報告書をなぜ書かせるのか。
何故、書くのか。
報告書の意義や目的を理解しないで、唯、意味もなく報告書を書かせ、或いは、書いている人を多く見受ける。
報告書は、ただ、やった事、出来事を書けばいいと言うわけではない。
誰が、どのような目的で書くかによって内容が違ってくる。
項目としては、経過、目的、問題点、改善点、反省点、対策、今後、どのような対応をするか。
そのような事を考えさせるのも報告書の働き。
報告書を誰に書かせるか。
この辺が鍵だからな。
マネージャーが自分で報告書を書くと手詰まりになって、後が続かなくなる。
報告書を書かせることで、使い道ができる。
報告書は次につなげる事が、目的の一つ。
報告は、一人だけとは限らない。
全員に書かせることもある。
日報、月報、年報も報告書にはちがいない。
報告書を誰に、どんな目的で、いつ、どのように書かせるか、また、書くのか。
伝えたい事が報告したい事、聞きたい事が、報告させたい事。
そのどちらでもない報告は意味がない。
伝えたい事は知っておいて欲しい事。聞きたい事は、知りたい事。
経営者が知りたいのは、経営の事。従業員が伝えたいのは生活の事。
報告は自分の考えを伝えるチャンスでもある。
報告書は日ごろ自分の考えている事や感じている事を正式に表明する絶好の手段である。
自分が何を伝えたいのか、何を問題としているのか、報告書にしてまとめる。
それも可能である。
誰が。
誰に書かせるか。
どのような目的で。
何時。どのタイミングで報告書を書き、誰に提出するのか。
誰に、提出させるのか。これは意外と重要だ。報告の相手である。
どの様に書くのか。書式に従って書くのか。自分で好きにしていいのか。
一定の書式が決まっている場合、報告を書く意義も明確になる事がある。
報告書にする事で、問題点や対策を立てる事が可能となる。
報告書を誰に書かせるか。
この辺が鍵だからな。
マネージャーが自分で報告書を書くと手詰まりになって、後が続かなくなる。
報告書を書かせることで、使い道ができる。
自分で自分に報告書を書いても埒が明かない。
先ず事態を正しく呑み込めない。
報告書にするから客観的に、冷静にみれる。
また、報告書を書かせる事で、抜け、漏れ、重複がないか確認できる。
他人が書いたものだから、冷静になれる。
特に、自分が当事者である場合などは、客観的になれずに、感情的にもなる。
一人では、頭の中が整理できない。
一人で仕事をしていたら報告はいらない。
報告書にするから、反省したり、原因を明らかにしたり、分析したり、対策を立てたり、解決策を立てたりする事ができる。
報告書を書く事は自分達の役割、仕事の引継ぎ、指示事項や、やるべき事、決まったことなどを整理することができる。
報告書を書かせる事で相手の考えを引き出したりすることもできる。
報告書は、データベースや、証拠、根拠にもなる。
報告書は、次の仕事の繋ぎともなり評価の根拠にもなる。
また、報告書がないと転回が難しい。
例えば、報告書をたたき台にして解決したり、組織化したりする事を可能にする。
報告書は複数の者が閲覧できる。
報告は、自分のためにする。
書かないと考えは整理できない。
なぜなら、考えそのものは主観的。自分の考えを自分の頭の中にとどめている限り、自分の考えを客観的に見ることはできない。クールに判断できない。
どうしてもこだわり、思い込みから逃れられない。
だから、一度、外に向かって投げ出す。
相手を探して自分の考えをぶつけ、そして、報告せよと投げ返させる。
自分の頭の中は、見る事ができない。
紙に書くことで、客観的にみる事ができるようになる。
目的に沿って報告書は作成される。つまり、目的によって報告書の書式は変わる。
企画を検討するための打ち合わせが目的なら、報告書は、基本計画書の形をとる。
もともと、報告そのものが、仕事の原型になる。
だから、どの様な目的で開かれた会議かその目的によって報告書の形式は変わる。
構想とか目的を考え始めたら際限がなくなるので工数が計算できなく。
書くという作業に置き換えることで作業時間を割り出す。
目的とは何ぞやと考え始めたり、議論を始めたら、際限がなくなり、きりがない。
そうではなく、どの様にして目的を決めるか、その作業を読むのである。
その時切り札になるのが成果物、文章や書類、その書式や項目である。
だから、予算なんかは、書類、帳票類の収集から着手することが多い。
目的と言った無形な事は、目に見える作業に置き換えて工数を計算する。
例えば、一回十分程度の打ち合わせを三回して、それを、所定の書式に書く出すのに十分程度という様に。
自分の頭の中は、自分も含め誰も見れない。
誰も見れないから、確認も、整理も、共有も、分析、検討もできない。だから、書き出す。
書き出して報告させる。
言われてもわからない。
書き出さなければいつまでも始まらない。
パソコンを見ているだけでは理解できない。
書けば見えるようになる。
実際に、やること(手順、段取り)を口に出して、言えればやる。言えなければやらない。できない。
だから、言わせる。書かせる。
言わせなければ、書かせなければ誤魔化される。
明後日のことを言うな、今、やることを言え。
報告は、報告で終わるわけではない。
なぜ、報告するのかを考える。
事情や考える説明する。
説明責任がある。それが報告である。
政策や戦略レベルの事は、トップの承認を受ける必要がある。
戦術レベルは、ライン長が決断できるようにしておく必要がある。
なぜなら、政策や戦略は統一性が求められ、戦術は、即時性が求められるから。
組織は常に一貫性が求められる。
だから、報告して、全体との整合性を絶えず確認することが求められる。
各部分が報告しなければ、全体は保てない。
打ち合わせ、会議には、インプット、アウトプットがあり。
インプットというのは、会議に対する報告を意味し。
アウトプットというのは、会議の結果についての報告を意味する。
そして、一つひとつの議題ごとにインプットとアウトプットがあり、それぞれ、表裏の関係になる。
インプットとアウトプットをつなげていくと筋が見えてくるが、それが、繋がらないようだと、組織は正常に機能してない事になる。
故に、仕事は、表裏、裏表、表裏と転ばしていく、回転させていく事なので。
企画書や提案書はインプット、議事録や、指示書はアウトぷうと。
役割分担表、組織図、作業リスト、日程表、予算等は、打ち合わせや会議を経過するごと成長し、発展していく。姿を変える。
TO DO表、作業リストなども段階や状況によってインプット、アウトプットにもなる。それは、打ち合わせや会議の目的や働きによる。
議題と結果、指示をつなぎ合わせていく事ができれば、おのずと、次にやるべきことがわかる。
怖いのはつながりもなく、脈略もなく、総てが、泡のような思い付きで仕事をしていること。
チームの目的は一つにしなければ、チームとしての統一性が保てない。
だからいかにして目的を一つにまとめ上げるか。その作業が重要なのである。
親父たちは、徴兵で軍隊生活を経験し、組織の規律をたたき込まれている。
だから、誰でも、組織の事に熟達していた。
今は、集団生活の経験もなく、規律や規則を毛嫌いしているから、組織的な基本が身についていない。
その結果、絶望的に社会が溶解し始めた。
情報は、還流しない限り、働かない。
流れない限り意味がない。
だから報告せよなので。
自分で自分に報告している限り、情報は還流もながれもしない。
自分の頭の中をくるくる回るだけで。
目が回る。本当に、めまいがしてくる。
話は、ぶつぶつ、独り言を言うだけでは誰にも伝わらない。
独り言では、自分だって意味が分からない。
自問自答しているだけでは、成長なんてしない。
一人では恋もできやしない。
とにかく相手を探さないとね。
だから、誰に報告させるかが大切なんだ。
それを考えろ。
なんで、部門に重点施策を作らせる。
重点施策なんて一人で考えた方が、早いし、効率もよく、まとまりがいいに決まっている。
なのになぜ、部門ごとに考えさせる。
だって、一人で考え、一人で結論を出していたら、情報は還流しないじゃあない。
じゃ支店や部門はどうだ。
支店長、部門長が一人で考えや結論を出しても、情報は、還流しない、流れない。
それは、一人よがり。自分で自分を慰めているだけ。
おお、厭だ。
だから、どうする、誰にやらせる、考えさせる。そこに実体がある。
あんな奴に考えさせたってなんていうのなら、絶対にうまくゆかない。
期待するなら、期待できる人にね。
あいつじゃ勝てないというピッチャーにに投げさせ続けるのは、最初から勝つ気がないと。
成功したければ成功できるようなセッティングを。
空に向かって指示しても、壁に話しかけてもむなしい結果しか得られない。
じゃ誰に、何をやらせる。
人と人をどうつなぐ。
だから、報告せよなんだ。
重点施策はこう決めたと一方的つたえるのではなくて。
重点施策を報告せよなんで。
「報告せよ」と指示された者は、さて誰に、報告をさせるかを考える。
報告させるという事は、裏に任せる事を意味する。
お前に任せる、その返りで、報告せよである。
だから、「報告せよ」と投げれば聞いてくる。
「重点施策はこうだ」と言えば、返ってこない。
みんな、黙って下を向く。
「意見はないのか」と聞くだけ野暮。
だって逆らえないから。
つまりは重点施策を誰にまとめさせようか。それを考える。
重点施策は、一つでなければならない。
なぜなら、重点施策は、チームの重点施策。チームは一つ。
独り占めはできない。
重点施策をまとめる事はチームワーク。
だから、担当を決めて、まとめさせる。
そして報告せよである。
何を知りたいか、何を知っておいてほしいか。
報告する事は無数にある。
報告せよというのは、自分が知りたいことを報告せよ。
報告の根源は気付き。何に気が付いた事は、誰かに、話したくなる。報告したくなる。
自分が何を知りたいのか、聞きたいのかが知らなければ、何を報告させたいのかわからない。
報告は、自分の力を誇示することが目的なのではない。
何が知りたいか、何を伝えたいか。
ならば、相手が知りたい事、聞きたいことが報告すること。
指示されたり、結論が出たら。
まず、伝える事を考える。
皆、簡単に考えすぎているから、さあよろうとした時、つまずく。
伝えるというのは想像以上に難しい。
伝えるためには、伝える場(朝礼、打ち合わせ、ミーティング、イベント等々)を設定する事。
伝えるための回路(チャンネル)を開く事。(指示命令系統)
伝えるための手段を明らかにする事。(口頭、文書、メール、プレゼ等々)
伝えるため、伝えるための体制、特に、足元の役割分担(日程、連絡、資料作成等々)を固める。
伝える相手、範囲を特定する。(相手や範囲を間違うと情報は、正しく伝わらない。)
伝える時を決める事。(伝達には、伝達する時がある。その時を外すと情報は陳腐化したり、ブレたりする。)
これらを定義するのが、要件定義。
要するに、情報を伝達すると言っても、単純ではない。これだけの要件を組み合わせて設計する必要がある。
自分にできなければ、できる人にやらせる。
自分がわからなければ、わかる人を探してくる。
自分はできても、手が出せない時がある。
自分は分かっていても、自分からいえない時もある。
だから、チームワークが求められるので。
報告をする側ばかりやっていたら、なぜ、何を報告させるのかが理解できない。
そうすると、自分が報告させる側に回った時、何を報告させていいかわからなくなる。
やがて、報告が形骸化する。
意味もなく報告させる。意味もわからず、報告させる。
早い時期に報告させる側を経験する。
そして、知りたい事、聞きたいことを報告させる事を覚える。
セミナーを受ける時、帰ったら誰に報告するかを想定したら、要点を絞ることができる。
肝心なのは、何が知りたいか、何を知らせたいか。
何か不始末があった。
その時もあいつが悪い、こいつの性だという前に。
報告せいなのである。
開き直って、報告もせず、「えろう悪うございました」と開き直られたら、かえって始末が悪い。
先ず事態、事情を正しくとらえ、クールに原因を分析し、解決策を講じようと思ったら。
報告せよである。
そして誰に報告させるか。
当事者に報告させるか。
第三者に報告させるか。
報告されたら、誤魔化せなくなる。
だから、情報を自分のところで握りつぶす。
情報が還流しない、流れない。
それで自分のミスも、不正も、情報が伝わらない。
それは、組織にとって深刻な病となる。
「報告できない事はするな」とも。
先輩たちは、「報告をできない仕事でなく。報告したいと思う仕事をしろ」ともね。
零点では、報告できないだろう。満点なら報告したくなる。
そして最後に「胸を張って報告しに来い」と送り出してくれた。
報告をせよ。