哲学を志すと言う事は、野垂れ死ぬ事を覚悟する事で。
今の日本には、哲学学者はいても、哲学者はいない。
少なくとも、知らない。

つまらぬ学歴など鼻にかけ、テレビなんぞに出ている輩は、よくて、哲学学者。
そうでなければ、詐欺師か、ペテン師の類。

哲学者が、世に受け入れられ、尊敬等されるのは、後々の事で、生きているうちは、世に受け入れらるよりも、疎んじられ、侮られ、嫌われるのが通り相場。
ほとんどの哲学者が、野垂れ死ぬか、迫害を受け、中には、刑死する者もざらにいる。
世の中に受け入れられようとか、認められようと思ったら、哲学なんて大成しない。
かといって、埋もれてしまえば、単なる、自己満足に過ぎなくなる。
確かに、哲学なんて、業の深い生業である。

仮に、哲学者が傍にいても、これほど、付き合いにくい人種はいまい。
僕なら、付き合いたいとも思わないだろう。

多くが、気難しがりの、変人ばかりが多い。

日本人は、自分の考えを明確にすると言うのを厭う傾向がある。
要は、控えめ、謙虚さが求められるので、差し出た事を言うな。
でしゃばるなと、個人を前面に出すと叩かれる。
それが、日本に哲学者が生まれない要因の一つかもしれない。
また、率直、直截な表現が好まれず、どちらかというと婉曲的な表現が好まれる。
ところが、哲学は言葉一つも明確に定義する事が求められる。
曖昧模糊とした表現は哲学や科学には合わないのである。
それも、日本哲学が育たない要因なのかもしれない。

とにかく、哲学では独創性がなければならない。
しかし、その独創性は奇異を狙ったものであってはならないのである。
あくまでも、論理に則った上での独創性である。