多様性と普遍性の整合性をどう保つか、そこに、倫理の難しさがある。
倫理は、相対的でありながら絶対性も、求められる。
十年前正しいとされた事が、今は、間違っているとされることもあるし。
アメリカで正しいとされる事が中国では間違っているとされることもある。
また、共産主義国と自由主義国とでも違うことがある。
港社長の座右の銘が「軽く野放し」だそうだ。
彼と私は同世代。だから、なんとなくわかる。
上の世代は、反戦、反体制、反権力、反権威と何もかもぶち壊した。
ただ、壊すだけで、何も創造的な事はしなかった。
だから、後の残されたのは荒廃した校舎だけ。
次の世代はしらけ世代、三無主義。
どうせ何をやったって変わらないと斜に構えて。
楽しければいいんだよと、深く考えもせず。
いつのころからか、責任をもって最後までやり抜く事の出来る人材がいなくなった。
軽いのである。腹がくくれない。何事も他人事。
軽いくせに、周囲の目ばかり気にして自分がない。
何でもかんでも、いい加減、ええは、ええは。なあなあ。
誰も注意しない。注意できない。
言わず、見ざる、聞かざる。
空気読めないと。
事なかれ主義、日和主義。
フジテレビの人間の多くは、何が悪かったのか分からないのだと、私は、思う。
自分たちは、間違ったことしたつもりがない。
俺たちの、どこが、どう間違ったのか。
上層部に、当事者意識など、どこにもない。
北野たけしが、「赤信号、皆で渡れば怖くない。」と、かつて言っていた。
北野たけしは、日本のオピニオンリーダーだそうだ。
彼は以前「俺のような芸人風情が何を言ったです社会に影響なんてないよ」と。
彼は、フジテレビに育てられたようなものである。
学生時代、友達が遊びに来た時、親父に挨拶しなかった。怒った親父が「なぜ、あいつは、挨拶しないんだ」と俺にいうから、「しないんじゃあない。できないんだ」と親父にいったら。
「最高学府に入学したのにか」というから「最高学府に行ったからだよ」と教えた。
ところが冗談で言っていた「みんなで渡れば怖くない」が、浸透し。
「これくらい、俺くらい許すされるだろう。」から倫理は崩壊すると。
「俺なんて」がいい訳になる。
今回のフジテレビの騒動で、正式な文章を出しているのは、唯一外資のファンドだけなのである。
だから、フジは、外資の言いなりになるのかというけれど。
紙に書いて出したのは唯一ファンドだけ。
文春といても、正式の要望書ではない。
正式の要望を紙に書いて出したのは、外資だけ。
この事の意味が分かっていない。
フジテレビホールディングスの社長でも、事件の第一報は、十二月の中旬で、それも、文春の取材を受けた時だという。
この事の重大性がわかっていない。
内輪で、丸く収めようとするから、収まらなくなるんだ。
たかが紙に書くなんて、面倒だ、何の意味があるの。
そういう軽いノリがいかに重大で深刻な事態を引き起こしている。
それは、事件が表建てになった時の中居の軽さにもつながる。
どうせ示談がついているし。相手のプライバシーもあるから、フジも表だてにしないさ。
いざとなったら開き直り、時間が経てばみんな忘れるさ。
黙っていれば時間が解決すると言い続けた人間がいるが、それがどんどん事態を深刻にしていることに早く気がつかないと。
一タレントの不祥事がここまでメディアを追い詰めるとは、改めて倫理問題の怖さを思い知らさた。
それにしても、会議の設定がお粗末で。
反面教師として参考になる。
自己(弁護士)と検事(対象)、そして判事(基準)この三点の位置づけがされていない。
だから立体的な検証ができない。
当事者は、冷静で中立的判断はできないという前提に基づいた詮議ができない。
昔の奉行所の御白州の様に被告と奉行の相対のような形式の詮議になってしまている。
何が真実か。今回もやぶの中ですね。事実をいかに検証できるか。事実に基づいた判断ができるかですね。
フジテレビの問題は、前提がいかに重要かをものがったっている。
前提となる事実が違えば、話は全く違ってくる。
幻を見ているような話である。それこそ薮の中を地で行く。
確認できる事実は何か。各々の事実認識は一致しているか。その点が重要なカギとなる。対応を間違うと取り換え足のつかない事になる。単なる、事実誤認では済まされない。
あらゆる、夾雑物、雑念、不純物、無駄を全て剥ぎ取り、燃やし尽くし、残った純なる存在、魂。
それを神とする。
つまりは、真実に対する、無垢で、無邪気な信仰しかない。それが科学の根本精神にも通じる。
文春が訂正文を出しましたが、今度は文春の事実誤認が問題となる。
ただ、前提をとり違えたままで話が進んでしまったから、結果が先行して、前提をたやすく変えられなくなっている。了解可能性が困難になている。
いずれにしても事実はやぶの中、曖昧なまま、プライバシー保護によって検証が難しくなっている。ただそれでも、事実を知った者が優位に立てる。要するに、事実なんですよ、動かぬ証拠は。
事実を知っている者だけが、冷静な判断、対応ができる。
ただ、その前提も、どれだけの人間が事実に基づいた行動をしているかで決まる。
しかし、それも、事実をどれだけ知っているかで後の話は違ってくる。
事実への信仰は自分が当事者であればあるほど重要になる。
事実を知っているのは、中居氏と相手の女性なのでしょうが、その事実も認識の相違によって変わってしまう。芥川龍之介の「藪の中」ですね。
総理がまたまた楽しければいいみたいな。この価値観は怖い。
楽しければ、面白ければが免罪符になると。
紙に書く、挨拶をする。
そういう基本ができてない。舐めている。
だから、本当の原因がわかっていない。
父母から、挨拶くらい然りできないと世の中に出てから、相手にされなくなるよ。
紙に書かなければ、頭名の中整理できないだろうと。
父が、使い古しカレンダーを小さく切ってメモ用紙にツケ
どんなに疲れていても、酔っていても、メモの整理が終わるまでは、ネクタイを解かずにいたの子供ながら見てきた。
どうにかなるさと、まじめに、真剣に取り組んでこなかったツケを今払わされることになる。
だらしがないとか、けじめがない、緊張感を持てと口やかましく躾けられたのに。
親父によく言われたよ、任せるのはいいが、最後に決めるのはお前だぞ。
そこで逃げたら泣きを見るのは、弱い対場の担当者。
細かいことほど自分で決めろ。
最期は、上が決めたのでと、担当がいえるようにしろよと。
フジテレビの問題は、あの場を仕切れる人間が誰もいなかったのが一番の問題で。
誰があの会見をセッティングをし、準備したのか。
よもや、社長が総てを取り仕切り準備したわけではあるまい。
仮に、そうだとしたらそのこと自体が問題なので。
誰も、会社やトップを守ろうと行動を起こしていない。
あれでは大将が一人、抜刀して敵陣に切り込んでいったようなもの。
それぞれがそれぞれ自分の役割を自覚して、責任を持って行動する事ができない。
それで、会社が存亡の危機に立たされいる。
その事にトップの責任があると言えば、責任がある事だけれど。
かと言いて自分に責任があるから、やめればいいんでしょと言って問題が解決できるのならいいけれど。
そうは問屋は降ろさないでしょう。
危機にあたっては社員が一丸になって会社やトップを守ろうとしなければ。
誰がどこを守るのか、それぞれの持ち場、役割は何か。
自分の役割を果たし、持ち場を守らないと。
その場で決められることは何か。
応えられることは何か。
その場で決められなければどうするのか。
その場で答えられなければどうするのか。
予め頭に入れておかないと。
是々非々だよ。
誰も守ろうとしない会社は守り切れない。
皆、いい人で、責任をなすり合う。そこでの倫理はいい訳に過ぎない。責任をとるというのは問題を解決する事で。悪ございましたと逃げ出すことだはない。