
人は、神を信じられるか。
神は、人を許せるか。
祈るがいい。
許しを請うがいい。
神よ、蘇れ。