死というものを化学反応みたいに受け入れられるか。
三歳の子供は、五年前にはこの世に存在しないのである。
しかし、子供は、今、目の前で寝ている。
自分の居場所をしっかりと確保して。
これは生々しい現実で、親にとってその子は、実在である。
つまりは、そこにいるのが当たり前な存在なのである。
これはある意味で存在の本質でもある。
死というのは、化学反応とは同じ反応とは言えない。
存在、非存在の問題だからであり、生々しい現実だからである。
こういう事は、物理学的には実証のしようがない。
生命は、物理学的実体を持たないからである。
命は、失われようと生成しようと物理学的世界には、影響しない。
それが物理学の限界でもある。
この限界が、どこかに忘れ去られると、物理学は空疎な学問になる。
死は、物質的な変化と本質的に異質なのである。
命。
それは、物質と生き物との違いをもたらす。
命があるから生と死が分かれる。
命は物体を主体に変える。
命によって自他が生じる。

命。
生きている者にはあるのが当然。
しかし、失えば存在そのものを危うくしてしまう。
宇宙の始まりから流れる悠久の時間に比べて、命は、一瞬の煌めきなのかもしれないが、その一瞬の輝きに永遠がある。
ハビタブルゾーンは、この広大な宇宙でも極々狭い。
この地球以外に生き物がいるか、いないかも、定かではない。
大体、地球は人間だけのものではない。
人は、いつから神を超えようとするようになったのか。
人間は、神を超えることはできない。

命があるからこの宇宙の存在を明らかにする事ができる。
生きているから現世は現れる。
それが神の意志なのかもしれない。
広大無辺の世界も命がなければ知られることはない。
気を込めれば命が宿り、命が宿れば、心が生まれ、心が生まれれば、神が現れる。
命のこもらない物は、物にすぎない。
魂がない。
魂のない肉体は骸にすぎない。
やがて朽ち果て土に帰る。
生きているからこそ。

生きているから感情が生じる。
涙も出てくる。
確かに、命は悲しみと喜びの源だ。
命がなければ恨みもない。
恨みもないが、愛も喜びもない。
苦もないが、楽しみもない。
善もなく、悪もない。
泣いて笑って、憎んで愛して、欲にまみれ。
真善美の分別が生まれる。
汚くて、醜くて、悪くて、嘘で、きれいで、純で、清く、正しく、美しく。
生病老死は、仏教では、四苦なのだ。
四苦八苦しながら、人は生きているとする。
諸行無常でもある。
万物も流転する。
しかし、それも命があるから知ることができる。
ならば、生を楽しみ、死を從容と受け入れるしかないか。
生(なま)で生(なま)で泣けてくる。
それが命。
否定しようが、肯定しよう、生きているのは、確かで。
それが神の実在を証明している。
その帰結が死なのかもしれない。
なぜなら、死は自覚のしようがない。
今際の際まで、人は生きているのであるから。
神は、天に向かっても、地に向かっても、計り知れない世界を見せつけ、外にも内にも∞を見せつける。
ミクロの世界も、マクロの世界も、限りない。
全体は統一され、細部まで精密に計算されつくしている。
これでもか、これでもかと、己の小ささを思い知らされる。
わかった、悟ったと一瞬思っても、すぐに新たな謎や苦悩がもたらさる。
天と地、生と死の間、我が命はある。
嗚呼、神よ。
それを無条件に受け入れよ。
黙って素直に受け止めろと言われるのか。
それが、神の意志か。

人は、神の圧倒的力の前に、跪くしかないではないか。

人は、神にはなれない。
人に与えられた時間には限りがある。
限りない存在である神を人は超えられない。
しかも、時間は、不可逆。
老いは、容赦なく若さを奪い取り、否応なく衰えさせる。
それでも、その宿命を受け入れ。
神を信じて、自分以外の存在を愛することができれば、過ぎゆく時間を楽しむゆとりも出てくる。
生を楽しみ、ゆく時の流れを愛でる。
何を怒り、何に抗う。
何を嘆き、何を恨み、何を呪い、何を憐れむ必要があるのか。

受け入れてしまえば、生も死も、透徹した眼差しで眺めることもできるのかもしれない。

ふと、夜、目が醒めた。
「夢なのかな。」とつい口に出た。
「一夜の夢よ。」耳元で囁く声が聞こえた気がする。
ソファに座っていて、いつの間にか、微睡んでしまったのかもしれない。
目が醒めたら、目の前に夜景が広がる。
夜の静寂の底には、今も、草花の、虫たちの、鳥達の、生き物たちの、人々の、そして、コロナウィルス等の無数の命の営みが隠されている。
なんと、神の偉大な事か、玄妙な事か。
受け入れてしまえば、生を楽しみ、死を見つめ、己の愚かさえも許すことができるようになる。

受け入れてしまえば、死は、単なる帰結にしか思えなくなる。
きっと、その時、彼岸で神は待っててくれるのであろう。
懐かしい記憶とともに。