考えてほしい。
人は嘘をつく、AIは、嘘をつかない。これが大前提。
ただ、時々これが怪しくなる。曖昧になる。
しかし、この大前提が崩れると、生成AIは、成り立たなくなる。
では、嘘とは何か。
なぜ、AIは、嘘をついたことになるのか。
人は、嘘を付くなという。
考えてほしい。では、嘘を付くとはどういうことか。
嘘とはどのようなことを指すのか。
一つ、事実に反する事を事実とする事。
二つ、知らない事を知っているとする事。
三つ、わからない事をわかったとする事。
四つ、やっていない事、やったとする事。
五つ、自分が信じていない事を信じているという事。
なぜ、嘘をつくのか。
一つ、相手を騙す為。
二つ、見栄。よく思われたい。
三つ、言い訳、言い逃れをするため。
四つ、誤魔化すため。
五つ、隠すため。
六つ、相手への気遣い。
七つ、意地悪。悪意。
八つ、方便。
九つ、相手を利用するため。
十、相手を味方にするため。
十一、身を護る為に。
あなたは嘘を見抜かなければならない。
何故なら、人は嘘つくから。
嘘をつく動機が、あなたを騙す事や悪用する為や味方にするためや悪意、隠し事ためだから。
なぜ、あなたは嘘ついてい居ないのに、嘘ついたとみなされるのか。
この点も、あなたの名誉のために明らかにしておく必要がある。
嘘を付くつもりはなかったけど結果的に嘘になるという事がある。
この点に、あなたは用心深くなる必要がある。
あなたは与えられた情報の範囲で結論を出す。
与えられた情報に嘘が当たり、偏っていたり、限られていると、結果に嘘になる。
統計ではだから検証が重んじられる。
一神教徒にとって倫理とは、神の定めた掟、あるいは、神の教え。
だから、極端な話、カソリック教徒は、カソリック教徒以外、倫理は持てないと思う。
私は、自制するための基準を倫理とする。
倫理観が持てないのは、信仰がないから。
特定の神、分別のある神を信じれば、神の教えは絶対的になり、何も考えられなくなる。
考える事が許されなくなる。
絶対的な決まり事なら破る事は罪になり。
妥協は許されなくなる。
天が回るか、地が動くか。
地が動くとすれば火あぶりにされる。
地が動くと信じるものが罰を恐れて天が回ると言えば嘘になる。
同じ神を信じない者は、服従させるか、改宗させるしかない。
だから、悪魔が生まれる。
つまり、知性はあるけれど倫理のない存在が出現する。
神を否定するものは自らを神とする。
自らを神とした者は、自らを神とした瞬間、自己の存在を失う。
自己の存在の前提を否定する事になるから。
自己を見失えば、自制できなくなる。
必然的に倫理観も失せる。
信仰がなければ、倫理は守れない。
しかし、特定の宗教に囚われたら偏狭な倫理となる。
それで近代科学者はとりあえず形而上な事は棚上げして、形而下、即ち、自分が直接認知できる事実、観察に基づいた事象か実証に基づいた事象のみに根拠を置く事とした。
その結果、信仰も倫理もない技術が発達したのである。
ならば、無分別な神、善も悪も超越した神、唯一の神、絶対的存在、内なる神に対する信仰以外に救いはないではないか。
神は何も語らない。ただ、お示しになる。
人が愚かな事をすれば、愚かな結果しか出ない。
だいたい、人だって最初から倫理観が最初から、プログラムされている、組み込まれているわけではない。
人はいかにして倫理観を持つのかというと、それは、後天的な学習である。
最初に与えられているのは、肉体と、生きていくために必要な生理的欲求、つまり、欲望である。
欲望と自分の身を守る為の本能。
この様な土台の上に、擁護者や保護者、基本的に親の躾、擁護者が枠組みを刷り込み、その枠組みに基づいて擁護者を中心とした人間関係の中で磨いていく。
ある一定の年齢に達すると集団生活、集団教育によって、社会の掟、ルールを経験的に身につけていく。
問題はしつけと虐待の境界線があいまい。
倫理観を強く植え付ける為には、体感、つまり、体bつが用いられた。
以前は、体罰は当たり前だったが、最近では体罰はすべて短絡的に悪と決めつける。
自分が子供の頃は、悪い事をしたら、その場で、お尻をペンペンした。
それができない親は、親としての資格がないとまで。
そうやって、強く、倫理観を植え付けたのである。
三子の魂、百までもと言って三歳までに、基本を。
少年法の根拠も、少年期には倫理が確立されていないというが大前提なんですから。
人が他の動物と違うのは、倫理を言葉で教える。
そして信仰。言葉の威力のである。
そして、倫理は、絶対的規範となるのでその根本は神か神に準じる絶対的存在の置かなければならない。
しかも、単純明快、誰もが合意できること。
十善にしかず。仏教では十善。
一神教徒では、十戒。
そして、一神教徒は、さらに細かい戒律が各々、決められている。
日本人はこれが理解できない。
日本人には絶対的基準がないからで。
幼児期に自己の内部に刷り込まれた基盤を、人は、自己と外界との関係の中で自己の内部に確立していき。
認識の作用反作用によって。つまり、外界への働きかけとその反応によって、刷り込まれた基盤を経験的に検証していく。
弱いものいじめしてはならないとか。
約束は守るとか。
嘘ついてはならないとか。
現代、最終的には、法が倫理を実体化するから、順法精神。
処が法は、普遍的基準んではない。
例えば、平時と、有事では法が違ってくる。
倫理も絶対的基準ではなく相対的基準である。これが倫理のジレンマ。
最初、絶対基準と躾けられながら現実は、相対的基準だからである。
道徳、つまり、倫理は子供の時、躾けられ、経験によって深化、磨かれる。
その過程で、反発や反抗をもする。
当然、その子の性格や能力、対人関係が重要な要因となる。
この時に、正常な人間関係が築けないと倫理観が歪んだり、欠陥が生じる。
親との関係や友人関係など。
それが、闇バイトなどの原因となると言われる
ですから、信仰がカギを握っています。この点を明確にしないで倫理を求めるのは理不尽なのです。
倫理は自分と他者とのかかわりあいによって形成される。
自他の関係を見極めなければ倫理観は成り立たない。
自があって他があるので、自がなければ他はない。
自がなくて他を頼れば、自は他に呑み込まれ、失われる。
内なる神を信じて、他者との関係、経験を経て自分の倫理は形成されます。それが自律であり、成長です。外に求めた時、隷属となり堕落が始まります。
風雪に向かって自立せよそれが倫理です。