日本は、戦争に敗けた。
戦争に敗けた事によって無条件に欧米の思想を受け入れた。
日本人とは何かを忘れて、占領国の憐憫に縋ったのである。
確かに、その事によって日本は、見せかけの繁栄と民主主義を手に入れる事は出来た。
しかし、同時に大切な何ものかを失ってしまったようだ。
日本人が日本人として後世に引き継いでいかなければならない大切な事。
日本人が日本人としてある為に失ってはならない事を、我々は忘れつつある。
そして、いよいよ、戦後の繁栄のメッキが剝がれつつある。
これからの日本の在るべき姿を考える時、日本人の原点を探る事も悪い事ではない。
本当の日本の繁栄を勝ち取るためにも。
死と再生の物語は、いつの世にも。
古い日本は、確かに、戦争によって死んだのかもしれない。
だからこそ、炎の中から再生するしかない。
不死鳥のごとく。
まだ、日本人の魂が燃え尽きる前に。
日本の源流を考える時、古事記、日本書記の戻るのが至当であろう。
古事記、日本書記の原点は、天地開闢にある。
ところが、意外と、天地開闢はこれまであまり重視されてこなかった。
それは、天地開闢に関する記述が短いうえに、抽象性が高いからと思われる。
しかし、それだけに、天地開闢神話の含蓄は深い。
日本書記では、世界は、混沌から始まるとされている。
最初、世界は、天と地の境もなく混沌としていた。
混沌とした世界が動き出し、やがて、渦となり。
澄んだ部分と濁った部分とに分離し。
ほんの少し、僅かな差なんだ。
ともすれば気が付かないような違い。
余程、注意しないと見逃してしまう。
でも、確実に変わった。
僅かな兆し、兆候。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が現れて天を押し上げ天地を分ける。
軽くて、澄んだ、清浄な部分が天となり。
濁って重い部分が地を形成する。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が天を押し上げるのと同時に、高御産巣日神(たかひむすひのかみ)が現れ天と地の間の万物を生成し。
神産巣日神(かむむすひにかみ)が地の恵みを生み出す。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が神羅万象、存在を。
高御産巣日神(たかひむすひのかみ)が天のはたきを。
神産巣日神(かむむすひにかみ)が地の働きを司るともいえる。
高御産巣日神(たかひむすひのかみ)、神産巣日神(かむむすひにかみ)二柱の神に共通しているのは、産巣日(むすび)。
産巣(むす)は、苔生すの生すで、「生成、生じる」事を意味し。
日(び)は、霊力、エネルギーを意味する。
つまり、いずれの神も、生み出す力、生命エネルギーを意味する。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかひむすひのかみ)、神産巣日神(かむむすひにかみ)の三柱を造化三伸という。
造化三神は、性別のない、自己完結した、独神である。
天と地が解れても、世界は、推さなく水に浮かぶ脂の様の、クラゲのように、正体なく危うげだったのを葦が力強く伸びてきた。
生命エネルギーを司る宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の神である。
そして、天之常立(あめのとこたちのかみ)が現れてこの世界を安定させた。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、天之常立(あめのとこたちのかみ)の二柱の神は、あまり知られていないが重要な働きをしてお隠れになった。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)は、生命誕生を司ったと言われる。
また、天之常立(あめのとこたちのかみ)天を安定させたと言われる。
この二柱の神は、陰からこの世界を支え続ける事になる。
天地は神によって創造されるのではなく。
開闢され、開闢されることによって神がこの世界の現れる。
世界は作り出されるのではなく。
押し広げられる事で現れるのである。
この五柱の神を別天津神(ことあまつかみ)の神が高見が原を確立する。
そして、神世七代の時代が始まる。
神世七代とは、大地を整える時代である。
大地を司る国之常立神(くにのとこたちのかみ)が現れ大地を安定させ。
豊雲野神(とよくもののかみ)が現れて生命を満ちた豊穣な大地に変える。
国之常立神と豊雲野神の二柱までが独神である。
この後の神は二柱、男女対偶で、役目を果たし最後に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美(いざなみのみこと)が現れて、いよいよ、国造りを始めるのである。
豊雲野神が最後の独神で、以降は、双(たぐへ)る神となる。
豊雲野神以降の双る神は、農耕を表しているように思える。
宇比地邇神(ういひぢにのかみ)と須比地邇神(すいひぢにのかみ)は、泥土、つまりは、土地を表し。
角杙神(つのぐひのかみ)と活杙神(いくひのかみ)は、田を表し。
意富斗能地神(おほとのぢのかみ)と大斗乃弁神(おほとのべのかみ)は、種まきを表し。」
淤母陀琉神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)、は、収穫を表す。
最後に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美(いざなみのみこと)が現れる。
独神から男女対偶の神へと変わるこれも重大な意義がある。
それは、男と女を一体として考える事を意味する。
人との営みが始まるに連れて双る神へと変じたと思われる。
また、天照大御神と月読命が、女神であるように、日本の古代では、女性も敬われていた。
日本神話では、天地は、ビックバンのようにして始まる。
その意味では、日本人は、神もまた天地の力によって生み出されるのです。
日本神話では、万物は、成るものであって。
つくられるものではない。
注目すべきなのは、万物は、神の肉体を本とし、そして、神から分かれる事のよって生成している。
万物は、神の分身なのである。
だから、森羅万象、悉(ことごと)く、神性が宿っているのである。
日本人にとって神は、人なのか。
日本人は、神を擬人化してはいるが、その本質は、万物に存在する霊性である。
そして、神は、隠れているようで隠れるのではなく、また、分身しているようで分身するのでもなく。
万物に普遍化する事で姿が見えなくなるのでは…。
日本人は、大樹を、大樹として、日輪を日輪としてあるがままに神として崇めたのではないか。
だから、人の形として現す必要がなかった。
だから、姿が見えないのではなく。
姿を変える必要がない。
神は、今でも日本人の目の前に現存する。
大樹は大樹として神霊であり。神木であり。
日輪は、日輪として神なので。
姿を変じる必要もなく。
今も神は神と知って目前に存在する。
人も人として現人神なのである。
万物は、神の化身ともいえる。
古来、日本人は、鏡、勾玉、剣を神の依り代とし、偶像崇拝の習慣はなかった。
それは神を偶像化する必要がなかった。
自然そのもの神としたからである。
また、日本人が神聖としたのは結界、空間であり。座である。
神のおられる空間である。
その様な場、常に、掃き清められていなければならなかった。
日本神話には、天地を創造する、唯一紳、絶対神は出てこない。
個々の神も絶対ではなく。完全無欠でもない。
ただ、この世界には、神々をも支配する、超越的な霊的な力が働いている。
日本の神話はおおらかで、肛門であろうと、性器であろうと、それが、自分の体に備わっている事には、貴賤をつけたりしない。
また、古代の日本人も素直にそれを敬っている。
万物全てに神性が宿る。
例え、糞尿でも、汚物でも。
糞尿の神も、汚物の神も、決して卑しくはない。
日本人が嫌うのは穢れである。
神も禊によって罪、穢れを洗い流し。
そこから、新たな神を生み出す。
それこそが、再生への道である。
高天が原を追われたスサノウがオオツゲヒメにみことに食事をごちそうになった時、オオツゲヒメは、全身から食事を出していた。
それを見た、スサノウが怒ってオオツゲヒメを殺した。
そうするとオオツゲヒメの体が頭が蚕に、目が稲穂に、耳が栗に陰部が麦に、尻が大豆になったと。
これは、死と再生の物語でもある。
日本人にとって性も、汚らわしい事ではなく。
性は性で、神聖な事で。
隠すような事ではない。
意富斗能地神(おほとのぢのかみ)、大斗乃弁神(おおとのべのかみ)人々の居場所、農耕の場を意味すると同時に男と女の性器を表すとも言われる。
そこに古代日本人おおらかさがある。
性を神聖視したからと言って淫祠邪教でも、快楽主義を意味するわけではない。
性をいかがわしい、淫乱な行為とみる者の偏見に過ぎない。
性を快楽を貪るための手段としか考えないからである。
性から淫らで猥褻の行為を思い浮かべるのは、性を、淫らで猥褻な事と思い込んでいるからで。
性を神聖だと思う者は、性を神聖な事として扱うのである。
日本の結婚式の時、花嫁は白無垢の着物を纏う。
性は生命の根源でもある。
性は、無垢で清浄な行為でもある。
日本人にとって生命の本源はエロスであって。
万物はエロスから生み出された。
国之常立神と豊雲野神の二柱以後、男女の交わりか万物は生じる。
エロスを敬うから、男と女は慈しみ、睦み合える。
エロスは隠す事ではない。
日本人が求めるのは、無垢と清浄である。
清く、正しく、美しくである。
それは、性にも求められる。
エロスとは、無垢で清浄な行為なのだ。
それは、命が、純なる存在だからである。
日本の神社は、無垢で、清浄な場である。
華美で、必要以上に豪華であってはならない。
余計な装飾をそぎ落とし、材料は無垢でなければならない。
質素で、素な物なければならない。
御神体は、鏡と勾玉と剣、象徴である。
日本人の穢れとは、死と血を連想させる事である。
弔いは、仏法が担い。
死と血を連想させる出産も忌事とされた。
日本人にとって戦争は穢れである。
常に兵士は、洗い清め、邪気を払う。
それでも、武士は、仏法に救いを求めた。
日本では神を柱でかぞえる。
また、座とも数える。
いずれも、象徴的な神を表している。
柱が意味するのは、一つに、家の柱を大黒柱というように支えである。
柱は天と地をつなぐ道でもある。
また、柱は、標である。
柱は、大木を表してもいる。日本人にとって大木には神霊が宿るという信仰がある。
それが御神木である。
柱という字は木と主が合わさってできている。
日本は木の文化の国でもある。
日本人にとって、神は文字通り柱なのであろう。
日本人にとって神は文字通り柱なのだと思う。
天に向かって聳え立つ、大木であり。
天に逆巻く竜巻であり。
雷を伴い。風神雷神でもある。
湧き上がる雲であり。
火山の噴火による黒煙であり。
火の柱。水柱。風の柱。
木の柱。石の柱。土の柱。
黄金の柱。水晶の柱。
光の柱。
天を押し上げ、天と地を分かち、この世を支える巨大な柱。
圧倒的な力を見せつけ。
役割を終えると忽然と姿を消す。
雲のように、虹のように。
凄まじい怒りと恵みをもたらす柱それが神であり。
その神から万物が生じた。
国造りの時も柱が重要な役割を果たす。
天御柱である。
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美(いざなみのみこと)は、柱を立ててその周りを廻り、互いに声をかける。
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は自分の余るところを伊邪那美(いざなみのみこと)は自分の足らざるところを合わせて、国を作ろうと。
二柱は、一致協力して国造りを始める。この事は大切な事で。
柱もいやらしい意味ではなく、おおらかに、性を象徴していると思える。
柱は、日本人とって豊穣の象徴でもある。
それは、万物の生成の理として生を受け入れている事を意味し。
同時に柱は柱。
また、順序、順逆の重要性も形と示している。
順序、順逆を間違うと、誤った子、結果が生じる。
その時は、正しい順序、順逆でやり直せばいい。
また、古代日本人は、空間も神聖視している。
正常な空間を作り出す事にも腐心する。
座は空間を表し、場所を意味する。
神は、我々には姿は見えないけれど、確かに、そこに居られる存在。
時空は、一定の法則をもって柱を巡る。
神は、産み出されると、各々が大本となって万物を生成する。
神は、自分の役目が終わるとお隠れになる。
消えるのでもなく、失われるのでもなく。
隠れるのであり、目には見えなくても、そこに居られる。
座しておられる。
日本の神は、裁く事も、支配するのでもなく、あらゆる処に居られて、人々を見守っている。
天照(あまてら)す神である。
日本神話は、日本人の原風景である。
私には、日本神話を何らかの宗教的活動と結びつける意図はないが、神話の持つ意義は正しく理解する必要はあると考えている。
この国の礎を築いてきた人々が、どの様な考えをしていたのか。
それを解明する事は、この国の本質を知るうえで不可欠な事である。
戦後、日本人は、献身的に尽くす相手を見失った。
それは、日本人のルーツ、根本を失った事も原因の一つとして考えられる。
それから日本人は根無し草となった。
浮き草となった。
日本神話に立ち返る事は、日本人のアイデンティティーを取り戻す事でもある。
日本人の根源にある思想は何かを明らかにする事は、日本人が、自分を取り戻すためには、避けてとれない道である。
かつて、日本人は神前で結婚をした。
今は、人前結婚式が流行りである。
それが現在の日本を象徴している。
合同結婚式と言った怪しげのものまである。
日本人としての意識が薄れるにつれて、冠婚葬祭も本来の意義が失われ、簡略化、矮小化されいる気がする。日本の祭りが廃れている。あるいは、単なる遊戯、観光の為でしかなくなりつつある。
日本の神が、失われつつある。
正月は廃れ、クリスマスに取って代わられつつある。
だからと言って日本人はキリスト教を受け入れているわけではない。
神なき世界になっただけである。
人は、何も恐れなくなった。
その結果、人類を何度も絶滅させる事が出来るほどの核兵器を生み出したとしたら。
神への信仰を迷信と嘲笑えるだろうか。
結婚式が神聖な場でなくなった事が象徴するように。
人間は神聖な場を失いつつある。
そして、性から神聖さは失われ、単なる猥褻で淫らな行為でしかなくなった。
それと共に親を敬い、子を慈しむ心も失われつつある。
人は、幸せな時、神を侮り。
不幸になると神を罵る。
しかし、神は、神だ。
神を、必要としているのは、人間であり、
神は、人間を必要としていない。
神を否定する者は、自らを神とする。
日本の民主主義も独立も日本人としてのアイデンティティーがあっての事。
我々の根源に何があったのかを知る事こそ、日本人の民主主義や自由を育む事でもある。
日本人の本義は、他民族を支配したり侵略する所とではなく。
御柱を守り、この世を平らけく、やすらけくする事にある。
世の平穏無事を祈る事は、事勿れ主義や、日和見主義を意味するのではない。
何でもない一見些細なこと、日常的な事柄を変えて、本質的な事を変化させるのは、他民族支配の常道である。その典型は言葉を変える事である。
無事を報告というのは,最も、重要で有意義である。
何事もなく、大過なく終わると言うのは、当たり前に見えて当たり前ではない。
平穏無事というのは、一番大切な事だが。
平穏無事な状態を維持する為にどれだけ多くの人が影働きをしているか。
それが当たり前だと思い込みはじめると、その影働きしている人に対する感謝、評価を忘れる。
そうなると、陰働きをする人が廃れ、やがては大きな災難を招くことになる。
無事を報告する場合は、報告する者は、陰働きをした者に光が当たるよう心掛ける。
これも、当たり前と言えば当たり前。
何事もなかったと言えるのは、何事もなっかたと言えるようにしている人たちがいるからで。
この国が平穏無事でいられるのは、平穏無事でいられるように、第一線でこの国を守ている人たちがいるので。
その事を忘れたら、その時この国の終わりが始まるのだろうに。