昔は、学校と家庭、地域社会が分担して、子供の教育をしてきた。
ところが、第二次世界大戦後になると、学校教育が、子供の教育の全てを仕切るようになった。
戦後、七十年たち、その弊害が顕著になってきた。
つまり、社会常識や家庭のしつけが欠如した大人が増えてきたのである。
その為に、正常に社会生活が送れなくなり、引きこもりやニートなどが社会問題化し、あるいは、家庭崩壊、生涯未婚、介護問題などが顕在化してきた。

社会人として、あるいは家庭人としての基本的な訓練がされずに、学校教育に偏った教育がなされてきた結果である。

学校、学級制度にも組織はある。
しかし、学級制度というのは極めて特殊な組織だという事を忘れてはならない。
学校教育の中でも、一番の問題は、チームワーク、組織の一員としての基本的知識が得られない事にある。
それは学校の組織は、学校っでしか通用しない特殊な組織でありながら、学生は、学校の組織の中に囲い込まれているという事である。
苛めや、不登校などの問題が学校内の問題でしかなく、社会や家庭から孤立してしまっていることである。
その結果、自殺などの悲惨な事件によって表面化した後でしか家庭や社会が関与できないといった事態になる。

学校生活が長ければ長いほど、社会常識が身につかなくなる。

あたらめて、組織とは何かを理解する必要がある。

組織論者の多くは、実際に、組織を編成したり、運用したりした経験が乏しい。
いきおい、組織の働きや、形態に偏った見方をする傾向がある。
組織は現実であって仮想的なものではない。
生きた仕組みである。

一人前の社会人として社会に出る為には、チームワークの基本を身に着けておかなければならない。
かつては、チームワークの私的な部分の躾を家庭が、公的な部分も教育を地域社会や職場が担ってきた。

先ず、チームワークの基本には、名と実がある事を理解する必要がある。
そして、名と実の働きを正しく理解していないと組織は正常に機能しない。
名とは名目で、実とは実質、実体である。
名目GDP、実質GDPというように、名目と実体は会計や経済でも重要な概念の一つである。

組織は、権威によって維持され、権力によって、動かされている。
学校教育の危険性は、反権力、反権威的教育がされていることになる。
無論、学校も組織である以上、権威によって維持され、権力によって動かされている。
しかし、実際は、学校で、反権威的、反権力的に教育がされており、それが学級崩壊を引き起こしている。
組織にとっては自殺行為である。
なぜなら、反権威、反権力という思想は無政府主義であり、組織そのもの否定につながるからである。

反権威、反権力思想はアウトロー、つまりは、無法者の礼賛に結びつき、反社会集団、暴力団に結びつくからである。
ギャング映画ややくざ映画などがその典型である。

体制を動かす力の根拠が権威であり、体制を動かす力の働きが権力である。
体制は、組織であり、構造である。組織は、権威や権力を制御するための仕組みを言う。
反体制、反権威、反体制は、これら組織の一切合切を否定する。故に、無政府なのである。
無政府は、組織、体制に関わること、秩序も規律も法もすべてを否定する。
つまり、無秩序、無規律、無法な状態をつくりだそうとする。
なぜなら、この様な状態は革命的状態だからである。

革命家や革命集団が反体制、反権威、反権力を標榜するのは、革命的状況を生み出すためで、一種の方便で、必ずしも無政府主義者とは限らない。
ただ、革命家は革命的状況を生み出すために、時として野合する。

国家論は、組織論の一種で、本来、権力や権威をいかに制御するかが課題なのであり。
権力や権威を否定したら国家そのものが成り立たなくなる。
石油や電気といったエネルギーは危険物だからといって、エネルギーそのものを否定するのは無意味。同様に、権力や権威を否定するのは馬鹿げている。

権威、権力が悪いのではなく、組織の中で権威、権力がどのような働きをしているのかを、正しく理解せず、権威や権力の扱いを間違うから悪いのである。

そして、権威や権力の働きを正しく理解する為に、名と実が重要な役割をしている事を頭に入れておく必要がある。
権威が名、地位となり、権力は働き、権限となる。

権力権威は、組織の統一性、整合性を保つための力、全体を制御するための力を生み出す根拠
となる。

権力や権威に言及していない組織論は意味がない。
本質的な事が欠けているからである。

権威、権力以外に、現実に組織を動かす力、手段には、情報やお金がある。

組織のメンバーは権威に従い、権力によって動かされる。
名は権威によってもたらされ、実は権力から生まれる。
名は聖であり、実は俗である。
名は位置、実は働き。
組織は、位置と運動(働き)と関係から成り立っている。

組織はチームであり、集団(グループ)とは違う。
チームには目的があり、役割(位置)があり、働き(権限と責任、権利と義務)があり、関係がある。
関係は役割と働きによって形成される。

変易(運動)、不易(位置)、簡易(関係)
また、組織の位置には表と裏、働きには陰と陽がある。
これが組織の働きに作用と反作用をもたらす。

目的やリーダーが陰に作用していることがある。
暗黙の了解とか、裏ボスという事である。
ただ、陰に作用している場合、公式に制御するのが難しくなる。
故に、いい状態とは言えない。
何らかの理由で陰にならざるを得なかったとしても、極力速やかに陽に作用するように努める。

組織には、目的があり。目的が名を成す。
目的によって組織が形成されたら目的から活動が生じる。活動は方向(方針)を持つ。
目的と方針から関係が成立し、組織が形成される。

目的とよく似た概念に目標がある。
目標は目指す位置、場所、標的。
つまり、指標で、主として、数値や場所でされる。

いわば、目的が名で、目標が実を表す。
故に、目的と目標は併記されることが多い。

組織には中心がある。
中心がなければ組織は統一性を保てなくなり、分裂する。
故に、組織は、中心を一つ決める事が求められる。常に。

たとえば、組織の一部が自立した働きを求められた時でも、中心を一人決める必要がある。
それがリーダーである。
たとえば、ある拠点が、災害で孤立した時、統一した行動をしようとしたら、リーダーを一人選ぶ必要がある。
リーダーが一人選ぶことができなければ集団は分裂する。
組織は、一つの中心を持つ。一つの中心を作る。生む。

非常時、緊急時は特に、速やかに、誰が全体を仕切り、差配、指図、指揮するかを決める。決められるようにする。

日本では、かつて、リーダーの事を、差配、支配、頭、仕切り、親分、棟梁、世話焼き、束ねと呼んだ、これは、リーダーの働きを象徴している。
つまり、リーダーは束ね、差配し、指図し、仕切るのが役割であり。
チームの頭でもある。また、親として面倒を見て、世話を焼く。

つまり、リーダーに求められたのは権力、権威を持つのにふさわしい人格、人徳である。

名実を求められた。
名だけでなく実もなければならず。
実だけでなく名も求められた。

おかしなことに、山賊夜盗、海賊、やくざ、ギャングですら、ボスとしての人格が求められる。
ボスとしての信義、掟がなければ組織は纏められない。
任侠道。

組織には、何らかの強制力が払いている。
組織に働く強制力は、組織を維持し、制御するために不可欠な力である。
そして、その強制力の根源が権力であり、権威である。
組織は、強制力がなければ維持、制御ができない。

強制力は、法や規則によって保証されている。
強制力は、指示、命令によって発揮される。

組織は指示、命令によって、動かされている。

仕事には、名と実がある。
名は言葉であり、実は行動である。

国を護るという目的は同じでも、行動が違う事がある。
国を護る為に、戦うのか、戦わないのか。
国を護るという目的で戦う人もいれば。
国を護るという目的で反戦を叫ぶ人もいる。
その人の思想は言葉と行動を通して現れる。
言行は表裏の関係にある。

指示、命令は名(言葉)と実(行動)からなる。
言葉で表し、力によって行動を強制する。

命令、訓令号令からなる。
訓令は命令に主旨や目的を表現する部分であり、号令は行動を触発する部分である。
訓令は意図。号令によって指図する。
命令は意図を伝えて指図する。

名は、理であり、論である。
実は、体であり、形である。

名と体を表す。

憲法は、理念と制度とからなる。

組織の位置、役割から生じる力が権利と義務、権限と責任で。
権利と義務、権限と責任は作用反作用の関係にある。実体は一つである。
権利と義務は、組織の一員であることから生じ、権限と責任から発生する。

組織は位置(役割)と働きと関係によって形成される。
権限と責任は位置と働きを表し、位置と働きから関係は生じる。
よって、組織は権限と責任から生じる関係を基に構築される。

権限と責任は、強制力を必要とする。

力は、賞罰によって効用を発揮する。

賞罰の根拠は法である。
法は手続きによって成立する。
賞罰は手続きによって発現する。

法は、権威によって生み出され、権力はよって力を発揮する。
権威は手続きによって正当化される。

これらの力関係によって権威と権力は制御される。

権威と権力の根源は組織の目的にある。
国家権力の本源は建国の理念であり、国民の意志である。
それを実現するのは国法と国家制度、施策である。
それぞれ、司法、立法、行政の本となる。

国民国家における最高の権威は憲法である。

仕事は、言葉と行動と結果によって検証される。
言ってもやらなければ、認められないし。
やっても結果を出さなければ評価されない。
言わずにやっても認められないし。
結果を出しても評価できない。

先ず言葉にする。(指示する)
それを行動にうつす。
結果が出たらそれを目的と照らして評価する。

言葉にしなければ、誰にも伝わらない。
言葉に出しただけではだめで行動に移さないと。
そして結果を出さないと。

結果オーライは、許されない。
結果が良ければいいじゃやないかと言うのは間違い。
どのような目的で、どのような指示が出て、どのように実行した、結果どのような成果が出たか。
その一連のプロセスを見て評価されるのである。

指示を聞いても行動を起こさなければ、抗命なのである。
進めと号令が出たのに、動かなければ、明確に逆らっているとみなされる。

指示は、仕事は行動が伴って初めて、現実となる。

いくらやりますと言っても行動が伴わなければ嘘になり。
また、仕事は情報とお金で、どちらも出し入れによって効力を発揮する。
つまり、仕事も、一連の出し入れによって効力を発揮する。

要するに受信しただけだは駄目で、発信なければ。

捕球しただけではだめで、投球しなければ。
ボールを自分が握って投げなければ試合は止まってしまう。

役職があって、仕事をして、実績によって評価される。
指示されて、作業をして、結果によって評価される。
人事の採用係が、採用活動して、何人、採用したかによって評価される。
販売員が、商品を販売して、売上高で評価される。

採用をしなさいと言われた。
では、どのように行動に移しますか。
いきなり採用活動しますか。
一人で採用活動をしますか。

ところで、なぜ採用をしなければわかっていますか。
目的もわからないでどのような採用活動をするのですか。

冷静に考えて。
当座の作業、やる事を洗い出してみよう。
何がわかっていて何がわかっていませんか。
今わかっているのは、採用をしなさいと指示された事だけではないじゃないですか。
それでどうやって採用活動に、どこから着手するのですか。
協力してくれない、やってくれないと文句を言う前に、なぜ、協力してくれないか、助けてくれないかを考える。

改められる事を改める。
出来ることから始める。

言葉をいくら改めて、行動を改めなければ、何も改まらない。
行動を変えなければ、結果は変わらない。

自分の考えを理解してもらったか。
納得してもらったか。
相手に何をしてほしいか、指示したか。
経過を都度、報告したか。
結果を共有しているか。
自分の気持ちを伝えたか。
次何をするか、何をしたらいいか明らかにしたか。

つまりは、行動である。行動を変えるのである。言葉ではなく。
言葉でわかっても、行動に移せなければ、結果は出ない。
相手の言っていることが分かっても、何をしたらいいかわからなければ、言われたことを理解した事にならない。
行動が結果に結びつかなかったら、言われた事を実行したことにならない。

予算を立てる過程で予算を全社員に浸透させる。
予算を立てることが問題なのではない。予算は予算である。
予算を立てる事を通じて、立場に応じて会社の事情を全社員に理解させ、自分が何をすべきかを悟らせ、各々自分の仕事の構想を持たせ目標をはっきりさせることが目的。
ただ、ノルマを決めて押し付けても意味がない。
実際に経理を管理する者が、経費を管理する目的を理解し、いかに生きた金の使い方をさせるか。
だから機械的に決めても意味がない。

販売店会活動を、お客様に説明することを通じて社員に販売店活動の意義目的を理解させる。
お客様が展開活動の意義を理解し、お客様の協力えるためには、先ず、現場の長が正しく理解し、担当に間違いなく伝えなければならない。支店長が理解しているだけではだめで。

目的や指示は、ただ、聞くだけではだめで、聞いて、説明する。報告することが求められる。

実際にやろうとしている施策を見ないと、どの程度、理解しているかは、分からない。
故に、自分で目的を書き、合わせて、当座やることを書いて案として速やかに提出する。
やれば、自分がどれだけ理解しているか、言い換えると、わかっていないかが、ハッキリする。

間髪を容れず、即日翌日迄、速やかに、素案を提出する。

採用をせよと指示された者は、主旨目的を聞いて、その内容をまとめ。
目的に沿って、何をするのか、
新聞広告を出すのか、ハローワークに行くか、学校訪問するか、仲介業者を使うか、紹介者を募るか。
簡単に書いて、即日、遅くても翌日までに上司に提出する。

提案を受けた者は、目的を理解しているか、目的と施策があっているかをチェックした上で、間違いがなければ正式に承認し正式に指示する。

その上で、上司に、部下に、関係者に、そして、仲介業者に、採用の主旨目的を、採用担当者は伝えなければならない。

担当者は関係者に採用の主旨目的を理解できるように説明する、義務と責任がある。

この一連の作業をせずに正式に作業に着手してはならない。
時間をおいてもならない。
これが実務の鉄則。なぜなら正確に仕事が繋がらなくなったり、ずれが生じるから。
一人でも、一週間もずれが生じたら、仕事にはならない。全体がやり直しになる。

その上で結果が出たら目的と照らし合わせて評価する。

上司は、基本的に部下の仕事を支援するのが役割なので、単に批判したり、説教をしているわけではないから、素直に助言として受け入れる。
指示でない限りは、査収的に採用するしないは自分尾責任で決まる事で、口答えすると、無駄に時間がかかる事になる。

やってない理由とか、できない理由を挙げる必要はない。
仮に、あげるとすれば作業に影響を及ぼす場合のみで、いかに目的を達成できるかに集中すべき。
やってありますというのも、場合によっては意味もなく相手を感情的にしてしまう。
問題はやって歩かないかでは、確実にやらなければならない事、やってないと困る事で、それを確認されたのだから言い方を注意しないと論点がズレる事がある。

「今やろうと思ったのに」と言うのは典型。
言ってもしようがない。

任されたといってもか勝手にやっていいというわけではない。
任されたからと言って勝手にやったら、つながりが切れるからで、全体の方針や目的を理解していなければ、全体との関係が失われてしまう。

任されたというのは言葉であり、任されたらどうするのそれがわからないと仕事は実体を持たない。
指示された事を作業に置き換え。プロセスを明らかにする。
そうしないと、指示命令を正しく理解したかどうかを検証できない。
それで我々は指示されたら復唱させられたうえで、それでどうすると詰問された。
即答できなければ、わかっていないと、どやされた。

組織には、始まりと終わりがある。
仕事には、始まりと終わりがある。

それは、組織や仕事には、時間が関係するからで。
組織や仕事を人為的に管理するためには時間を任意に区切る必要が生じるからだ。
仕事や組織を時間的に任意に区切る為には、始まりと終わりを明確にする必要がる。
始まりと終わりの基準は目的を根拠とする。

教育とは、百姓仕事のようなものである。
種をたたいても芽は出ず、根 を引っぱったところで根は伸びない。
草をとり、水をやり、肥料をやるといった環境をよくする地道な努力をし、それでもなお、天候が不順な年は、 よく育たない。
教育は、辛抱強く、人を見守る事が基本である。

教育と言うと、誤解、錯覚している人がいる。
教育しようとしている相手を直接どうこうしようとしても目的は達成できない。
先ず、当人が学びたいという意志がなければ、何を教えても、自分のものにはできない。
どこまで言っても他人事である。

自分の子を躾けるのと他人の子を躾けるのは本質が違う。
自分の子を躾けるのはわが事、わが身に降りかかってくるからで。
他人事では済まされないからで。

教わる気のない人は教えることはできない。
教育は互いの利害が一致し、共鳴共感しなければできない。
塾と学校の違いである。

塾は希望の学校に入りたいという当人の意志が働いている。

先ず、学びたいという動機がなければ教育は成就しない。
自分とって必要だと思うから学ぶので。

だから、なぜこれから教える事が必要なのかをはっきりさせる。
つまり目的を明確にすることである。

また、当人の脳に直接知識を焼き付ける事は、できない。
言葉を暗記すれば言葉の意味を理解できるわけでもない。
体験や経験を通じて言葉の意味を理解するので。

仕事も同じ。
目的を言葉で説明すれば、相手が理解できるわけではない。
いろいろな角度であるいは行動、行為を通して目的を体得していく。
言葉だけで理解するのではなく、行動を通して理解させていく。
その為の場や仕組みを作る事が肝なのである。

いくら、目的を言葉で言っても、それでも、毎日、口に出せば多少は違うかもしれないが。一、二度、口に出したからと言って、理解できるはずがない。言葉より、行動行為を通していかに理解を深めるか。

ただ、言葉にまず出さないと相手には自分の意志は伝わらない。

言葉に出して、行動に移し、結果を出してはじめてわかる。
教育も、本来、経験主義教育が主流だったのである。

さて、権威と権力は組織を統一し動かす力である。
国家権威や国家権力を私的目的で、保身、自分の欲望の為に活用すると権威も権力も公の為の働きが疎外され、公と対立するようになる。(これは、どんな小さな組織でもいえる。)
これは権威、権力の悪用であり、その悪影響は万民に及ぶ。
権威、権力、組織が悪の手先になる瞬間である。

自分を超えるなにものかを権威と言い。
自分を超える力を権力という。

神の力を得たと思いあがっても、神の力を制御できなければ、自分の得た力で自滅するだけである。

人は常に自己を超越した存在を畏敬し。
自分を超える力がる事を悟らなければならない。