基本は簡単な事である。
基本は、誰にでもわかる事でなければ意味がないから。
それこそ読み書きができるならだれでもできる事。
だから、基本を、多くの人は馬鹿にする。
馬鹿にしているから、身につかない。
基本が身につかないうちに歳をとる。
誰でも、わからないと、できないと困る事。
だから簡単。簡単だから大事。
大事だから簡単。
簡単だけど大事。それが基本で。
子供の頃に身に着けないと大変。
馬鹿にしているうちに、馬鹿にされるようになる。
例えば、紙に書く。
子供の頃から、親父からとにかく「紙に書け」と言われた。
何を言ってるのだろうと、馬鹿にしたり、反発もした。
でも、子供の頃の記憶はどんなに酔っぱらって帰ってきても、疲れて帰ってきても、ネクタイも解かずに机に向かってその日に書いたメモを、カレンダーや、手帳に整理していた姿が思い浮かぶ。
メモを整理するまで、シャッキとしていたのが、メモつけ終わると緩める。
紙に書くことに比べて、暗記する事のほうがずっと難しい。
ところが、仕事のできない人の限って、暗記しようとする。
紙に書かずに覚えようとする。
記憶を頼りに仕事をしているから、仕事ができない。
記憶に頼れば、確認ができなくなる。
人それぞれ記憶していることが違う。
同じ情報を共有できない、確認できない。
紙に書いてあれば、情報を交換できる。記録を手渡せばいいのだから。
記憶は薄れて曖昧になる、
学校では紙に書くな覚えろとしえる。
だから、試験の前はみんな暗記する。
すごい奴は辞書を丸ごと暗記する。
しかし、職場では、調べればいい事は覚えなくていいと教えられる。
今日、パソコンが発達しているのに暗記など無駄。
それより、パソコンを使ってい調べる事を覚えろ。
暗記するだけ労力の無駄、調べればわかる事いちいち覚えてどうする。
暗記はするな、資料を作れが職場。
資料を見るな暗記しろが、学校。
だから、学校教育に侵された会議は憶測、推測に支配される。
会議中は押し黙って聞いているだけ。
学校では授業中、試験中はしゃべるなだが、職場ではしゃべれである。
当たり前に、学校の落ちこぼれのほうが、社会への適応力は高い。
紙には実体がある。
記憶には実体がない。
記録は確かだが。
記憶は不確かだ。
記憶力は人によって違う。
基本は、万人に通用する事でなければいかない。
記憶に頼るから調べないで知ったかぶりする。
要は記憶するくらいなら調べ方を学べで。
会議で、記憶に頼って話そうとするから黙る。
記憶を頼らなければ、資料を作って、調べなければならない。
会議を、職場の試験場だとすれば、職場の会議は記憶を頼るな、だから資料を持って来い。
言い換えれば堂々とカンニングしろです。
学校の試験は、記憶だけを頼れ。
紙に書く。
それも言われたことを言われたとおり書けばいい。
英語に翻訳したり、難しい用語に置き換える必要はない。
日本語がわかって、字が書ければいい。わからなければ漢字を使う必要もない。
それができない。
それをしない。
意地でもしない。
意地になってしない。
だから、基本が身につかない。
紙に書いて「直後に確認しろ」も基本。
これも簡単。
でも、紙に書いていなければ、直後に確認もしない。
確認できない。
なぜなら、紙に書いていないから、仕様がない。
しょうがない。
言われたままに書く。言葉を言い換えたり、書き換えたりしない。
「復唱」って親父はいつも言っていた。
これも学校では。逆の事を教える。
自分の言葉で云え。これは許せる。
ただ、自分の言葉にするを言い換えろと教える。
この教えの弊害は深刻。
言われたことを言われたままに再現するというのは難しい。
言葉を変えて、いい加減に答えたほうが楽だ。
だから、ことごとく言い換える人間が出てくる。
打ち合わせというとミーティング、右というとライト、こうなると、話が正しく伝わるはずがない。
こういう人はちょとちょと変えてくる。
人の話を聞けと注意しても、自分は聞いていると思い込んでいるから、改めようとしない。
客からの注文、指示された事、決められた事を、一言一句、間違いなく、正確に再現する。
注文を勝手に変える事は許されない。
カルビをロースと言ったり、一皿を二皿と変えたり、レアを、ミデアムと言い換える事は許されない。
客を待たせていれば、そのうち忘れるだろうとか、忘れた頃に、適当に持っていけばいいなんて論外なので。指示も、決められた事も同じ。
「目的を明らかにしなさい」と指示されたのに、対策を報告したり。
「目標を改めなさい」と指示されているのに細目を変えてきたり。
「日を変えろ」と言われたのに、場所を変えたり。
「顔合わせをいつする」と言っているのに、反省会の話をする。
「桜を買って来い」と指示されたのにヤマモモを買ってきたりすることは許されない。
ところが、言い換えろと思い込んでいる人はことごとく言い換えなければいけないと思い込んでいる。
そうなるとはじめからやり直さなければならなくなる。
ところが、「やり直せ」と言っている傍から、その都度、言い換えられたら絶望的状態になる。
だから、注文を受けた直後、指示された直後に記録をとって確認する習慣を身に着ける。
注文されたものを出せばいい。
指示された事、言われたこと、決められた事をやればいいだけなのに、違う事をやるから怒られるので。
違う事をやっていると言われているのに、頑強に、言われた通りの事をやっていると言い張る。
しかも記録も取っていない。
こうなると手に負えなくなる。
基本は簡単な事だけどやらないと身につかない。
面倒くさいとか、馬鹿にするなとやらない。
やらないから、身につかない。
身につかないから、重要性に気が付かない。
それでいつまでたっても、基本ができない。
その悪巡回に落ちいている。
自分も、子供の頃、うるさいな、鬱陶しな、面倒だなと反発したけど、父は厳しかった。
そのほかの事で、細かくは言わなかったが、基本的な事は厳しく躾けた。
例えば、約束は守れ。
自分の事は、自分で決めろ。
自分で決めたことは自分で最後までやれ。
途中で投げ出すな。
お天道様の下を歩けなくなるようなことはするな。
弱い者いじめはするな。
汚い事はするな。
縁は大切にしろ。
恩を忘れるな。
逃げるな等など。
お前は男なんだぞと。
今のセクハラみたいな事ではなく。
男は、家族を養い、弱者を守る、国を護る責務がある。
女子供を守るのは男の務めみたいな。
その責任感、使命感がなければ、男じゃないという意味で。
これをなくしたら。男の存在価値などなくなってしまう。
意気地なしとか、臆病者は、男の恥と。
要は、男尊女卑という事ではなく。
男の矜持という事で。
男尊女卑を否定するついでに男の責任まで葬り去った。
基本は誰にでもできる簡単な事。
簡単だからやらない。
記憶に頼ると、言った、言わないの議論になる。
言った側も、聞いた側も、記憶は変わる。
どちらの言い分が正しいか検証のしようがなくなる。
どちらも、自分の記憶が正しいと言い張る。
どちらも、自分の記憶が正しいと思っている。
だから、妥協の余地はない。
言った側も、聞いた側も記憶に頼ったら、両サイド、間違いを犯す。
どちらの記憶も変わるからである。
記憶は曖昧であり、変化し、変質し、やがて忘れられる。
記憶ほど不確かなことはない。
未来はこれから起きるのだから検証のしようがあるが。
過去は、過ぎ去ったことだから検証のしようがない。
記憶は過去をたどる事。
だから、不確かな事。
担当を決めればいいと言うのではない。
担当一人では何もできない。
ちょっと考えれば、わかる事。
しかし、そんな道理も分からない。
ちょっと考えないから。
計画を立てても、実行しなければ、絵に描いた餅になる。
どんなに精緻に予算を作っても予実績管理をしなければ、予算の効用はない。
実行に移す事は、計画を壊していく事を意味する。
なぜなら、環境、状況は、絶え間なく変化するからである。
現場合わせしなければならない。
予算も予算通りにいったためしはない。
自動車で家族旅行することになって、皆が自動車に乗り込んだのにいつまでたってもエンジンをかけない。
エンジンのかけ方がわからないようなこと。
あるいは、計画は立てたけど、旅館やホテルに電話がかけられないようなもの。
実行するためには、エンジンをかけないと。
車を動かした事のない者は、エンジンをかけた瞬間、動転したり、慌てる。
毎日運転している人間にとって、エンジンをかけただけで動転する人も気持ちは分からない。
組織も、計画も然り。
組織を起動したら動転してどうしていいかわからなくなって、アクセルとブレーキを踏み間違う者が出てくる。
しかし、自動車と違って、組織だって計画だって、何もわからなくても、動かせると思っている人が多い。
組織の動かし方を教えようとしても、馬鹿にするなと怒り出す。
面倒くさいといい加減に聞く。
それで、ガソリンを入れずに。車を運しようとする。
運転しようとしてはじめて、車はガソリンで動くこと気が付くような事。
自動車なら、そんな馬鹿なというが、組織に対しては、そんな馬鹿なことを往々にしている。
計画を立てたら、計画通り実現できると思っている。
予算を立てたら、目的を達成したと。
予算が赤字になったら青くなってなにもしない。
予算は予算。
予算が赤字になった、赤字にならないように実行すればいい。
旅行計画だけ立てたところで、旅行が実際にできるわけではない。
旅行を実行するためには、切符を手配したり、ホテルを予約しなければならい。
ホテルに予約するためには、ホテルに電話をするなり、ホームページにアクセスしなければならない。
さあその段になると、みんな、腰が引ける。おじけづく。
ああだ、こうだ、言って他人に押し付けようとする。
電話をかけたり、ホームページにアクセスするなんてやってみればどうということない。
馴れてしまえば、なんてことない。
でも最初は面倒で、煩わしい。
それで、他人任せにしていたらいつまでたってもできない。
基本というのはそういう事、馴れるしかない。
嫌がっていたら、面倒くさがっていたら、いつまでも身につかず、しまいには、できなくなる。
基本的な事は、できる人にはできるのが当たり前で、できない理由がわからない。
しかし、できない人はできないで、できない理由なんかわからない。
できない理由は考えればいくらでも考えつくが、考えついてもできないことに変わりがなければ意味がない。
挨拶のできる人は、挨拶ができるのが当たり前だけど。
挨拶ができない人はいる。
挨拶ができない人の多くは、挨拶ができない理由は分からない。
ただできないのである。
挨拶のできる人から見ると挨拶がされないと馬鹿にされたと感じる。
挨拶をしない人に悪意はない。
ただ挨拶ができないのである。
挨拶一つできずに年をとったらそれだけ世間を狭くする。
だから、早いうちに、できれば子供の頃に、挨拶が、できるようになった方、世話はないのである。
指揮官は決断して、指揮する。
これも基本。
指揮官は指揮をする。
この点を間違わないように。
指揮官は決断し、指示をする。
決断もせず、指示もしない指揮官は、指揮官としては失格である。
決めもせず、指示もしない指揮官は、組織を危機的な状態に追い込む。
極端な話。
何にも考えなくてもいい。
決断し、指示ができれば。
むろん考えなしに、決断は危ういと言われるかも。
それでも、決断もせず、指示もしない指揮官より、ずいぶんとましである。
なぜなら、窮地にあって、決断も指示もされない状況に置かれたらどれほど怖いか。
間違っていても決断し、指示された方がいい。
大体、考えなしなんてことは、まずない。
ただ、上手く伝えられないとか、整理できないとか、自覚していないとか。
何の考えもないという事はない。
紙に書かせてみればわかる。
無意識に、やる手順を書き出す。
組織では、みんな自分の役割を演じるんだと教えられた。
だから、役割分担が決まったら、役者がそろったと言われた。
指揮官は、指揮官の役割を演じ。
補佐官は補佐官の役割を演じ、担当者は自分の役を演じる。
学校の先生は先生という役を、野球の監督は、監督という役を。
裁判官は、裁判官を、検事は検事の役を、弁護士は弁護士の役を演じる。
要は、組織は、人の集団だから、見せるという事が重要な働きをする。
そのことが理解されないと、会議だの、式典だの、セレモニー、イベントの意義が理解できない。
見せる事は、言葉や文章より多くの情報を一遍に伝達できる。
だから、指揮官は、みんなの見ている前で、声を出して、指揮を執る。
これも基本。
声を出してというと当たり前じゃあないかと言われる。
だも、いざとなると声が出ない。
「ああ、それでいいよ。」
その一言が言えるかどうか。
それで決まる。
他愛無い事と感じるかもしれないが、「それでいいよ」と声に出して言えるかどうかで、まったく違ってしまう。
いいと思ったら声に出して「いいよ」と言う。
たったそれだけ。
それで決まる。
言わないと決まらない。
言えば、腹が据わる。
それが親分というものだ。
言わなければ、部下は、決まっていないと思う。
あるいは勝手にやれと。
それでは、自分も、部下も覚悟ができない。腹が据わらない。
無責任だ。
リードできない。
「いいよ」と言わずに、黙っていたり、話を変えたり、そらしたりしたら、相手は、聞いていない、無視された、否決されたととらえる。
だから、自分はいいと、それでやれと思ったところで、思った時に、声に出して「いいよ」と言わないと、決まったとは誰も思わない。
組織では、「察せよ」は通用しない。
なぜなら、組織では決定には責任が伴うから。
忖度なんて卑劣だ。
自分の許しなく、黙ってやったというなら、毅然と自分の手で罰する。
それが、人の上に立つ者の覚悟だ。
だから、「いいよ」といえなければ、責任者にはなれない。
自分は、いいと思った、決めたつもりでいても、声に出して「いいよ」と言えなければ、決まらない。
それが指導者。
だから、みんなの見ている前で、みんなに聞こえるように、大きい声で、しっかりと「いいよ」という。
そうすると、相手はハッとする。
それ以上言おうとすると「くどい。断は下った。それ以上何も言うな。」と叱責された。
それが、サムライ。
たとえ、失敗したら、全財産を失うとわかっていても、命にかかわるとしても、何事もないように、平静に声に出して言うのを平常心という。
穏やかに、日常品を買う時のように、「いいよ」という。
たとえ、それが生死を分かつような事でも。
それで決まり。
うんともすんとも言わないで、大金をかけて全財産を失うような馬鹿なことをするな。
やるならやると、「それでいい」と己に声をかけて決める。
それが、責任あるものの覚悟。
たとえ、部下の考えた事でも、「それでいい」と答えた瞬間、責任は我にある。
だから、部下の話や提案を聞く時、姿勢を正し、呼吸を整え、「ああ、それでいいよ」と言えるようにしろと躾けられた。
「いいよ」と言えば、それで決まり。それで覚悟する。腹を据える。
それは、気合。
常に、指導者は部下と勝負する。
それが、日本の武士(もののふ)だと。
なぜ、指導力が発揮できないのか、何も決められないのか。
「それでいいよ」と言えないからだとしたら。
でも、省みてごらん。
声を出して「それでいいよ」といいましたか。
簡単で、他愛無い事さ。
でもその一言を声に出して言えるかどうかで、総てが違ってしまう。
一言で決まる。
それを忘れないように。
だから、常に、真剣勝負。