私は、今年、七十歳になった。
この歳をしてこのような事を言うのは気恥ずかしいが。
私はこの国が好きである。
私は、日本を愛している。
私は、日本人である事を誇りに思っている。
この国の役に少しでも立てたらと思う。
父が、世の為、国のために働けと言っていた事がわかるようになってきた。
私の若い頃は、愛国心などというと、白い目で見られた。
何か、国家主義者、軍国主義者みたいに。
日本は、国民国家である。
国を愛する事は、自然の情である。
この歳になると自分に正直にありたいと思うようになる。
私はこの国が好きだ。
今、ロシアも、ウクライナも、中国も、アメリカも、フランスも、イギリスも、愛国心を鼓舞していると言うのに、ただ、日本だけ愛国心を口にすることさえ憚れる。
時の権力者は、自分の都合のいいように愛国心を利用する。
それでいて都合が悪くなると愛国心の性にする。
逆に、時の権力に逆らう者は、愛国心を毛嫌いする。
しかし、どちらも同じ穴のムジナ。
真の愛国心をゆがめている事に変わりはない。
国をよくしたいと言う思いは体制側であろうと、反体制であろうと変わりない。
現に、アメリカだって、ロシアだって、中国だって、フランスだって、ミャンマーだって、体制側の人間も、反体制側の人間も愛国心を叫んで武器をとる。
体制側も、反体制側も愛国心を口な出せないのは日本だけだ。
日本は、1945年8月15日から1952年4月26日サンフランシスコ条約が結ばれるまで他国の統治下、つまり、植民地だった時代がある。
この時、徹底的に愛国心は悪だと刷り込まれた。
しかし、その思想を日本に刷り込んだ国は、今、愛国心を鼓舞するのに躍起である。
本心から愛国心が悪だとするはずがない。愛国心が悪だとするのはウソ、欺瞞である。
それどころか、戦争だとか、地震や洪水といった災害になると、為政者は、国民の愛国心を自分たちに都合がいいように利用しようとする。
戦争の時は特に戦争目的で愛国心を鼓舞しようとする。
しかし、何が本当に国の為になるのか、国民の為になるのかそれを突き詰めたところにこそ、真の愛国心があるので。
国民に理不尽な戦いを強いる事は愛国心の本旨ではない。
平和を願う事こそ真の愛国心である。
国をよくしたい、世の為人のために働きたいと言う思い、情が愛国心だからである。
何がこの国の為になるのか、その問いもなく、時の権力者に隷従する事を愛国心は求めやしない。
忠勇も然り。
勇気をもって、国に誠心誠意尽くす事で。
時の政府が間違った道をすすもうとしたら、身を呈してでも糺すのが忠であり、勇である。
大戦後、半世紀を経るうちに、愛国心のない政治家が幅を利かせ、愛国心を真っ向から否定する教育者が跋扈する状況を生み出してしまった。
敵が攻めてきたら、妻子を捨てて逃げると公言している、著名なジャーナリスト、焼け跡派と称する作家、映画監督がいたが、お話にならない。
愛する人が暴漢に襲われたらとりあえず命がけで戦おうよ。
子供が戦っているのに、真っ先に親父が逃げ出してどうするの。
それが、今の若者の所在なさの原因ではないか。
昭和天皇は、終戦の「終戦の詔書」において
「堪え難きを堪え忍び難きを忍び、以って万世(ばんせい)の為に太平を開かむと欲す。」と国民に語り掛けられた。
これは、天皇の愛国心を吐露された言葉であり、天皇制を肯定するしない以前の言葉である。
愛国心をもって耐えがたきに堪え、忍び難きを忍んで、この国の未来を開こうと。
戦時中は戦意を鼓舞する為に愛国心を利用するが、本来、愛国心は国難に際し国民の心一つにする時にこそその本来の力を発揮する。
戦争に愛国心を利用するのは邪道である。
その根本にあるのは、この国をよくしたい。この国の役に立ちたい。この国を守りたいと言う心情である。
それを忘れてはならない。
時の権力者に利用され歪められた愛国心は糺すべきとして、愛国心そのもの否定したら国そのものが成り立たなくなる。
否、真の愛国心を教え、取り戻す事こそ、先の大戦で逝った英霊に対する真の鎮魂である。
第一、今の日本は民主主義、自由主義、平和主義を国是としている。
愛国心の対象は、軍でも、権力者でもなく、国民国家である。
愛国心は、人種差別や排外的な考えや、国粋的な独善、狭い料簡を言うのではない。
また、他国への侵略を正当化するものでもない。
愛国心は、この国の義を正す心。
国を愛する心と我のみ正しいとする独善は対極にある考えで一つには決してならない。
国を愛する心は、慈悲、慈愛である。
今の日本は、金だけが目当てであるように錯覚してる人が多い。
それは、世の為、人の為、経営しているなんて言うと、偽善者扱いされるからである。
国の為なんてと言うとそんなの建前で、本音は、金でしょ。欲でしょと。
結局、金の話ししかできなくなり、金の話し以外できなくなって、骨の髄まで金、金、金と「金の亡者」ばかりになってしまった。
国の大事を語(かた)れる財界人は、もういない。
語るのは、自分の会社の儲け話ばかり。
会社経営に大義などいらないと言わんばかり。
経営者の責務は株主に対する責任だけだと思い込んでいる経営者しかいなくなった。
それが、日本の経済をここまで低迷させている原因だと言うのに、自分の行状に気がつきもしていない。
常に、国のために役に立つか、世の為、人の為になるかを考えるからこそ、市場は節度が保てるのである。
私利私欲だけを追い求め、金の為ならどんな阿漕な事も、人を欺き、裏切っても、痛痒とも感じない。
そんな人間ばかりになったら経済は立ちいかなくなる。
勉強だって、自分の為、自分の為といい続けたから。
勉強は、自分の為と思い込み、学んだ事を、世の為、人のために役立てようと言う気持ちが子供たちから失せてしまい。
勉強しなさいと言っても、どうせ自分の為だろと開き直られる。
けれど、本音では、学んだ事を、何かに役だってたいと思っている。
そうでなければ、人生の大切な時間を削って学んだ事が無駄になる。
反体制勢力が隆盛の時は、国の為、世の為人の為といっても、そんなのきれいごとだ、どうせ金のためだろと、ひがみ、すがめでしか物事を語れなかった。
なぜ、この国をよくするためにと素直に言ってはいけないのだろう。
いつから言えなくなったのだろう。
この国をよくするためにと言えないから、金の為としか言えなくなる。
悪循環である。
でも、この国をよくするために働くんだと言わない限り、今の若者を説得し、納得させる自信がない。
私はこの国が好きである。
この国の人々を愛している。日本人である事を誇りにしている。
だから、この国の為に働きたい。役に立ちたいと言うのが、偽らざる思いで、それが私の愛国心です。
翻って言えば、愛国心を否定する者は、この国が嫌いで、日本人としての誇りも持てず、この国の役に立ちたくない。
世の為、人の為なんて欺瞞偽善者だと思っている人だと言う事です。
それでは、話を聞くに値しません。
私は、この国が好きで、日本人である事に誇りを持っているの者ならば、例え、それが革命的な話でも、傾聴するに値すると考えています。
何のために勉強するのと子供に尋ねられた時、世の為、人の為ですよ。
国をよくする為にですよと教えてくれた。
しかし、いつの間にか、この言葉は禁句にされた。
それに代わって、自分の為にと教えるようになった。
しかし、自分の為にでは、自分が必要ない、自分の役に立たないと思えば勉強しなくなる。
だいたい、試験勉強なんて何の役にも立たないと、公言している、親も教師もいるくらいである。
子供たちが、勉強にやる気をなくすのは無理のない事である。
要するに、教えに最初から嘘や欺瞞がある。
国をよくするため、世の為、人の為、だからこそ、厳しい試練にも耐えられる。
誰のためのも、何にも役に立たないと思えば、虚しいだけである。
世の為、人の為、国に役に立つ人間になるために励めと言う以外、どう言いようがあると言うのだろう。
役立たずになれなんて口が裂けても言えない。
自分の為にと言われても、それでは、自分の存在意義なんてなくなってしまう。
自分の為では、自分の限界は越えられない。
自分の限界に立ちいたったらその限界に立ち向かい、限界を超えていく気にならない。
自分の為だけに生きていたら試練には耐えられないのである。
お金は手段であり、金儲けは人生の目的にはなりえない。
人は、生きるために金もうけをする事はあっても、金儲けの為に生きる事はできない。
それは、本末転倒である。
自分の仕事が誰かの役に立っていると思うからこそ働き甲斐があるので、所詮、自分の為だろ、金の為だろと言われたら身も蓋もなくなる。
せめて、愛する人の為、大切な人の為といいたいけれど、その根本に、愛する心、大切に思う心がなければ。身勝手な思い込みに過ぎなくなる。
結局、世の為、人の為になりたいからという事を素直に認め、信じられなければ虚しいばかり。
所詮、金の為、自分の為だと言われたら愛も醒めてしまう。
結婚するにも、子を産むにしろ、愛し、守り続けると言う覚悟がなければ、一時の感情で簡単に育児を放棄し、離婚してしまう。
最初から愛する事も、信じる事も出来なければ、愛が総てなんて歌の文句にしかならない。
愛するにも、信じるにしても相手がいる。
自分の為だけに結婚するわけでも、子を育てる為でもない。
相手の幸せを願うから、自分が相手を幸せにできると確信するから家庭が持てる。
その根源にあるのは愛。
その愛をはぐくむのは愛国心。
人を好きになる様に、国を好きになり。
国を愛するように、人を愛する。
結局、あなたのためにと言っても信用しない。
お為ごかしな事をいうなと。
綺麗ごとを言うな。
所詮、自分の為じゃあない。
お金の為じゃないかと。
次の世代を担う若者の為といっても。
子供の為といっても虚しく聞こえる。
若者も、子供もまともに受けないのである。
世の為、人の為といっても、お為ごかしでしかない。
世の為、人の為とか、国の為と巧妙に言えないようにしている。
今、憂国とか愛国なんて言おうものなら極悪人のような扱いである。
世の為、人の為、国の為が言えなくなったら、残るのは、自分の為、金の為。
だから、思い返せば、自分の為、自分の為と育て。
人の為などというと切れごとを言うな金の為だろと反論されて何も応える事も出来なかった。
だから、ビック・モーターの話も、金か、自分が基準で。
その癖、暗に世の為になっていないと。
みんな逃げている。
その裏に、猿之助の事も、新宿の事もある。
家族構成が逆転して、親が子にかしずている。
要は、何故、誰の為、なんの為があからさまに言えない。
そうやって、じりじりと日本人の魂をですね蝕んできた。
もう、人間として、おかしいというくらいのところまできている。
その癖、彼らは人間性とか人道主義を逆手に取るから巧妙なんです。
9.11の時、そしてトランプ大統領の件、いずれの時もアメリカで愛国心、国家への忠誠が問われて。
それを見て、日本人は、びっくりした。
アメリカ人も愛国心を大切にしてるんだと。
今も、オッペンハンマーの映画で。
原爆を日本におとしたこと悔いているアメリカ人なんて極わずかしかいない。
日本人が何も知らない、騙されているだけ。
愛国心とは、情である。理ではない。
愛国心は、愛情であり、思想ではない。
理屈ではない。
子供が、親を慕うような。
親が、子供を慈しむような。
夫が妻を労るような。
妻が夫を愛おしむような。
自然の情だ。
父たちにとって、国防は現実だった。
なぜなら、自分が戦場にいかなければならなかったから。
今の日本人とって国防は絵空事。
政治家だって国の為に武器をとる事がないから。
だから、どこまで行っても、架空、仮想の話にしかならない。
台湾や韓国の防空訓練なんて杞憂に過ぎない。
何故、そこまで真剣に取り組むのと。
かつて、父や母は、この国の役に立つ仕事をと言い続けた。
この歳になって父母の教えの意味が分かるようになってきた。
私は、終戦後に生まれましてね。
あの頃は、何もなかった。
着ている服もお下がり、古着、継ぎ接ぎは当たり前。
食うや食わずで、天丼なんて一年に一度、食べられるかどうか。
よくて、狸か狐。
でもあの頃、食べたラーメンの味は忘れられない。
今は、口が奢ってしまうが、飯粒、一粒でも残したら、親父にこっぴどく叱られた。
おもちゃなんて何もなく。
新聞紙を丸めてチャンバラごっこした。
でも、缶蹴り、かくれんぼ、鬼ごっこ、メンコ、ビー玉と子供なりに工夫し、それなりに豊かでした。
はたらきに出ても最初は裸電球、六畳一間のミカン箱。
田舎から、着の身着のままで野に出て。
少ない給金の中から仕送りして。
皆、一生懸命、肩を寄せ合い、助け合って生きていました。
不思議と戦争に敗けたと言うのに日本人としての誇りを失わなかった。
だから、恩義、信義が大切なのだと。
信用をなくしたらお終いだよ。
汚い事はするな。
痩せても枯れても、お天道様の下を歩けなくなるようんことはするな。
私は思うのですよ。
豊かになったらいつの間にか、道義心、羞恥心を失って。
何がこの国の為になるか、役になるかなんて忘れ、金に汚くなり。 それがバブルを招き。そしてはじけた。
あれから、三十年ですか。
そして、また、日本は貧しくなりました。
世の為人の為にと素直に言えないと、若者を説得する事が困難な事に気がつきました。
世の為人の為といえなければ、所詮、自分の為、金の為としか言えないからです。
祖母は、学校に上がる前に子守に出され、字が読めませんでした。
父は、工兵として満洲に渡り、終戦は、宮古島で迎えたそうです。
戦争が終わって、祖母の疎開先に戻ってきた時、黙って足を見たそうです。
祖母の口癖は苦娑婆だよ。苦娑婆だよ。
この国を守ってきたのは、祖母の様な民草ですし、父の様な一兵卒です。
東日本大震災の時も、消防団や、若い市職員が、人々を助けるために、犠牲になったと聞きます。
今、若者と話ていると魂が抜かれてしまっているよで、その責任の一端は我々にあります。
このままでは、日本人の魂、精神が消えていってしまう。
自分たちの都合で、勝手に愛国心をゆがめるばかりで、正しい愛国心の意味を、子供たちに教えていこうとしないのが、間違いなのだ。
ちっぽけな飛行機に爆弾を乗せ、何時間もかけて飛んでいき、散っていった、二十歳にもならない若者の心、沖縄や硫黄島で死んでいった一兵卒の魂。
彼等はこんな国を望んでいたのか、こんな国にするために逝ったのか。
誰かが、彼らの魂を引き継いでいかねばならない。
人には、守らなければならない事がある。
人は、守らなければならない事を必要としている。
その一つが、祖国である。
守るべき義を忘れたら、世も末である。
道義を守る事は、自分が人として生きる事でもある。
道義を忘れたら、人でなしになる。
参考
家の神様に唱える「神棚祝詞」
此の神床に坐す 掛けまくも畏き(これのかむどこにます かけまくもかしこき)
天照大御神 産土大神等の大前を 拝み奉りて(あまてらすおおみかみ うぶすなのおおかみたちのおおまえを おろがみまつりて)
恐み恐みも白さく(かしこみかしこみももうさく)
大神等の広き厚き御恵を 辱み奉り(おおかみたちのひろきあつきみめぐみを かたじけなみまつり)
高き尊き神教のまにまに(たかきとうときみおしえのまにまに)
直き正しき 真心もちて(なおきただしき まごころもちて)
誠の道に違ふことなく(まことのみちにたがうことなく)
負ひ持つ業に励ましめ給ひ(おいもつわざにはげましめたまい)
家門高く 身健に(いえかどたかく みすこやかに)
世のため人のために尽さしめ給へと(よのためひとのためにつくさしめたまえと)
恐み恐みも白す(かしこみかしこみももうす)