国家とは何か。
敗戦によって日本人は、この根本的問いを放棄しているように思う。
多くの日本人は、自分が、日本人である事に何の疑念も持たず、また、日本人である事を、日常生活の中で意識する事も、自覚する事もないであろう。
確かに、日本人である事を意識しなくても、日常生活を送るうえでは、何の支障はないであろう。
日本人の多くは、国粋主義と、民族主義の区別もつかない。
それは、国民と民族の違いがわからないからである。
国粋主義と民族主義を、ごちゃまぜにして語っている。
しかし、それでは、この国の将来を考える時、また、この国をよくしたいと志した時、土台からわからない事になる。
若者が、自分が、将来に向けて何をすべきかを考える時の、基本的な前提が思い描けない事になる。
これから、この国を担う若者たちが、国家について正しい知識がなければ、志や夢を描こうとしても、描きようがない。希望なんて持ちようがない。国家は悪ではない。
夢を持っても、現実性も、実現性も、可能性もないからである。
若者たちにとって、国の未来に期待できなければ、自分の将来は、混沌とした闇でしかない。
国家とは何か、国家の大本は何か。
国家を確定する要素は、なにか。
国家を確定する要素には、国民、民族、人種、宗教、言語、価値観、思想、法、契約、領土、歴史等がある。問題は、何を中心、根幹にするかである。何を根幹にするかによって国家像は全く違ったものになる。
日本は、国民国家である。
しかし、国民国家の意味を果たしてどれくらいの日本人が正しく理解していると言えるだろうか。
日本に住む日本人の多くは、自分が日本人である事に何の疑念も持っていない。
しかし、日本人とは何かを問われた時に、まともに答えられるものは少ない。
日本は国民国家である、まず、そこから理解する必要がある。
国民国家は、国民によって作られた国家である。
つまり、国民と国家の二つの概念によって構成されている。
国民国家とは、国民の意志によって築かれる国家。
国民とは、自分はこの国の民だと自覚した者、覚醒した者が出現した時、生じる。
それが国民の意識であり。国民の意識が意志に転じた時から、国民国家への道は開かれる。
つまり、国民国家の礎は、国民の意志である。
国民国家が、国民の意志の基づくなら。自ずと自分たちの力で守ろうとする。
自国の独立と主権、自由を自分たちで守ろうとせず、他国の力に依存する事は、他国に隷属する事を意味する。誰も守ろうとしない国は、守り切れない。
なぜなら、国民国家は、国民の意志によって作られた国だからである。
自分の意志で築いた国を自分の力で守ろうとしなければ、その段階で国の主体性、つまり、主権と独立は失われる。
それが、国民国家の主権と独立の意味である。
国家、国民が守るべきものを失ったら、国民国家の存在意義など失せてしまう。
国民国家はいつ成立したか。
日本人は、はるか昔から、日本という国が存在し、日本人は、平安時代の昔から日本人だったと思い込んでいる。
しかし、国民国家が成立したのはそれほど昔ではない。
世界的に見ても国民国家が生まれたのは、ヨーロッパで17世紀イギリスの市民革命、18世紀のフランス革命が嚆矢とされる。
日本では、明治維新によって、大日本帝国という国民国家が誕生した。
すなわち、日本人が、日本という国、自分が日本国の国民だと意識したのは、明治維新以後である。
それまでは、徳川家、島津家、毛利家、松平家という家、藩はあっても一つの国という意識はなかった。
明治維新によって日本国民は生まれ、日本という国民国家が誕生した。
そこから、私と公の概念も生じた。
江戸時代、武士は、徳川家、島津家、毛利家、浅野家と言った主家のために戦った。
つまり、家を守るために戦ったのである。
それに対し、明治維新以後は、国を守るために戦うようになる。
だから、農民も町民も戦ったのである。
明治維新以後、日本が国民国家になった証拠である。
西南戦争の意義は、平民が武士階級を破った事にある。
西南戦争を境に平民は国民となったのである。
国家を物理的に画定するのは、国境である。
国家が存在しなければ国境も存在しない。
要するに私的権力の勢力範囲である。
俗に言う、テリトリーである。
国境は国という概念が国際的に認められて、はじめて成立する。
今日、国境は、国家の物理的範囲(領土)を画定する。
では、国境はどのようにして決められたのか。
決められるのか。
いつ、世界中が国境によって区切られたのか。
また、どのようにして国境が決められたのか。
これも、それほど古い話ではない。
大体、国民国家が成立する以前には、国家、国民とは何かすら判然としなかった。
第二次世界大戦が終了した時点では、日本も国境が画定していない。
この一事をもってしても、国境というのは絶対的ではなく。
歴史的に決まるわけでもない。
その時、その時の国家間の力関係によって決まる。
理屈はほとんどが後付けである。
四方を海で囲まれた我が国は、国境を意識する事が少ない。
しかし、陸続きの国にとって、国境は、常に、流動的である。
川の対岸なのか、中間なのか、こちら側なのか。
国境線に沿って鉄条網をはったり、壁を作ったり。
どの国も国境を維持するのに苦心している。
国境線のない国民は国のない国民を意味する。
クルド人の様に国を持たない国民も存在するのである。
現在の国境は。その国の国民の意志や望む者と一致しているとは限らない。
それが、国際情勢を絶え間なく不安定にしている。
フィヒテが、ドイツ国民に告ぐを称えた時、ドイツは、ドイツ国民とは何かを問われていた。
明確に、ドイツ人の定義が定まっていなかったのである。
ドイツ国民の定義がされない以上、ドイツという国民国家は成立しない。
しかし、何をもって、何を基準にドイツ国民を定義するのか。
これは、どの国でも苦慮している。
それが後々の第一次、二次大戦の伏線なり。
なおかつ、現在のロシアのウクライナ侵攻にも影響を及ぼしている。
国民、民族、言語圏、人種、宗教、歴史は一体ではない。
日本人は、この点が理解できていない。
だから、国家主義と民族主義の区別がつかない。
国家は観念的であるのにたし、民族は即物的である。
また、言語圏と国家も一致していない。
スイスやアメリカ、カナダの様に多数の言語圏が存在する国はたくさんあるし、中国の様に同じ中国語といっても多くの方言がある国もある。
同じ国の中に、多くの民族や言語、宗教等が混在している例が多くある。
宗教の違いは、価値観や婚姻制度、風俗習慣、食文化の差となり、現実的対立を生み出す原因となる。
民族、言語、人種、宗教の違いを乗り越えて一つの国民国家を形成するのは至難な業である。
その他に、国民国家は、一つの法体系、一つの貨幣制度でなければならないと言う制約がある。
法体系が割れる事は、国家の分裂を意味する。
つまり一つの制度に統一する事で、国家の整合性を保つのである。
国民国家は、言語によってではなく、制度によって具現化された思想である。
故に、大切なのは、枠組みである。
国民国家において国民の定義は、法的にされる。
国民国家は法治主義を原則とする、法的存在である。
国民国家における国民の定義は、法的、制度的にされる要件定義である。
国民国家においては、法は絶対であり、いかなる者もその国の国民である限り、法をないがしろにしたり、無視したり、犯すことは許されない。
国民国家において法の根源は憲法にある。
ただ、勘違いしてはならないのは、憲法ありきではない。
憲法を成立させるのは国民の意志である。
憲法の精神は、国民の意志にある。
憲法は国民の意志を表したものであるから、第一にあるのは国民の意志である。
憲法は、国民の意志によって変えられるのである。
憲法は人が定めた法であり。自然の法則とは違う。
国民国家において法源、法の魂は、国民の内にある。
国民の外にはない。
国民国家において憲法は、国家の主権と独立を前提とし、国民の権利と義務、生命と財産を守る事を目的としている。
つまり、国防は、憲法の成立以前、憲法が成立するための大前提である。
国を守る意志のない者は、同時に、憲法を守る意志を持たないからである。
今の日本人は浮草、根無し草。
世界に自分の居場所すら失いつつある。
自分達が、何を守り、何を、信じたらいいのか、心のよりどころもわからずに。
精神の心張棒もなく。
求心力もなく。まとまりもなく。
魂まで抜かれ。
ただ、なんとなく生きている。
日本人である誇りもなく。
国民国家にとって国民としての誇り。
愛国心、忠誠心は不可欠である。
何故ななら、国の根本が国民の意志だからである。
自分達の国なのである。
国民としての誇りがなければ国をよくすることはできない。
腐敗、不正は防げない。
欲を抑制できるのは愛だけである。
民族でも、人種でも、宗教でも、思想でも、信条でも、言語でも、生まれも、国民を規定できないとしたら、何が日本人を日本国民たらしめるのか。
日本国民か、否かを、分かつのは、結局、自分は、日本人だという意識なのかもしれない。
愛国の情なのかもしれない。
あの東日本大震災の時、自らの安全を顧みず、人々をすくために献身的な働きをし、犠牲になった消防団や市役所の職員。
また、暴動を起こさず規律を守り、助け合った住民。
復興の為に立ち上がった国民。隣人。
彼等の郷土愛、情こそが、日本人を日本国民とたらしめている。
この国を、この国の人々を、郷土を、大切に思い、愛し、守りたいという意志、それこそが、日本人を日本国民にするのである。
国民国家では、国民は、自分の意志で国民になるのである。
国民には、国家選択の自由がある。
国民は、自分の意志で国民なる。
そこに成人式の意義と目的がある。
成人式は、本来、神聖で、厳粛な契約、誓約の場である。
成人になれば、自分の意志で国民なるから、参政権が与えられる。国民としての権利と義務が保証される。
神聖で厳粛な場でなければならない。
ところが、今の成人式は、単なるお祭り騒ぎ、同窓会、祝典にすぎない。
それは、大人が、国家を蔑ろにしてきたし、今も蔑ろにしている。守ろうとしていないからである。
勘違いしてはならない、
国民国家と、君主国、独裁国とでは、愛国心や忠誠の対象が違う。
君主国や独裁国家、軍国主義国は、特定の個人や勢力、機関に対して忠誠を誓う。
国民国家の愛国心や忠誠心の対象は国民であり、建国の理念である。
日本人にとって自由とは何か。
国家の独立とは何か。
日本国とは何か。
国民国家においてまず問われるのは建国の理念。
国民がどのような国を望むのか。
国民一人ひとりが国家と対峙する。
国家は現実であり、観念ではない。
国民の生命と財産、権利と義務を守るのは、国家の最低限の存在意義である。
国民生活は現実である。
国民国家は、与えられるのではなく、勝ち取るものである。
国民の権利は、他人に守ってもらうのではなく、自分で護るもの。
自由は勝ち取るもの、与えられるものではない。
国民国家の主権と独立は、国民が守るもので、他国の力をあてにすべきではない。
国民国家において権利と義務は一体である。
日本は戦後、自分達で、国を守るという意志を捨てたかのように見える。
日本人は戦後守られたきた。
守る側には、守る側の意図、都合がある。
家畜を守るのは、家畜に使役をさせ、或いは、食用にする為である。
日本を守る国があれば、その国の主権者に都合がいいからで。
日本を守らなければならない意義がなくなれば、弊履の如く捨てる。
なぜなら、日本を守るために、自国民の血を流すわけにはいかない。
日本の属国ではないのである。
日本が他国から攻められたら、侵略されたらアメリカは守ってくれると期待するのは愚かである。
アメリカは、アメリカの政策、国家戦略に基づいて行動する。
日本を守る事が、国家政策、国家戦略上必要とあれば守る。
その場合も、日本が、日本を守ろうとする意志がある事が前提で、日本が日本を守る意思を示さなければ、内政干渉となるから、基本的には守らない。というより守れない。
日本に対する侵略になってしまうからである。
他国に期待する以前に、自力で自国の主権と独立を守る意志が求められる。
それが国際常識で。
この常識が日本人には、欠如している。
自分達が自分たちの力で守ろうとしない国は、どこからも支援は受けられない。
日本人は、守られてきた。
日本人は、守られる事を当然とし。
自分の事は、自分で守らなけらばならない。
自分が、守らなければ、誰も助けてはくれないと言う当たり前な事さえ理解できなくなってきた。
大人というのは、守られる側から、守る側に転じる事を意味している。
年齢は関係ない。
守られる側の人間は、扶養されているのである。
自分で自分を守る事はできない。許されていない。
だから、権利が制約されるのである。
国民国家における人と国家は守り、守られる関係にある。
一方的に、守られるのでも、守るのでもない。
自分の力で自分の命、財産、権利を、守る。
そこに義務がある。義務と権利は表裏一体。
自分の家族を、守る。
隣人を、守る。
兄弟姉妹を、守る。
同胞を、守る。会社を、守る。
自分の信念を守る。
自分の誇りを守る。
人の道を守る。
義を守る。
正しきを守る。
国の主権と独立を守る。
自分が命をかけて守らなければならないもの、事を見つけた時、自分の存在意義を自覚できる。
国民国家において守るべき事は、国民の意志であり、権利と義務、そして、国家の独立と主権である。
国民国家の主権者は国民であり、君主でも、皇帝でも、独裁者、軍隊でもない。
主権在民とは主権者は国民だと言う事を意味している。
この事を、戦後、反体制主義勢力は意図的に、故意に、捻じ曲げ、一緒くたにし、真面目に国家について語り合う事を妨げている。
言い換えれば、現在の反体制勢力の本性がそこに現れている。
彼等は国民国家そのものを否定しているのである。
我々が守らなければならないのは、今の日本である。
今の日本国民の意志は戦前とは違う。
国家体制も違う。
当然、国防の根本思想も違う。
何を大切にし、何を守ろうとしているのかも違う。
今の自衛隊は、仮に軍だとしても他国を侵略できない。
なぜなら、第一に国是が戦前とは違い、他国への侵略を許さない。
戦前は、国民国家といっても立憲君主国であり、現在の民主主義国とは違う。
国民の為の軍隊だったとは言いにくい。どちらかというと国体をも守る事が主たる任務だった。
しかし、今の自衛隊は国民を守る事が主たる任務である。
次に、制度が違う。
戦前は、軍事制度であり、軍は独立した機関だった。
今の自衛隊は、あくまでも国家機関に一部であり、独立した行動がとれない。
権力は、主権者より生じる。
国民国家の主権者は、国民にある。
故に、国民国家では、権力は、国民から生じ、権力を執行するのは国民の代表であり。
国民の権利は法的に制度的に保証されなければならない。
国益を追求するのは、国民国家の当然の権利であり、義務である。
なぜなら、国民国家において、国益とは、国民の利益を意味するからである。
誰のために、何のために、自分はいるのか。
翻って言えば、自分が何を守らなければならないのか。
それは、子を持てばわかるし。
子を持った時、その人の人間性が問われる。
守るべき事は道徳の本源。
守るべきものがあるから、人は自分を律する。
我慢する事を覚える。
国を良くしたいとか、国を守ろうという気概があれば、姿勢を正し、節度を保とう心も生ずる。
その気概がなくなれば、エゴと欲しかなくなる。
金や私利私欲のためにしか働かなくなる。
国なんてどうなってもいいという考え方が蔓延したら、たちまちのうちに公衆道徳なんて失われる。
天に恥じる事もない。
愛国心や信仰心がなければ、我利我利亡者となる。
我慢が効かないからである。
人は、自分の為には我慢ができない。
守るべきものがない者は、自分を律する根拠がないからである。
守らなければならない事やものは、(それは正義、神も含め)道徳の礎だからである。
日本人は、守るべき道理を失いつつある。
それは道徳の欠如、人格の崩壊を意味する。
自分の為と言いながら、自分をも喪失する事。
大義、希望、志をなくすからである。
自分だけの利益を追求しても大義は生まれない。
公がないからである。
ただただ、孤立し、最後は、自分も虚しくなる。
自衛隊が合憲か、否かの問題ではなく。
この国を守る意志があるかないかの問題である。
自衛隊の海外派遣の事も、一番問題なのは、国民の意志をハッキリ言えないといことである。
国益に反すると思えば、誰が何と言おうと、派遣しなければいい。
しかし、派遣するのならば、派遣された自衛官が、自分の任務や使命を果たせるように、また、名誉を保ててるように、すべきである。
危険な地域に丸腰で出したり、他国の軍隊に守ってもらはなければならない状態で派遣すべきではない。
邦人を保護する為なら、保護できるようにすべきである。
邦人を保護する目的なら、正々堂々と行動できるように計らうべきである。
この歳をしてこのような事を言うのは気恥ずかしいが。
私はこの国が好きである。
私は、日本を愛している。
私は、日本人である事を誇りに思っている。
この国の役に少しでも立てたらと思う。
父が、世の為国のために働けと言っていた事がわかるようになってきた。
私の若い頃は、愛国心などというと、白い目で見られた。
何か、国家主義者、軍国主義者みたいに。
日本は、国民国家である。
国を愛する事は、自然の情である。
この歳になると自分に正直にありたいと思うようになる。
私はこの国が好きだ。
今の日本は、金だけが目当てであるように錯覚してる人が多い。
それが、日本の経済をここまで低迷させている。
常に、国のために役に立つか、世の為、人の為になるかを考えるからこそ、市場は節度が保てるのである。
私利私欲だけを追い求め、金の為ならどんな阿漕な事も、人を欺き、裏切っても、痛痒とも感じない。
そんな人間ばかりになったら経済は立ちいかなくなる。
反体制勢力が隆盛の時は、国の為、世の為人の為といいっても、そんなのきれいごとだ、どうせ金のためだろと、ひがみ、すがめでしか物事を語れなかった。
なぜ、この国をよくするためにと素直に言ってはいけないのだろう。いつから言えなくなったのだろう。
この国をよくするためにと言えないから、金の為としか言えなくなる。
悪循環である。
でも、この国をよくするために働くんだと言わない限り、今の若者を説得し、納得させる事が出来ない。
本気で、この国をよくすればいいのだ。
かつて、父や母は、この国の役に立つ仕事をと言い続けた。
この歳になって父母の教えの意味が分かるようになってきた。
人には、守らなければならない事がある。
人は、守らなければならない事を必要としている。
その一つが、祖国である。
守るべき義を忘れたら、世も末である。
道義を守る事は、自分が人として生きる事でもある。
道義を忘れたら、人でなしになる。
自衛隊が合憲か否かの問題ではない。
この国を護る意志があるか、ないかの問題である。