万物は太極から分かれる。

一が二となり、陰と陽を生む。

生まれた時、人は、無分別である。
人は、生まれた時、自分の存在を、他の存在によって知るのである。

一は二となる。

生まれた時から自分の存在は他の存在の前提となる。
なぜなら、自分が存在しなければ他の存在は知覚できないからである。

自己の存在は、あらゆる、事物、現象、世界の前提となるから、先ず、自己を定義する。

その前に自己の外的、物的、事物、現象、存在、あるいは、世界を対象と名付ける。

自己も含め、全ての存在は、唯一絶対である。

唯一絶対な存在には、分別はない。
分別がなければ、識別がつかない。

識別をするために認識の必要から分別が生じる。
分別が生じると対象の絶対性は崩壊し、相対的になる。

分別を持った瞬間から、人の認識は、全ての相対的となり、不完全なものになる。

自己はあらゆる行為の主体である。
自己は認識主体である。
自己は存在前提であり、認識前提である。
自己は間接的認識対象である。
自己は観念的、精神的存在である。
ここで問題となるのが、「自己」が「間接的認識対象」だという事。

対象が直接認識対象で、自己が間接的認識対象というのは自己と対象は、鏡像関係にある事を意味する。
つまり、自分を外会の対象に映すことで自分を知る。
自分を知る為には自分を外の何者かに移さなければならない。
外への働きかけによって自分を知る。
自己認識は外界に依存している。
このような関係が認識の作用反作用の関係を成立させている、

自己以外の対象は直接的認識対象である。
直接的認識対象と言っても我々が直接認識できるのは外形だけ。表だけである。

自己は主体的存在であり、同時に間接的認識対象である。
自己が主体であり、間接的認識対象であることは、自己が認識主体であると同時に間接的認識対象であることを意味し、それが対象との関係を認識する際に作用反作用の関係を生み出す。
自己を客体化することによって自他の関係が他対他の関係に転換し、それが対象の基本的関係を性格付ける。
作用反作用は認識上の問題であり、働きや関係を考える上での基本となる。
存在は、自他の分別以前にあり唯一で絶対である。
つまり一である。
一は、分別のよって二となり、絶対が壊れて二となり、相対的となる。

万物は太極から分かれる。

一が二となり、陰と陽を生む。

陰は収入,陽は支出。

陰は分かれて陰々と陰陽となる。
陰々は総資本、陰陽は収益となる。
要は分かれて陽陰と陽陽となる。
陽陰は資産で陽陽は費用。

貸方が陰で、借方が陽。

総資本は、陰で、総資産は陽。

収入は陰で、支出は陽。
収益、負債、資本は陰で資産、費用は陽。
利益は陰徳である。

費用は分配の要。
収益は虚しい。
収益を得ても、使わないと目的は達成できない。
利益は陰徳である。

経済の実体は資産と費用にあり、借金と収益は虚構である。
負債、資本、収益は、名目的価値を表し、資産と費用は、実体的価値を表す。
名目的価値は貨幣的価値であり、実体的価値は、物的価値を言う。
貨幣、すなわち、「お金」は、陰であり、物や人は、陽である。

お金は使う事で、効用を発揮する。
使わねば虚しい。

お金は天下の回り物。
お金は循環する事で効力発揮する。

入りは陰、
出は陽。

入りと出を繰り返して時は刻まれる。
陰陽の本は一つ。

入れば出。
出れば入る。

出す者、受ける者はいてもお金は一。

売り手の対極に買い手がいて。
買い手がいなければ売りてはいない。

売り買いの総和はゼロ。
取引の総和はゼロ。
取引は一。

売り手は金を受けて陰。
物出して陽。

買い手は、金を出して陽。
物を受けて陰。

貸手の裏に借手がいて、借手の表に貸手がいる。
お金の流れる方向の垂直方向に同量の債権と債務が生じる。

お金は支払を準備し、生産は消費を準備する。
生産は消費を期待する。

生産は陰で消費は陰。
消費と生産は表と裏。

お金の表と裏を表す。

易では、是非善悪を問題するのではなく。
どう対処するかを問うているのである。
答えは自分で出す。

企業、および、行政府の経済的機能。

分業が深化するにつれ、生産の場と消費の場が分離しその間に分配の場、市場が生じた。
分配は、分配機構によって組織的に「お金」を分配し、分配された「お金」を使って財を購入する事で実現する。

経済は、生産の場、分配の場、消費の場が分離独立するのに伴い、生産主体、分配主体、消費主体の三つの主体と市場という一つの場が成立した。
生産主体、分配主体、消費主体はそれぞれ固有の機構を持つ。

経済は、生産の場、分配の場、消費の場が分離独立するのに伴い、生産主体、分配主体、消費主体の三つの主体と市場という一つの場が成立した。
生産主体、分配主体、消費主体はそれぞれ固有の機構を持つ。

生産の場と消費の場が分離しその間に分配の場、市場が生じた。
分配は、分配機構によって組織的に「お金」を分配し、分配された「お金」を使って財を購入する事で実現する。

経済は、生産の場、分配の場、消費の場が分離独立するのに伴い、生産主体、分配主体、消費主体の三つの主体と市場という一つの場が成立した。
生産主体、分配主体、消費主体はそれぞれ固有の機構を持つ。

生産主体には、企業、および、行政、金融機関があり。

生産機構は、財を生産する。
財には、私的財と公的財があり。
私的財を生産するのが民間企業であり。
公的財を生産するのが公共機構である。

私的機構は私的財を生産し売って「お金」を調達する。
公的機構は税によって「お金」を調達する。

分配機構は生産機構と一体になって生産と分配を担っている。
分配機構は費用によって組織的に「お金」分配する。
費用は、突き詰めると人件費に還元される。

企業と行政府は、収入と支出を整流する。
収入は陰で支出は陽。

経済の機構は、基本的に人、物、金で構成されている。

人と物は、陽の空間で「お金」は陰の空間を形成する。

市場経済は、「お金」を循環させる事で動いている。
「お金」は循環する事で効用を発揮する。
つまり、市場経済は、「お金」を循環させる仕組みなのである。

なぜ利益が出ること言えば、「お金」の働きの長期的均衡と短期的均衡を組み合わせているからで。

利益と金利は時間価値を生み出す。
利益も金利も陰徳。

市場は拡大と縮小を繰り返す。
市場は成熟するに従い、質的変化をする。
市場は成熟すると時間価値が圧縮される。

市場のエントロピーは増大し続けている。

市場は常に均衡、ゼロ和へと向かい、利益は圧縮されていく。

均衡を前提に市場は制御させる必要がある。

量的拡大は質的変化をおもたらす。

経済機構は「お金」の出入り、収入と支出によって動かされている。
入金、出金である。つまり「お金」のインとアウト。
入金は陰で、出金は陽。
インは陰でアウトは陽。
貨幣経済は、基本的にインとアウトの二進数だから、システムと親和性が高い。

お金の流れに沿って組み立てれば経済モデルは比較的容易に構築できる。
その根底にあるのは会計の思想であり、簿記のシステムである。

企業、および、行政府は人、物、金によって構成されている。

生産主体は、分配主体を兼ねている。
生産主体と分配主体を兼ねる事で、お金の流れを整流する機能を果たしている。

消費主体は、家計である。

豊かさは、消費の質を高めるに尽きる。
無論、その前に、量を確保するのは当然だが。

貧困は分配の偏り、経済構造の歪によって引き起こされる。
貧困は相対的である。

​例えば、一方で高級住宅が売り残って空き家になっているのに、一方でホームレスが街に溢れている様な。
或いは、何十件も住宅が建てられるような敷地面積の豪邸に住む人がいる一方で安アパートに住む人がいるような。

戦争も犯罪も根底には、貧しさがある。

真の豊かさを追求する必要がある。

足らざるは貧あり。
満ち足ること知れば豊かになれる。

豊かさは、お金を支払う時に感じる。
消費こそ目的。

何事にも、陰陽がある。
光りあれば影がある。
明暗を分かつとも元は一つ。

分別される前の存在を、神とする。
神は、唯一絶対な存在である。
神に、善悪の分別はない。
分別は、自己の側にある。
神は、自己を超越した存在であり、善悪を超越した存在。
善悪は自己の側にある。
人は、自己の善悪によって裁かれる。
総ての罪は自己の側にある。
罪を償うのも自己、善悪によって裁かれるのも自己。
だからこそ、自分の罪を認め、悔い改めて、神の許しを請うのである。

人は、幸せな時、神を侮り。
不幸になると神を罵る。

しかし、神は、神だ。
神を、必要としているのは、人間であり、
神は、人間を必要としていない。

世界の本源は太極にある。