何を問題としているのかを曖昧にしておいて、「じゃあ、どうしたいのか」を求めてもちぐはぐになるだけ。
今、何が問題かを明確にする。
それから手順に問題を解決していく。
問題解決には一連の流れがある。
いくつかのパーツから構成されている。
問題解決には、絶対という形があるわけではないが、一定の定石はある。
なぜならば、世の中、社会では、組織的に問題を解決するのが一般だからである。
この様な問題解決の流れも学校では教えない。
問題解決の流れ
現状調査→問題設定→事実認識→整理・分析→仮説→問題点の洗い出し→情報収集→仮説の検証→対策の立案→分担、実施→管理
現状調査から着手する。(現状を調査して、極力、客観的に記録する。現状調査の手段には、ヒアリング、査察、実地調査等がある。)
現状調査の結果をまとめて問題化する。(調査した事を整理して一つの報告書にまとめる。)
問題の中から事実関係だけを抽出する。(この段階では、事実と意見と切り分け、余談、決めつけをしないように注意する。)
仮説を立て、抽出した事実を、共通していると思える事項をグループ化する。重複しても構わない。(この段階では、意見を聞く。)
グループ化した事項に項目をつけて分類する。
項目毎に、問題点を洗い出す。(問題点、整理した事象の背後にある改善を必要とした原因)
情報を収集し、分析して、問題点を検証し。
優先順位をつけて、対策を立てていく。
対策を立てたら、分担して、計画的、組織的に解決していく。(以後、プラン・ドゥ・シー。)
問題解決をどこから、具体的始めるか。着手するか。
私は、以前から、不思議に思ってきたのが、基本は同じとと教えられ、無意識にやってきたことが、最近、入り口から間違う人が多い。
要は、門前にすら立てない。
問題解決の手始め、着手は、何から、何処にするか。
我々は、「確認に始まり。確認で終わる。」と教えられた。
それはそうとして、じゃあ具体的に、何から始めるか。
それは、調べる事である。
だから、確認をした後、「どうしようか」と聞かれた時、或いは、聞いた時。
「誰が、何を、調べるか。」
「誰に、何を、調べさせるか。」と自然に頭が回ったのだが、今の人は、いきなり答えを出そうとしたり、仕事にかかろうとする。
「何も調べないで来るな。調べてからこい。」
「余談、推測、憶測で語るな。」
「事実に基づいて言え。」
「不確かな事は確認してこい。」
「事実関係だけを言え。」
「調べていない事は言うな。」
と、厳しく躾けられたと言うのに、教えられた。
曖昧な事は調べてから言えと。
以前なら、「事情がわからければ、何もできないだろう」とか。
「とりあえず、事情をきかせてください」と聞かれたもの。
これも見方を変えると調べる事であある。
とにかく調べなければ、始まらない。
事情が分からなければ、何も決められない。
だから、まず調べる事から始めるのが常識とされた。
だから、、最初に着手するのは、当然、調べる。
調べるという事は考えるに通じる、
なんの考え、目的もなければ、調べようもない。
そして、問題解決を目的としたら問題意識をもって調べる。
問題意識とは、問題を意識して考えると言う事で。
問題意識を持ってい調べると言うのは、問題を意識して調べること意味する。
よくよく、今の人が、問題解決に当たって調べると言う発想がないのか。
それは、今の学校教育に、思い当たった。
今の学校教育は調べると言う事がない。逆に言えば、調べる事を教えていない。
学校では、問題設定とか、問題意識とかは無縁なのである。
試験問題は、問題は予め設定されていて、調べると言う事がない。
試験問題にも調べると言う事話、試験中に調べたらカンニングになってしまう。
だから、学校教育では調べるではなく、覚える事で、覚える事に重きを置いた教育がされる。
しかし、世の中は、覚えなくてもいいから、調べる。
大学に入学した時、今まで覚えた事は忘れろ、物理学は、調べて考える事で、わからない事があったら、すぐ調べて、確認し、考えろ。
記憶を頼るなと教えられてビックリしたことっがる。
担当を決めて、調べる。
これが、仕事、問題解決の原点。
担当という意味には、第一に仕事を受け持つ。第二に、連絡、調整。第三に、まとめ役。第四に、事務方。第五に、準備役、第六に、世話役、教育係等がある。
何を担当させるかは、上司と相談しながら決める。
担当と言っても一概に決まっているわけではない。
何を誰に担当させるか、それを、考える事は仕事の具体的な構想になる。
誰をコーチにするか誰に先発に起用するか、守備をどうするか、打順は。
その時、その人の考えがくっきりと表れる。
だから決められないとしたら。
始める以前の話だ。
なぜ、担当を決めるのか。
キャッチボールを一人ではできないでしょ。
自分一人で決めても、決めた事にならない。
なぜなら、自分以外、決めた事がわからないし、何を決めたか伝わらないから。
正直、当人だって、決めたか、どうだかわからなくなる。
なぜなら一人で決めた事は、当人がいつでも撤回できるのだから。
責任だって生じない。
だから、一人では決めた事にならない。
少なうとも決めた事を第三者に伝えないと。
担当を決めないと仕事がわからない。仕事が整理できない。
担当を決めないと、公式に、決められない。
自分ひとりで決めても、自分以外の人が認知できないから。
決めたつもりにしかならない。
後々、検証もできない。
担当を決めないと、自分で自分に指示することになる。
また、自分一人で決めたことにしなければならない。
決めなければ指示できないから。
自分に指示を出すと言う事は、自分が発令者であり、受令者でもある。
つまり、出し手でもあり、受け手でもある。
そうなると幅が持てない。
作業には時間的幅(距離)、取り決めがないと成り立たない。
作業は、時間的幅があって確定するからである。
作業が確定できなければ仕事は成り立たない。
仕事は、一人ではできない。
必ず相手がいる。
誰が相手かを、意識し、明確にしないと仕事はできない。
将棋や囲碁、麻雀も、一人ではできない。必ず、相手がいる。
将棋や、囲碁、麻雀は一手指すごとに次の一手が見えてくる。つまり開かれる。
一手指さないと次が見えてこない。
仕事も同じ、一手いって、決断して指していかないと、次の展開ができない。
長考をするのはいいけれど、いずれかは、決断して手を指さなければならないし。
千日手になればすべてをやり直さなければならなくなる。
一手を指せるのは相手がいるから。
相手がいるから手が見えてくる。
だから担当を決める。
担当を決めて、やり取りをする過程で仕事が見えてくる。
自分一人では、仕事を整理する事も、段取る事も難しい。
また仕事を見えるようにするためには。
書く。書き出す。
書く事で、自分の頭の中から外へだす。
そうすると、自分の考えを客観的対象として捉える事が出来る。
そうしないと自分の頭の中は、いつも、カオス。
自分を知るためには相手が必要。
相手がいなければ無明の闇に沈む。
決断は、一つひとつの小さな決断の積み上げであって。
その小さな決断ができないと、大胆無謀な決断をせざるを得なくなる。
この様な事をモラルハザードという。
小さな決断が出来ずに追い詰められ、切羽詰まってリスクの高い、賭けのような決断をしてしまう。
日常的で簡単な事が、決めないから、モラルが守れなくなり、或いは、モラルが守られなくなる。
モラルは、決める事で守られる。
決断力は場数を踏むことで鍛えられる。
若い頃に場数を踏まないと決断力は身につかない。
歳をとると決断力も衰える。
歳をとって何も決められなくなる。
簡単な事も、否、簡単な事が決められなくなり、極端な決断をしてしまう。
自滅的で、破滅的な。
決断を身につけるためには思考力が大切だ。
考える力を失えば、自ずと決断力も衰える。
結果、馬鹿な決断をして自滅していく。
決めないと先に行けない。
総てが停滞する。
管理職やマネージャーは、人のために働くのが役割だという事。
組織では、このような過程を組織的に分担して行う。
これを、局面きょくめんでリードしていくのがマネジャーの仕事、役割。
局面ごとの、チームも、リーダーも変わる。それを統括し、一貫性を持たせるのが経営幹部。
故に、上級幹部には大局観が求められる。
目的と方針は頭で決める。
目的と方針を決める事で、中心と中心線の筋を通す。
目的や方針を頭で決めて、段取りをつける。
仕事の段取りは、基本的に「何をするか」が、一定に手順で表れてくる。
その手順に沿って、細目を詰めていく。
局面、局面では、作業を集中させる。
調べる時には調べる。
記録する時は。記録する。
整理する時は、整理する事に集中する。
そうしないと組織を制御する事は難しい。
試合をする前から、監督が、敗因を反省するのは、負け犬根性丸出しである。
チームを統率する事はできない。
誰が、いつ、何を、調べる(情報を集める)のか。
誰が、いつ、何を、記録する。(記入)
誰が、いつ、何を、整理する。(並び替える)
誰が、いつ、何を、分類する。(仕訳)
誰が、いつ、何を、再編集。(集計)
誰が、いつ、何を、決めるのか。(決定)
先ず、何をするかの手順を覚える。
その手順に沿ってその他の要件、枝葉をつけていく。
何をは、並行的に出てくる。
場所を調べる。
メンバーを調べる。
いくら。予算を立てる。
日時を調べる。
等など。
結局ね。
組織的仕事と言うのは、パーツとなる作業を人と結び付けて組み立てる事なんだよ。
プロモデルを組み立てるようなね。
だから、先ず、パーツとなるすべての作業を洗い出し、作業リストを作ること事から始める。
次に、人のリスト。
人の役割を決めて、人の枠組みを作る。これが組織。
後は、時間の大枠を組め。
この人、時間の枠組みの中に作業を組み込んでいく。
これが段取り。
作業を洗い出す手法の一つが、成果、成果では具体性が乏しので成果物を予め想定し、それを、作成する作業に置き換えて作業を洗い出す技法がWBSという。
いずれにしても、作業の洗い出しは経験と工夫が必要。
経験と言ってもね、二、三回やれば要領はつかめるよ。
この辺を理解していないと組織的な仕事はできない。
やったとしても、思い付き、テンデンバラバラな、行き当たりばったりの仕事になる。
事業計画なんていうのもね。
項目を挙げて並べてみる。
そうすると、組織や、日程、段取りの大枠がね、見えてくるから。
それを眺めながら、みんなで構想を練る。
ここを一人でやらないのが味噌ね。
一人でやってしまうと実際の作業の算段が付かなくなる。
この時に結論を迫るのは野暮よ。
試合の結果は、試合をやらなければわからないのに。
試合をやる前から、敗因や責任を追及するような事。
或いは、捕らぬ狸の皮算用。
先ず、枠組みを作らないと。
誰がは、その局面きょくめんでリーダーが決めていく。
チーム編成の問題。必要に応じて組織を組み換え当ていく。
これらの予定(いつ)を組み立てると計画が立ってくる。
組織は、横の水準、縦の水準を合わせるように調整をしつつ、粛々と進めていく。
これがマネージメントの極意。
組織には縦の系統と横の系統がある。
会議にも縦に役割分担、調節する会議と。
横の役割分担、調節をする会議がある。
この縦と横の系列を制御する仕組みが組織である。
リーダーが総てを決めるわけではないよ。
逆に、丸投げしていい訳でもない。
チームワークはチームワーク。
全員が一致協力する。
決めるべき人が、決めるべき時に、決めるべきところで、決めるべき事を決めるから成り立つ。
それを見極めないと、チームワークなんてできない。
監督には、監督が決める事があり。
コーチには、コーチが決めることがあり。
マネージャーには、マネージャーが決めることがあり。
投手には、投手の決めることがあり。
捕手には捕手が決める事がある。
監督がすべてを決めているわけではない。
どのボールを打つかは打者が決めるのは、打者だ。
ホームランを打たれたのを、監督や捕手の性に投手がするのはお門違い。
だからと言って、監督が、決めたことと違う事を、コーチが選手に伝えたら、チームの規律は失われる。
仕事中は、「俺、関係ない。」なんて言えない。
外野手が、試合中、寝っ転がったり、テレビゲームに興じるなんて許されない。
勝手に守備位置を離れるのも許されない。
監督や審判の指示には従う。
野球のルールがわからないなんて論外。
試合中は、ルールに従う。
責任を持って自分の役割をまっとうする。
試合中は試合に集中する。
仕事中は、仕事に集中する。
それがチーム。
仕事は、一般に、単一の部署だけでは片付かない。
決定や指示が下り、仕事を請け負った時、先ず、関係部署の責任者が集まり、自分の受け持ち、担当部署を決め、方針を決め、担当を指名する。
責任者の打ち合わせは、中立的な立場の人間に仕切らせる必要がある。
当事者同士では、利益相反関係や利害関係があるため、中立的な立場の人間がさばく必要がある。
いきなり、トップがさばくと調整(遊びがなく、ガチンコになる。)が効かなくなるから、一旦、中立的立場の人間が調停し、それでも不服がある場合、トップに最終的判断を仰ぐのを原則とする。
誰が仕切るか等、各部門の責任者は、トップから聞かれ時、答えられるよう、自分の意見、考えを持つよう。
中立的立場とは、無任所の役員、或いは、総務、関係性の薄い部署のマネジャー、責任者を指す。
担当を決めたからと言って、担当者が一人で仕事をするわけではない。
この点も誤解、錯覚している人がかなりいる。
実際の仕事は、基本全員でやる。
例えば、展示会でも、新規事業でも、各部門の責任者は、自分の部下と打ち合わせて、当面、自分たちが何をするのか、どのような方針でいくのかを、決めて上で、担当にセンターや他部門の担当と詳細を詰めさせ、担当の報告に基づいて、分担を決めて改めて指示する。
担当を決めて、ある程度、話を詰めさせておいてから責任者が決める。無論、担当に権限を移譲しても構わないが、その場合は、お互いの了承のもとに行う。
例えば、販売店会や社員旅行等で旅行会社を選ぶ際、担当は、事前に、責任者と打ち合わせて、二、三社に絞っておいて相見積を取ってから決める。
一社では選択の余地がなく、百社では、検討の余地がない。
よく「どうする、どうする」と恫喝するように決断を迫る部下や、一案しか持ってこないでドスを突きつけるように決断を迫る部下もいるが、礼儀知らずも甚だしい。
決定を求める場合は、相手が決断できるように、話を煮詰めてから、上申をする。
事情も説明せず、裏付け調査もせず、必要な情報を与えないで決断を求めるのは乱暴、無礼。
緊急事態を除いて、事前に、物事を整理してから上申するのが常識というもの。
オール・オア・ナッシングでも、選択の余地を与えないのもどちらも傲慢、無礼。
「下見をしておけよ。」
「下見をしないで仕事をするな。」
「地図も、案内もない。道筋もわからないでどうする。」
これは仕事も同じで、「道順、道筋もわからない仕事はするな。」
「行き当たりばったりの仕事はするな。」とよく叱られた。
最初は、誰にでもできる。
誰にでもわかる簡単なことから決め、始めていく。
誰にでもできる。
誰にでもわかることだから、決められなくなると深刻な事態に陥る。
すべてが停滞する。
例えば、集めて、指示を伝える。集めて状況を説明する。
報告させて、皆の考えを聞く。
担当を決め、皆の前で当人に伝える。
どうしていいか、わからなければ、真似をする。
担当を決めると仕事を作業に噛み砕く事ができる。
作業に噛み砕けば、工数が計算できる。
例えば、方針だけでも決めようかとすれば、方針を、方針を決める作業として切り出せる。
じゃあ、どうやって方針を決めると、さらに、作業を細分化することで工数が計算できるようになる。
打ち合わせして、検討して、調べて、レポートを書いてではない。
なんの具体性もない。
何がなにしてなんとやらの類。
意味不明になる。
仕事は、要件を満たしていないと成立しない。
また、動作レベルまでかみ砕かないと仕事にはできない。
かと言いてトップが動作レベルまで指示することは不可能である。
なぜなら、簡単な仕事でも何千、何万もの作業の塊だからである。
要件とは、誰が(実作業者の担当者、責任者、管理者、相手等)、何を(原料、対象等)、どうする(実際の作業、手段、成果物等)いつ(起点日、納期、実施日、作業期間等)いくら(予算など)をいう。
一つでも、要件が欠けると成り立たない。
「何が、何して、なんとやら」では駄目。
点で仕事をするなとよく言われた。
点と線を繋ぐような仕事もいけないと。仕事は、単純に作業を直列的に並べればいいと言うのではない。
人、物、時間、作業、「お金」などの要素が組み合わさって構成されている。
点では、空間が形成できない。
仕事を、立体的、時空間的に捉える必要がある。
全体像を描けないと、仕事は段取れない。
一人仕事は点である。線がとれない。
作業は、時間的幅(期間、何時から何時まで。)がある。
また、行為(動作)だけで成り立っているわけではない。
人(誰から誰に。)つまり人にも関係だあり、一人ではない。複数の人間が関わるから、同線が生じる。
また、実際の仕事は動作(見えようと、見えなくても)を伴う。
結果は、目に見える物(報告書などの成果物)にしないと評価されない。
時間も、人も、距離を作る。
つまり、幅だよね。
仕事は点ではなくて、幅がある。
作業には、期間がある。
距離を作るのである。
人も立ち位置を変える。
立ち位置が違う人の視点から見るから立体的なる。
円筒も横から見れば長方形で上から見れば丸。距離を置いてみる。
そうしないと実体は見えない。
誰が正しいかではなく、立ち位置の違い。
距離をとれれば、単位がとれる。
仕事は、先ず手持ち資源をラインアップし、リストを作る。
次に、作業を洗い出し、リストを作成する。
つまり、人、物、作業のリストをまず作る。
この段階では、完成度と言うより、見積もり程度と考える。
次に、作業を、いくつかの、グループに仕分けする。
次に、作業を、実行する順番に並べ。
個々の作業とその作業にかかる時間(工数)を結び付け、おおよその工数を洗い出すと同時に、個々の作用に着手日を決め全体を構築する。
工数の計算は、動作では計算できないので、成果物を作成する時間によって計算する。
例えば、事業計画は、事業計画書を作成するのようする日にちに置き換えて計算する。
並行的に、組織をデザインして、作業と人とを結び付けていく。(担当分け)
これら、最初の一連の作業を、最初に決めた担当者と共同で行う。
仕事と言うのは、今の自分の外に支点を設定しないと展開できない。
言い変えると、今の自分以外、つまり、今の自分の外に支点を設定して展開する。
例えば、担当を決めて明日、打ち合わせると決める事で、仕事になる。
つまり、自分以外の人を担当とし、今の外、つまり、明日、打ち合わせると決める事で、それまでの仕事を抽出し、確定する事ができる。
今の自分は、点で、幅がとれない。
広がりがない。
開けない。
担当を決め、打ち合わせの日を決める事で、その間の仕事が特定できるようになる。
そして、最初の作業が確定できればそれを梃子として。次の作業の展開ができる。
この作業を繋ぎつなぎしていると、全体像が浮かび上がり。
基本計画とコアの組織へと導かれる。
ここが、鍵とのなる。
鍵を見つけられれば扉が開く。
どんなに、稚拙でも、あらくても、未完成でも、スタートラインの事は、当事者が作り、メモでもいいから文書化しておく。
そうすれば、常に、スタートラインに戻れるようになる。
最初から、他人頼りは駄目。
最初に他人頼りしたら、最後まで主導権はとれない。
やりたいなら、自分でやらせてくださいと言う。
頭を下げる。それで、自分に腹落ちをさせる。
指示された時も、自分が決めた事として指示する。
そうしないと、指示された者は無責任と捉える。
つまり、最初から、自分が責任をもって指示していないととらえるからである。
決定は、関係者の前で宣言して、担当に伝える。
これが一連の動作。
今は、点である。
始めるとか、止めるとか。
始点、終点になれても、今に、作業を凝縮することはできない。
だから、時間を切る。日限を切るのである。
今は、ずっと今だからね。
仕事には始点と終点がある。
自分一人で考えているだけでは、自分も含め、誰も理解できない。つまり、認知されない。
考えた事は、外に出す、表す。
外へ出し、表現された事で自分の考えは、対象化され、客観的になる。
作業には、目に見える作業と目に見えない作業があり。
問題は、目に見えない作業は工数が計算できないので、目に見えるようにする必要がある。
それが文章化である。
目に見えない作業には、管理業務、企画、経営、分析、評価等がある。
担当は、すべてを理解している必要はない。
かえって、何もわかっていない人のほうがいい場合もある。
担当に何を期待するかである。
なぜなら、担当には、自己完結型の仕事を期待しているわけではない。
その点を、勘違いしている人が結構いる。
担当というのは単なる作業員を意味するわけではない。
担当を決めたら、担当に丸投げしていいと言うわけではない。
「よくわからない人間を担当にできない」と言う発想は、担当に仕事を丸投げしようとしている人の考え方だ。
担当を決めても、自分は仕事に関わらなくていいと言うのではない。
むしろ、担当は、自分の分身であり。自分に代わって仕事を代行させているにすぎない事を忘れてはならない。
学級は、組織ではない。
生徒間の結びつきがないからである。
最初は、答えでなくて、作業、誰に、何をさせるかを考える。そのために、目的や方針を決める。
例えば、目的や定義にしても、言葉の定義にしても、「目的は、✕✕」といきなり答えを出そうとするのではなく。
何をするかはわかっても、どうするか、誰がやるかはわかっていない。
目的を決めるのは、わかっている。
どの様に、誰に、何を準備させて、誰が、目的を決めるかはわかっていない。
その時、「目的とは」といきなり答えを出そうとするのではなく。
どうやって、目的を決めるかの道すじを先に決める。
定義には、要件定義と辞書的定義があり、業務上の定義は、基本、要件定義。
辞書的定義が、例えば、目的とは、実現しよう,到達しようとして目指す事柄。めあて。みたいな定義、観念的定義になる。
それに対し要件定義とは、目的とは、根上と森上、池田、勝呂、富井、大原、遠藤が社長の話を聞いて、富井が文章にした事を根上がチェックして社長に確認し決めた事とか。
適正価格の要件定義とは、勝呂が森上、池田、富井と打ち合わせをして、意見を聞き、取りまとめた事を文書にした、根上がチェックし、社長に提案し、承認を得て決めた事といった具体的な人や作業で定義した事をいう。
言葉の定義も誰にさせるかを決める。
その上で、どうするかを担当者に考えさせる。
原則、言葉を定義した者が、次の作業を担当する。
だから、誰に言葉を定義させるか。それが、実務上の定義では鍵となる。
作業は、担当者に読ませる。
なぜなら実際に仕事、作業をするのは、担当者だから。
つまり、実際に何をするのかは、担当者に読ませる。
担当者以外、実際の事はわからないから。
ただし、担当者には、いつまでに何をするかを具体的に言わせる。
そうしないと、実際の仕事に結び付かないから。
項目ごとに作業を洗い出していく。
例えば、目的をどのように決めるか。
目的を決めるための作業を特定する。
適正価格とは何か。
それを明らかにするためには、適正価格を定義する必要がある。
適正価格を、最終的に決めるのは誰か。価格を決める者が適正と考えている事が、適正価格の基準。
だから、最終的に決める人の考えや要求を聞かなければ、適正価格の定義はできない。
経費をとことん、削って、安くする事が適正価格なのか。(最低の賃金で過重労働させても。)
ある程度、将来に対する貯えを加味すべきか。
お客様の為になる基準は価格だけなのか。
適正利益を考慮すべきか等など。
それは、ポリシーの問題でもsる。
また、なぜ、適正価格を決めるのか。それは、実際の価格を決めるため。
そのように定義しないと、要件が定まらない。
項目と項目の関連を見る。
作業は、連鎖反応。
試合に勝てるかどうかは、チームの実力の問題だけど。
試合ができるように計画するのは実務的問題。
試合ができなければ、勝敗を問題にしても意味がない。
それは、勝敗を問題にする以前の話だから。
試合をすれば、実力はハッキリするさ。
でも、実力があからさまになるのを嫌がって試合ができないように振る舞っていたら、いつまで立っても結果は出ないよ。
なぜ、適正価格を問題とするのか。
適正価格を定義するのが、特に辞書的に定義するのが目的ではないからね。
適正価格を定義してどうするのか。
それが、目的の前提だから。
適正価格を定義して終わりでは、だめだからね。
適正価格を定義した後、どうするのか。
価格政策に結び付かなければ後がなくなる。
それは、当然、適正価格を決めるため要件に結び付く。
つまりは、わが社の価格を決めるのを目的として適正価格を算定するのが目的で、価格を決めるという目的を達成する為の要件は、価格を誰が決めるのかが、肝。
その上で、価格を決める者が決められるように情報を集め、案を作成する。
当然、価格を決定する者の要求、要望に基づて決められるように作業を仕組んでいく。
それが仕事。実務。
要件定義と言うのは、一個いっこ、一回いっかい違う。
つまり外延的定義。
「会議とは」と会議に共通した事によって、定義するのが、内包的定義と言うのに対し。
総ての要件を、漏れなく、抜けなく、重複なく上げて定義するのが外延的定義で、要件的定義は、外延的定義。
だから、項目が重要となる。
つまり項目は枠組み、よく、引き出しとか箱とか表現される。
項目を組み合わせて、枠組みを作る。
項目の中には、必須の項目と、固有の項目があり。
先ず、その辺をね、体得していく事だよ。
日時と言う項目は、引き出し、箱のようなものと考えればいい。
その引き出しに、1月25日とか、2月5日という情報を入れると言うイメージかな。
日時と言う引き出しと場所と言う引き出しを組みあわせ、その相互の引き出しの関係、働きを見て仕事を組み立てていく。
システムと言うのは解答を得るための仕組みであって解答ではない。
解答を得るためにはまず仕組みを作らなければならない。
それが組織。
試合の結果は試合をしないとわからないけど、その前に試合ができるように段取りを組まなければならない。