わからないことをわからない。
しらないことを知らないとする。
汝、己を知れ。
それが哲学の原点。
何がわかっていて、何がわからないのか。
何を知っていて、何を、知らないのか。
それを見極める事が、すべての学問の原点であり。
哲学の原点。
哲学は、基本的に存在論と、認識論、論理学の三つから成り立っている。
何がわかているかを突き詰めると、
存在論に行き着く。
その前に、わかっているかいないか。
知っているかいないかを、突き詰めるのは、認識論である。
何がわかていて、何がわからない事突き詰めると、あるか、ないかに行き着く。
それは、存在論である。
あることあるとし、ない事をないとする。
その上で、あるか事を前提として論旨を組み立てていく。
それが、科学である。
哲学だって、科学だって、自明なことから始める。
誰でも、当たり前だと認められる事から始める。
「あ、リンゴが落ちた見ただろ。」
「熱い、火はやけどするほど熱い。」
「俺は生きている。」
「俺は、この国で生まれた。」
そんな当たり前な事。
誰だって、当たり前で明らかな事と認める事を根拠とするから、説得できるので。
根拠があいまいなうえに、訳の分からない事を言っていたら、独り善がりになる。
夕べには、明日の朝の訪れを、人々は、信じ切って日々の暮らしを続けている。
朝には、夜が、来ることを、信じてその日の営みをしている。
日は、昇り。日は、また沈む。
朝が訪れ、来ることを信じているから、人々は安心して生活できる。
これ程の奇蹟があるであろうか。
大宇宙に一定の法則があるという事、これ程、真実があるであろうか。
広大無辺な宇宙にも一定の法則がある。
この事実は、奇蹟以外の何ものでもない。
そして、その壮大なスケールからしても、神の偉大さを示す奇蹟も他にない。
しかし、その原理は、人間が、作り出した荒唐無稽な漫画や物語とは違い、単純なものだ。
この単純さこそ神の偉大さなのだ。
仮に、新たな法則が見いだされたとしても、法則を新たに作り出したわけではなく。
ただ、それまで気がついていなかった法則を乱したに過ぎない。
それは、人が、気がつかなかっただけなのであって、責任ではないからである。
自らの愚かさを神の責任にするのは、恥の上塗りに過ぎない。
当たり前なことを当たり前の事として認める事。
それが哲学の第一歩。
訳の分からない、意味不明な。哲学的と称する用語を駆使したところで真理は語れない。
だから科学も一般的な事、普遍の事、自明な事から論じ始める。
私はここに存在していて、今生きている。
この当たり前なことを信じ、総てに前提としたところから、哲学は始まる。
「Cogito,ergo sum」
「我思う、ゆえに我あり」
存在証明に過ぎない。
重要なのは我ありで。
「我笑う、ゆえに我あり」でも。
「我泣く、ゆえに我あり」でもいい。
私と言う存在が、今、ここに存在しているという、ごくごく、当たり前なことを受け入れる事。
そこから、哲学は始まる。