自分は、子供や部下を厳しく鍛えるのは、子供や部下を罪人にしないためだよと、小さい頃から言われ続けた。
そりゃあ、おべんちゃら言っておだてていれば楽さ。
でもそんなことをしていたら、部下は、図に乗って間違いを犯す。基本や原則を、一度、踏み外したら取り戻すのは容易ではない。
だから、時には、心を鬼にして厳しい決断をしなければならない。
叱られるものに対して人は同情するけど、叱る者に同情する者はない。叱る者を孤立させてしまう組織は、統御する事は出来なくなる。忘れるな。
「報告しろ。」なんていうと、なんだか、強制されている様に、誤解している若いのがいる。
報告というのは、本来自分の為にするものさ。
子供はさ、学校から帰ってくると、何でも母親に報告する。
だから、保育園の先生は、園児の家庭の事情に詳しくなる。
報告する事でコミュニケーションをとって子供は成長していく。
でも、中には、先生方はあまり聞きたくない事も含まれている。
そこには、守秘義務もある。だから、話をされるのはいいけど、話をされた方は、結構しんどいもの。
報告とは、実際は、受ける方がしんどい。
仕事なんて鬱陶しくて、煩わしくて、面倒くさいくて、生臭くて、厄介な事さ。
だから、報告だって鬱陶しくて、煩わしくて、面倒くさくて、生臭くて、厄介なことだらけ。聞いている方が辛くなるし、厭になる。聞いているうちに腹が立ってくる。
報告する側は、その時は面倒くさいけど、報告しなかったら、いざという時どうしていいかわからなくなる。
報告を叱り聞かなければ、わがまま、勝手、独断に陥る。
都合が悪い事が起こると嘘や誤魔化しいをする。
何かあったら取り返しがつかなくなる。
嘘や誤魔化しをしても内心、報告をしたのに聞いてくれなかったという思いがあるから素直になれなくなる。反抗的にもなる。
だから、しんどくても報告を聞いてやれ。
面倒くさがったも報告させろときつく言われた。
こういう基本が忘れられるから規律や統制が失われる。
規律や統制がなくなれば組織を纏める事はできない。
報告を受けるのは、管理の基本。
何かあった時、報告は聞いているか。聞いたかと真っ先に問われた。
何か問題があると時は、部下の報を告聞いていないんだろと叱られたものだ。
どんなに忙しくても、子供の話くらい聞いてやれというのも同じ。ちゃんと子供の話を聞いてやらないと親としての義務を果たせなくなるよ。
いくら言っても聞きわけがないと腹が立つけど…。
なぜわからないんだと思うから腹が立つ。わからないから面白いと思えば腹も立たなくなる。
大体、一回聞いたくらいでわかるはずないじゃないか。昔は、三回聞く事は許されたけど、三回以上聞いたらどやされた。噺家は、三回話を聞いて覚えられなかったら破門されたと聞く。
兎に角一回聞いたくらいでは分からない。
一回、聞いてわかるわけではないから…。何度も聞き返す事はできない。だから、報告するのも聞くのも工夫しないと。
この辺の勘所は、昔の人は厳しかったね。厳しいというより、乱暴。
今は、ちゃんと相手の性格や能力に合わせて、手を変え品を変え、教えてやる事だ。
何でもかんでも早ければいいというのではない。わかりました、わかりましたと言う奴にかぎって早とちりで、何もわかっていない。
我々は、簡単にわかりましたなんて言うと怒られた。わかったなら、言ってみろってね。
要は、しっかり理解する事だよ。しっかりね。不器用でもいいから。
相手は、人間なんだ。
皆違う。それが当たり前。それを受け入れるから平等になる。
機械的に同じ扱いをする事を平等というのではない。
一人ひとり、皆違う。その違いを前提として、それぞれの違いに合わせる。
それを平等というのだ。
事情も分からないまま、話もよく聞かないで頭から決めつける。
だから、相手は従わなくなる。
まず、虚心坦懐に話を聞く。
これが難しい。話を聞いているうちに、段々、苛々してきて話をさしはさみたくなる。
兎に角、我慢、忍耐だよ。
相手は、報告しているうちに、自分の頭の中を整理する。
終いに自分で答えを導き出す。
それはそれでいい。
自分を見つめなおせば、それは、それで、いいのだから。
結局のところ、報告を聞いただけでは、何が正しくて、何が間違っているかなんてわかりはしない。
何がなんだかわからないというのがわかるだけでもいい。
事情を聞かなければ、話は始まらない。
はじめは、混沌として何を言っているのかもわからない。
言い訳だの、弁解だのが混じっていて。何が言いたいのかもわからない。
でも、相手の話を聞かなければ、何も始まらない。
言いつけは、言いつけである。
しっかり守らせる必要がある。
報告は、本来、自分の為にする。
本来、言われてする事ではない。
でも自発的なんて言っていると身につかない。
つい面倒になって疎かになる。
聞く方も面倒くさくなって、まあいいやと手を抜く。
そこに落とし穴がある。
報告がいつの間にか疎かになり、報告をしたいと思ってもできなくなる。
これが、そもそもの間違い、ミスの始まり。
しかし、大きな間違いやミスを犯しても、それが、報告一つを疎かにしたことが原因だとは、誰も思わない。
少なくとも、我々以降の世代の連中は気が付かない事が多い。
でも、我々の先輩は、報告の有無を重大視する。
これは躾なのだと…。
最初に厳しく躾けておかないと、だらしなくなっていつかは重大な過ちを犯す。
可哀想だと報告を適当にする聞くのは、優しさではない。
自分に甘いだけだと…。
この世は一寸先は闇だ。何が起こるかわからない。
平穏無事な時は、人と人との絆なんて見えない。
そこにいるのが当たり前だし、困ったら誰かが助けてくれると信じ切っている。
だから、報告するのは鬱陶しいし、面倒くさい。
一々、報告するなんて意味のない無駄な事に思える。
でも、一人になったら。
先が見えなくなったら。
どうしたらいいかわからなくなった、その時、誰にも相談できず、報告もできないかったら。
人は、彷徨い、行き場もなくなる。寄る辺なき存在となる。
報告は、絆をつくる。互いの信頼の上で成り立つ。
お客に、訳の分からないことを言われたり、道先で、どうしていいかわからない時、仕事に行き詰まった時。
失敗したり、見落とししたり、些細でつまらない事で行き詰まった時、報告さえしておけば。
政治の世界でも不祥事があった時、国会や会社で、報告をしてあるか、正式な報告を怠っいないかと糾弾される。
ある社長が、そんなこと聞いてないよと言った一言で全ての信用を失った。報告がされていない、聞いていない事が致命傷になった。
報告する事は癖になるほど仕込む。厳しく仕込む。
それは、部下、子供を守るためだ。
適当に、いい加減でいいとしたら、部下も、子供も守れやしない。
パワハラなんて言うけれど、一人前になりたければ、優しさなんて求めるな。
厳しさこそ求めろ。
何はさておき、報告は聞いたか。報告を聞いたうえで考えよう。