大切な事、大切なもの。

なぜ、社長は、訓示で自分が大切にしていたオカメインコが死んだ話をしたと思う。
他人からしたら、他愛ない事かもしれない。
でも社長にとってはかけがいのない命。
失ってはじめて気がつかされた。

傍から見れば、ちっぽけな、オカメインコの死に、なぜ、それほど取り乱し、泣き叫ぶのか。
わからないと思う。
でも、社長にしてみれば、そこにいて、当たり前な愛おしい存在だった。
失ってその大切さに改めて気がつかされた。
生きているうちと悔やんでも詮方ない事。時間を巻き戻すことはできない。

人の人生も同じさ。
大切な時間を無為に費やいしてはいないか。
社長はそう言いたかったんだよ。
当たり前に思える時間かもしれないが、その一瞬いっしゅん、一刻いっこくが大切な時間。

社長は、今日、うちのビジョンは何と聞き。
価値と感動をお届けすると答えたから。
じゃあ、価値ってなあに、感動ってなあにと聞かれた。
聞かれた者は一瞬たじろいて、教科書的な事を答えていたけど。

大切なのは、自分が何に価値を見出し、何に、感動したかを答えるな。

僕なら、何に感動するかと聞かれたら、「ありがとう。」と言われた一言かな。
それとも「助かったよ。」とか、ラーメン屋なら「美味しかった。」といわれた事かな。
その一言に、僕なら価値をみいだす。

相手にしてみれば、たわいない、さりげない一言かもしれないけれど、働く者にとっては、心に、魂に沁みとおる一言。
他人から見たら、つまらない事でも、大切な事。大切にしたい事。
それを、忘れたら、何もかも虚しい。
魂や、心を失ってしまう。
そんな心ない、魂のない仕事していないか。
組織て、生物さ。それが、魂を失い、無機質になって。
機械みたいになり。そして、最後は、自分たちがなにをやっているのかもわからなくなり。
仕事に生き甲斐も見だせなくなり。
所詮、金でしょと割り切って。
でも年をとり、定年退職したら、自分の家の中にも自分の居場所がなく、厄介者にされ。
社会からも必要とされなくなり、見捨てられ。
まるで廃人の様に、社会の片隅で生きていくしかなく。
誰からも必要とされず。振り向きもされない。
それは、心を、魂を失ったから。

我々の世代は、よく、「遊ばなけれない。」と教えられたけど。
親父たちは、遊びたくて遊んだんではないさ。
遊ばなければいられないから遊んでいたのさ。
だから、親父たちの遊びは、壮絶。命がけ。
俺達が頭で考えるような、生ちょろいものではない。

社長は先日、ジャトコさんに年末の挨拶に行ったとき、「それは、パッションだね」といわれたと。
ジャトコさんの合言葉は、「ザ ミッション イズ パッション」。
それが日常会話の中でさりげなく出る。
凄いねと社長は言っている。

価値も感動もね。
自分が感じる事さ。
自分が感じる心や魂を失ったら、虚しい言葉だよね。
我々が、あるのが当たり前だと思い込んでいる事。人。
失ってみて、はじめて、わかる。
仕事もね。
失ってからでは、手遅れだけど。
失わなければ、あるのが、当たり前な事。
他人から見れば、くだらない、つまらない事でも。

でも、大切な事は、今、なりふり構わず大切にしないと。
失うのは辛いからと最初から感じる心を棄てたら。
それはもう魂を失う事。

価値や感動を感じるのは、自分の心。
だから、何に価値を見出し、感動したかは、自分が感じたままの言葉で語らなければね。

何も思わない。
何も考えない。
何も感じない人間に、どう思う。
どう考えると聞いても、野暮なのである。
最初から、何も思はない、何も感じない、何も考えていないのだから。
こうなると、鈍感というレベルでは片付けられない。
異常である。

価値とか、感動といても、価値も、感動も感じないのだから。
無感動、無関心とはそういう事で、挙句、無責任にもなる。

三無主義とは、そういう事で。

三無主義の人間に育てられたら、悲劇である。
大体、無関心なのだから、相談してもらちが明かない。
無感動だから、反応がない。
無責任なのだから、いい加減な対応しか望めない。
その上、それが正しいと思い込んでいるから、始末が悪い。

上の世代が三無主義にしたのだし、自分達は、三無主義に甘んじた。
結果、事勿れ主義、日和見主義、成り行き主義。
魂なんてこもらない。
結局、金の為でしかなくなる。
それで、所詮金。金の縁が切れればなんてうそぶく。
自分が心無いからと言って、人も同じだなんて思うな。

若いのはね、それを当たり前な事の様に、騙されてはいけない。

人は、感じるから、思うから、考えるから、人として働けるので。
何にも感じなければ、思わなければ、考えなければ、人として生きていく事も、仕事をすることもできないの。
人として、泣いて、笑って、泣くから、人としての仕事ができる。
人は、金だけのために働いているわけではないよ。

我々が必要としているのは、一人ひとりの自分の目でね。
社長が必要としているのは、カメラのレンズでも、録音機でも、スピーカーでもなくて。
一人ひとりの目であり、耳であり、口さ。
一人ひとりが目で見て、耳で聞いて、口でしゃべって、その結果、何を感じ、何を思い、どう考えあたか。
そして、何に感動し、何に共鳴し、何に腹を立てたか。
それが大切なのさ。