二十代、三十代の人にね、これだけは言っておきたいのだけれど。
君たちはね。これから、五十年も六十年もね、自分の力で生きていかなければならない。
それは、確かなこと。
今、始まったばかり。これからさ。
だから、生きていくために必要な知識や術を今、身に付けないと。
この先、何をやったらいいか、どうしたらいいか、見当もつかない。
今は、何を言っているのだろうとわからないかもしれない。
基本だよ。基本。
俺達だって、二十代、三十代の頃はわからなかった。
やっとこの歳になってわかりかけてきた。
でもね。
若いころにはわからないんだよ。
何を当たり前なことをと。
最後まで、確認したか。
記録を取っておけよ。
ちゃんとしまったか。
メモしたか。
後片付けしたか。
明日の用意はできてる。準備はした。
ちゃんと報告しろよ。
話をちゃんと聞けなんて。
それこそ、うざい。
そんなことどうでもいいでしょって。
いちいち、うるさいな。
面倒くさい。
言われなくても分かっているよ。
くどいよ。
今やろうと思てたんだ。
反抗しようが、反発しようが、母親が口やかましく注意するのは、注意しないとできないからで。
できなければ、困るのは、子供だから。
だから、母親は注意する。嫌われようが、いやがろうが。
母親だから。
本当のことを言う人は嫌われる。
なぜなら、本当のことだから。
多くの人は、本当のことを知りたくない。
しかし、本当のことを知らないと、いつまでも迷いから救われない。
五十、六十になってもまだやり直せると、本気で思っている人間がいる。
確かに、七十過ぎても、矍鑠(かくしゃく)として新しいことに挑もうとする人もいる。
でも、そういう人ほど基礎がしっかりしている。
何の基礎もできていない人が新しい事に挑戦するなんてできない。
ジャニー喜多川のように、ハイ十七を越え、死んでから、悪行が責められる人間もいる。
松本のように十年以上も前の悪業で干されるものもいる。
若いころに怠慢は、歳をとってから現れる。
若気に至り甘く考えていたら、人生の晩年に暴かれることもある。
だから、若い日の一日一日が大切なんだ。
年をとってできなくなるというのは、できなくなると言う事で、できなくなってはじめて気がつくし。
できる時は、できない事がわからない。
できなくなって、初めて、それまで、できていたことの一部が失われたことに気が付く。
それは衝撃的な事なのだ。
気がついいた時はどうしようもない。
できたはず、できるはずと思ったところで、できない事はできない。
否応なく認めさせられる。
それが衰えるという事。
同様に、できる人には、できない人がわからない。
自分が何気にできる事が、できない人を見ても、できない理由がわからない。
なぜなら自分は、簡単にできるから。
だから、できないことが理解できない。
できない理由にはいろいろあって、能力がなくて、勉強してないから、知らないから、資格がないから、金が無いから、時間がないから、経験してないから、取り扱い方がわからないから、助けてくれる人がいないからできないなんてね。
できる人にとってできない理由なんて言い訳に過ぎない。
若い頃なら、できないことがあっても、努力すればできるようになれる希望があるけれど。
歳をとってできなくなる事の多くは、希望が持てない。本当にできなくなる事。
できるうちにやらないと、何もしないうちに、気が付くとできなくなってしまうという事。
特に基本的な事は、若いうちに身に着けないと。
年を取ってから気が付いても遅い。
やればできるなんて過信すると、やる時がなくなる。
思い立った時が吉日と。
やってきたから、できるようになったので。結局、結果論でしかない。
やらなければ、いつまでたってもできない。
口でいただけでは、伝わらないよ。
書かせないと。
書かせればわかるよ。
どれくらい理解しているか。
できるからやったのではなくて。
できないなんて言ってられないから。
やるしかなかったんで。
やっているうちにできるようになったというのが本当のところ。
やらなければならない事だからやった。
できないなんて言ってられなかった。
これまでやってこれたんだから、これからもやれるさなんて淡い期待に過ぎない。幻想さ。
できなくなってから慌ても手遅れなんだ。
なんとかしてきたから、なんとかやってこれたというのが本当のところさ。
振り返ってみると、恥ずかしくて、顔が赤くなる。
なんとかならなかったらそこで終わっていたというだけ。
冷や汗が出る。
生きていけないから、やるので。
できるとか、できないなんて言ってられなかった。
やらなければ生きていけないのだから。
生活かかっているんだよ。
自転車くらいの部品数なら、
ロケットの部品は百万あるというから、とても一人ではできないから。
仕事も同じ。
切符を買いに行く程度の仕事なら、やる事すべてわかるかもしれないが、旅行を企画するとなるとそうはいかない。
事業計画や、投資計画、予算の立案なんて、簡単ではない。
だからスケールの大きい仕事をしようとしたら一人では手が足りなくなる。
そうなると、やる事すべてを読みきれない。
基本的な部品は誰にでも、わかる事、できる事。
その部品を組み立てて、仕事を組み上げていく。
だから、基本は、だれにでもできる簡単なこと。
勘違いしないことですよ。
我々は、最初から完成度の高い人材を採用しているわけではない。
むしろ、完成度の低いけれど、優れた素材をもった人材を採用している。
先輩たちが言ってました。
「勘違いするなよ。右も左もわからない。世間知らずで、社会常識もない。礼儀作法も、口のきき方もわからない。基本が何もできてない。躾されていない。そういう人間を一人前の社会人として育てる。
転職して、前の会社はそんなことも指導してないのかと言われないように。
基本を身につかせるのは、企業の社会的使命の一つ」と。
最初は、基本から叩き込まれたのですが、今は、人手不足とか、少子高齢化とかで、ちやほやし。
でも学校教育は、ゆとりとか、ゼット世代と、基本的なしつけは禁止され。
教える側にも問題はありますが、教わる側にも問題がある。
教えるのも、教わるのも面倒くさい。
だから、結婚したくないという人が増える。
要するに、人育てるのは面倒だと。
確かに、自分が若いころは、基本を学ぶのが、苦手で嫌で。
逃げ回っていた記憶があり。
でも、先輩たちは口をそろえて基本、基本と。
基本が大切、基本を学ぶのは今しかないと、基本ができてないと年を取ってから恥をかくよと。
確かに、歳をとって気が付いた。
社会に出たら、一、二年しか基本は学べないと言われたものだが、今はそれこそ定年間際でも基本をわきまえていない人間がいる。
基本は、あくまでも、社会人としての常識の属部類、だから、ベテラン社員が全員で行う。OJTが原則。
勘違いしないように、基本を指導することや、指示・命令すること、指示、命令に従わない時に注意する事は、パワハラとは全く違う。
パワハラとは、道理に合わない事、理不尽な理由で、指示、命令を強要した時にこそ問われるので、それこそ人格的な問題。
逆に言えば常識がない、ルール通りに指示が出せないからで。
審判が、ルールに従ってレッドカードだしたからと言ってパワハラとはされない。
ただ、選手に向かって人格を否定するような暴言を吐いたら、パワハラで、それは、常識を超えているから。
逆に言えば、きちんと指示命令を出さずに、放置しているのは、一種のネグレクトとみなされ、パワハラとみなされてもおかしくない。
とにかく、基本ができていないという事が大前提なので、求めているのは可能性。
名馬は、本来荒馬と言われる。
いかに、育てるかが問われているので、最初から完成度など求めていない。
こんな簡単なこともと思うのは、基本ができていないので、できないのが当たり前と思えば、腹も立つまい。
ドアの開け閉めのような、一見どうでもいいようなこと。
しかし、一見、どうでもいいような事が、いざという時、わからなかったり、出来ないと困る。
人に聞くのも恥ずかしい。
だいたい、どうやって、誰に聞いたらいいのか(これも基本だから)すら、わからない。
だから、歳をとってもできないと馬鹿にされる。
基本的の事ほど、歳をとると学ぶことが難しくなる。
誰でもできるようになっているから。
どっちも楽なんだよ。
教わる側も、教える側も、基本ができてないという前提に立てばね。
人は、皆、違うからね。
同じ年でも、よく基本ができている人もいれば、全然、わかっていない人もいる。
経験も違うし、呑み込みも違う。
一番、鬱陶しい、やりにくいのは、一々、「それ知っています」とか、「さっき教わりました」とか、「やりました」と言ってくる人ね。
教える側にしてみれば、一通り、最初から、教えたほうが早いんだから。
整理もつけやすいし、順番もある。
教わる側も、おさらいの気持ちで受ければいい。
郷に入れば郷に入れで、同じことでも、流儀が違えばかえってややこしいことになる。
最初から通しで一通りやった方が身につく。
それで教えられたのが、高級料亭と大衆食堂の違い。
高級料亭では、新人は、何も知らないという前提で戸の開け閉め、立居振舞から指導咲いたうえで叱る。それだから素直に従う。それに対して、大衆食堂では、基本ぐらいできているだろうといきなり客先に出し、どんぶりに指を入れたと叱っても、意味が分からないから怒り出すと。
基本を教えずに、基本ができていないと叱るのは、考えようによってはパワハラになる。
教える側も、教わる側も。何もわかっていないという前提で始めたほうが効率がいい。
高級料亭でも、なまじ、他の料亭を経験している仲居のほうが面倒くさい。
仕事や組織は、仕組だという事を忘れてはならない。
まず、仕事や組織の仕組みを理解する。
仕事や組織の仕組みは、極めて、単純、明快、誰にでもできて、誰にでもわかる、当たり前な事を組み立てることでできている。
つまり、仕事や組織の部品は。単純明快、誰にでもできる、誰でもわかる、当たり前なこと。
例えば。システムは、INPUT(入力)、OUTPUT(出力)。プログラムの基本、直列、分岐、反復の三つの要素からなるという具合。
基本は、極めて単純な事の繰り返しだから、最初のうちは退屈で、根気がいる。
だから、習熟するまで忍耐する必要がある。
飲み込んでしまえば、なんでもない当たり前なことになる。
車の運転やスポーツのように無意識に体が動くようになる。
スポーツでは、いつまでも基本練習が主となる。
基本は単純化なのよ。
天才にしかできないような事を単純化し、凡人にもできるようにしたから、ロケットを正確に飛ばすことができるようになった。
物理を勉強した時、教えられたのは、科学者は複雑の出来事を単純にする。
科学を知らない者は、単純なことを複雑にする。
仕事もしかり。
いかに複雑なことを単純にして、みんなにわかるようにするか。
データ分析も複雑にするからわからなくなるので、情報を必要としている日知に、必要としている情報を、相手が望む形にして提供する事で。
数表というのは、基本的に生データで、ユーザー、例えば、社長が知りたいことを社長が扱いやすい、望む形で提供するのが、スタッフの仕事。
図形化してとか、簡単にその場で試算して表にできるようにしてといわれたら。
提供する際の画面を、想定、イメージして、OUTPUTを設計することから作業に着手するのが常道。
数表からピンポイントで問題点を導き出せというのはユーザーにかなりの負担を強いることになる。
だから、ユーザーは自分が欲しい情報を言ってどのような形で提供してほしいかを言えばいい。
それ(注文)を聞いて料理するのは、スタッフの仕事。
基本は、単純明快、習得してしまえば、当たり前にできるようになる。無意識でも処理できるようになる。
ただ、身につくまでは、繰り返さなければならない。
これがつらい。苦しい。
習得したら、できるのが当たり前だから、できなかったり、わからないと、恥ずかしい。
大概の人は、半年もたたないうちにできるようになるから、できないと置いて行かれる。
だから、若いうちだよと。
基本、家庭のしつけとまで言われる。
仕事には相手がいる。
これもいつも言われた。
相手がいるのだから、相手に合わせる。
自分勝手は許されない。
だから、仕事には期日があり、仕様がある。
これは一人では決められない。
書式から自分で考える事だよ。
書式は、ベースになるから。
特に、ユーザーインターファイス。つまり、相手に成果を提供するための書式ね。
入口と出口の形になるから、書式の形というのは意外と大切なんだ。
出来合いの書式を使っていると書式を作った人の枠組みにとらわれる。
ユーザー、つまり、情報の提供先、相手の要求、ニーズに基づいて、まず、どのような仕様によるアウトプット、ユーザーインターフェイスにするかを設計し。
そのユーザーインターフェイスを構築するための工程表を作る。
その際、ユーザーインターフェイスを構成する個々のバーツををどのように組み立てるかが鍵となる。
書類をワークシートというのは、書類上で仕事をするからで。
書類を働かせる。
いわゆるゲーム化だよね。図上演習。
書類を画面に置き換えると。
中枢の意思統一がされてくると、中枢幹部とトップの考え方、行動規範が統一されてくる。
トップと幹部は、示し合わさなくても言っていることや指示することが統一されてくる。
そこまで行くと、次に、担当レベルの意思統一が図られるようになる。
そうするといよいよ、組織が動き出すのである。
組織が動き出したら、全体の統制と規律が求められる。
動く時は一斉に動き出す。
だから、それまでに、基本的な事はすべて習得しておく必要がある。
だから、基本を習得しておく必要がある。
野球の試合がしたければ、基本的なルールは、選手全員が習得しておくことが求められる。
一人でも、ルールが理解できないものが混ざれば、試合は成り立たなくなる。
基本とはそういう事である。
野球のルールなんて子供でも覚えられる。
でも、五十、六十でも野球のルールがわからない人は存在する。「信じられない」ではなく。
仕事の基本は、生産活動であり、何かを作るということに足る。
何かは、有形である場合も、無形である場合もある。
有形、無形、どちらでもいい。
とにかく生産する、作る事である。
だから、基本的に仕事は即物的なのである。
物に置き換えて考える。物につなげて考える。
つまり、書類の作成や、文書の作成を介して仕事にする。
基本計画書の作成を介して基本計画をする。
記録を残しておけば、仕事や組織を再構築するのはさほど難しくない。
仕事の履歴があれば再現できるから、また、追跡もできる。
だから、書類や文書が基本となる。
面倒くさいと記録を残していなかったり、ずさんだと、問題が起きた時、再現することも追跡する事もできなくなる。また、引き継ぐこともできない。
始末が悪いのは気が付いた時は手遅れになっていることが多いこと。
なぜなら、問題が起きて、気が付くからである。
会社も、建物と同じように老朽化する。
老朽化すると、あちこちに機能不全な箇所が発生する。
特に、組織は、成長に従って、増殖したり、拡大する部分がある。建物で言う増改築である。
また、創業期や成長期、特有の場所もあり、このような部位は、成長が止まったり、縮小期には、無用な長物になる。トンネル掘る時の先進坑の様に。
成長期には、会社の基盤となる部分の制度や仕組みを土台から組織的に構築する。
そのために制度や仕組みの本来の目的や設計思想を全員が共有していたが、組織が、成熟してくる運用に重点が移り、やがて、老朽化してくると制度や仕組みが形骸化して、本来の目的や働きが往々に、失われてしまう。
根本の目的や思想がわからくなるから、制度や仕組みが形骸化したら、組織を再編成するのが難しくなる。
元の目的や考え方がわからなくなるからである。
「何が食べたいんですか」と聞かれたとき、「茶色くてドロドロしていて辛い」のなんてもって回った言い方しないで、カレーならカレーと言えばいいので。
言われた側は、カレーを出せばいいので、ラーメンを出せば怒るでしょ。
客がカレーといったのに「言いなりになるのが嫌だ」とラーメンを出す店はないし。
客が、カレーを注文した時、ウェイターがカレーと厨房に伝えるのは悪いこと。
当たり前だと思うけどね。
なんか勘違いしていると思うね。
カレーが食べたければ、カレーと注文すればいいので、ウエイターは、厨房にカレーと伝えればいい。
料理人はカレーを作ればいいの。
その上で希望があれば聞けばいい。
それが仕事という事で、議論の余地はない。
別に強要しているわけでもないし、理不尽なこと言っているわけでもない。
逆に、カレーを注文したのにラーメンを出すほうがどうかしている。
カレーの注文を受けた後、カレーを調理するのは、料理人の仕事だし。
料理人が客にレシピまで要求するのはおかしい。
逆に、客が料理までするのも、厨房に入って、料理人に指図するのもおかしい。
カレーを注文した後、どのようなカレーにするかは料理人が決めること。
むろん、客の要望を聞くのは悪くはないけど。
ただ、カレーの注文を受けた後で、実は、わたしカレーをつくったことないんですと料理人が言えば、それはまた、違う次元の話になるけどね。
これみんな基本的な事。