物事には名と実がある。
名は、認識から生じ、実は存在に基づく。
名によって識別し、実は力を働かす。
名には際限がなく、実には限りがある。

経済では名目は「お金」で実は物と人。

名というのは名付ける事で、実というのは名付けられ以前の存在そのもですね。
問題は、時間が関わる事で、名と実が乖離する事です。
経済の名目と実質の差は認識された時点の価値と現時点の価値の差ですね。

物事には裏と表があります。表に現れることを公式とすれば裏で働いているのが非公式。

根本は事実ですと。実にある。名目に囚われず、実を重んじ。ただ、相手に伝える時は名目による。

お金の動きに振り回されないで、実、物と人の動きを見る。

先ず実を見る事が大切で。その上で名目、つまり、どのように認識するかを考える。実の変化が名目にどのような影響を与えているか。
表面の動きの惑わされずに裏の動きを注視する。表面に現れるのは名目的動き、裏で動いているの実。

倫理問題は、根本は、思想、哲学、最終的には信仰に至るんだよ。
何故なら、倫理は個人の信条に基づく事で公の事は、法や掟、契約に基づく。
つまり、倫理は、私的の事、自己に基づく事。
この点を、理解しておく事が肝心で、倫理と法を混同すると、公私のけじめがつけられなくなる。
倫理から発するのは礼で、礼は、倫理と法に欠けている部分を補い、繋いでいる。
故に、倫理も礼も、基本的には拘束できない。自分が守らなければならい規範とされる。
法には違反されていないけど道義的にはねとか。
公序良俗に反しないというように表現される。

法や掟は、私的の規範、倫理があって、その倫理に基づいて集団的合意が成立するそれが掟であり法。
法には成文化された法と成文化されていない法があるが。
また、人の社会の法は言葉に基づくが、言葉を持たない動物にも掟や法はある。

故に了解可能性が重要な根拠となる。
科学では事実が了解可能性の根拠となる。
法は、生存が了解可能性の根拠となる。その次に集団活動。

倫理とは何か。分別の基準である。
分別は、認識のよって生じる。故にに認識上の問題。
故に相対的。存在から直接発する絶対的な事ではない。
認識と了解可能性、合意を前提としている。故に契約。

対象の、知覚し、その存在を信じ、識別する。それを分類し、名づけ、意味を持たせ、再構築する。
その過程を経て形成するのが倫理。
倫理が形成されるまでの過程は私的領域。
そして、意識が形成される初期の段階に信じるという行為がさしはさむ。

ゲーテが、知り合いの夫人の不倫現場を見つけた時。
見た、でも、私は信じないと言ったとされる。
この場合、なかったことになり、了解可能性は成立しなくなる。

だから、倫理は、根本的に思想的問題であり、私的問題。
そして最後は信仰の問題に至る。
例えば、プライバシーが典型。
全体主義国家や、独裁主義、共産主義国家ではプライバシーそのものが存在しない。
プライバシーという概念は、思想信条の自由、言論自由、私的所有権に基づいているからで、思想信条の自由、言論の自由が確立されておらず、私的所有権が制限されている国では、プライバシーの概念そのものが成立しない。

僕は、その隙間を埋める目的で科学哲学、信仰を学んできた。
だから、夾雑物をそぎ落とし、存在、事実のみを根拠とし、信じる。
事実とは、今、自分が直接認識できる対象を言う。

分別が入る前の原認識、原存在にのみ、論拠を置く事で、分別のフィルターがかからないようにする。
その上で、認識を相対的として実証性という検証をもとっめる。
検証によって検証で思想による変更を是正する。
ただ、意識の根底には思想があるという事実は前提としなければならない。

今の日本人は、敵という言葉に過敏すぎる。

何が、味方か敵か。
誰が、味方か敵か。

ウィルスは体の敵。
犯罪者は、社会の敵。
侵略者は、国の敵。

識別上、敵味方の判別も求められる。
ただし、敵味方も相対的であり、前提条件や状況によって変わる。
要は、置かれた立場によって自分と対立関係にあるかどうかを識別する必要があるからで。
例えば、聞くという行為は、相手からすると自分を攻撃しているとみなされる危険性がある。
攻撃されたと思うと防御体制、ガードを張る。
故に敵とみなされ内容の予防処置をとる必要があるが、敵味方の立ち位置がわからないと対策が立てられなくなる。
相手がガードを張る前に簡単に質問の意図を相手に伝える必要がある。

相対的だという事です。白黒、真偽、正否、是非、善悪、美醜、清濁、聖俗、成否、勝負、高低、上下、入りと出、表裏。名実、右左、敵味方、総て、認識は相対的。
一方を否定すれば他方も否定する事になる。悪を否定すれば善を否定する事にもなる。
それで、儒教では中るとか、仏教では空と。
敵を否定すれば誰が味方なのかもわからなくなる。
正しいを正しいとするから間違いを間違いとできる。過ちを過ちと認めるから糺すべきことが見える。

厭な事、汚い現実から目を背けてはいけない。
美醜もまた相対的。清濁併せ呑むことです。
蓮は泥沼の中にきれいな花を咲かす。
それが仏教の根本です。