ルール違反に関しては、待ったなしに処罰する。
誰であろうと例外なし。
何をもってルール違反とするかは、基本的には、正式な手続きよって定められた法に従う。(立法)
しかし、法を解釈するの人である。
故に、法の最高責任者が決める。
(司法)ただ、それをいつ、どのように実行するかは、執行者が裁量で決める。(行政)
これを三権分立という。
ただ、一般に、小さな組織では、トップが、三権を兼ねる場合が多い。
その場合、トップに権限が集中する。
よく言われた。罰せられる人間は、ある意味で、潔い。
罰せられて、終わるからである。
罰せられると言う事は、許される事だもあるから。
一度罰せられたら、それ以上罰せられる事はない。
しかし、罰した側は、一生、罰した事による責が問われる。
結論を出した件について言い訳は許されない。
批判は、甘んじて受ける。
しかも、一度下した決断は撤回を許されない。
問題は、トップである。
トップは、自分に厳しくなければ務まらない。
なぜなら、トップを罰せられる者ががいなくなるからである。
トップは、自分で自分を裁かねばならない。
反対に、自分で自分を許さなければならない。
どうしても、自分に甘くなるか、厳しくなりすぎる。
どちらにしても、公平さに欠く。
徳に、年をとると年々難しくなる。
一度規律を緩めたら、二度と規律は取り戻せない。
それぐらいの覚悟が必要。
これくらい、少しぐらい、穏便にと、規律は緩んでいく。
規律の緩みは、簡単には取り戻せない。
結局、どこかで、極端な事をせざるを得なくなる。
最後まで、公正さを貫いた指導者に会った事がない。
名君も独裁者も惨めに晩節汚すものである。
だから、真の民主主義国は、トップの任期を厳正に守る。
老いて、自分に甘い者が、権力の座に居続ければ、クウデターや革命によってでしか規律が保てなくなる。
トップの交代により弊害より、任期の延長の弊害が大きいとみるのである。
トップは裁断する事ですべての責任、罪をトップが負うのである。
それで、終わらせるのがトップの責務。
裁定が下った後に文句があたら、トップに向かって言え。
かと言って、罰する事に躊躇しては、ならない。
なまくら刀でゴリゴリするように、処罰したら、苦痛を長引かせ、傷口を広げるだけだ。
処罰は果断に、一気、迅速にやる。
処罰できないのは自分がかわいいからだ。
でも、後々、自分に返る。
子供を叱れるのは、突き詰めると親だけである。
親の承認がなく𠮟れば、親に背かせることになるからである。
しかし、躾けもやり方を間違えれば、虐待である。
愛情があれば許されると言う事ではない。
そこが難しい。
ただ言えるのは、叱れない親は、子を守れない。
子を叱るのは、子に危険が迫るからである。
軽い罪程、うやむやにしてはならない。
今回は、軽い罰で済むけど。
もし、ここで見逃せば、次はもっと重罪を招く。
重い処罰せざるを得なくなる。
迅速に処罰することで間違を犯した者を守る。
早期発見。早ければ早いほどいい。
早いほど、軽くて済む。
長引かせると、深刻でない事も、深刻にしてしまう。
ダラダラと長引かせれば森友・加計問題みたいに傷口を広げるだけだ。
挙げ句、周囲に犠牲者が出る。
結果的に際限なく処罰し続ける事になる。
突き詰めると、最初に自分がいい子になろうとして、逃げた事によることが多い。
逆の立場で考えてみればわかる。
周囲の人間はすでに周知していて、誰が悪いか、暗黙の了解がされている時に、個人的に、恩着せがましく注意しても、誰も納得しないし、禍根を後に残すだけ。
お前にとってもいいことないし、間違いを犯し者の信望も取り返せなくなる。
それは、致命的になる。
だから、毅然と処罰するしかない。
仮に、ナイナイに処置したら、それは私刑(リンチ)であり。
処置した者は私党を組もうとしていると見なされる。
このことも注意しろよ。
やりたくない事は、他の人にやらせようとするが、それが間違いの本。厭な事は、自分でやる。
それが、最高責任者の役割。
それが出来なくなったら、
その場を退くしかない。