勉強会をしたいというけど、一体全体何を勉強したいというの。
その動機さえわかっていないじゃあない。
勉強会の目的とか、動機、原点は、勉強会を開きたいと言った一人ひとりにある。
勉強会を開きたいと言いながら、また、賛同しながら、自分の動機や目的を明確にできなかったら、勉強会の意義なんて最初から怪しいよね。
でも、そういう勉強会が結構ある。
なんとなく。なんとなく。皆がやるから。誘われたから。
これは、長い間、学校教育、教室に馴らされた弊害だよね。
興味とか、好奇心が学問の根っこにあるべきなのに、根切りしてしまったから、本来の学習意欲が育たない。育たないどころか、学習意欲そのものが枯れてしまっている。
これでは人は育たない。教育が健全な成長の障害になっている。

なぜ、勉強するのか、その理由を今の学校でちゃんと教えていないと思う。
だから、生徒たちは、勉強する事の意味も意義もわからないまま勉強させられて、卒業していく。

大学卒業間近になってね。
さあ、僕は何を勉強したらいいですかねと聞かれてもね、困るのよ。
でも、そういう人が増えている。
目的もなく勉強してね。
役に立たないとは言わないけれど、正直、始末が悪い。

数学の計算がいい例だけど、唯、計算させるだけなら、それこそ、今なら機械にやらせればいい。
確かに、計算そのものも機械的に解くもの。だけど、計算するのには、計算しなければならない理由がある。ところが、なぜ、計算しなければならないかの理由は、学校では、完全に無視されている。
それではなぜ、計算をするのかの意味も動機も伝わらない。
だから、卒業して数学で役に立つのは九九ぐらいなものになってしまう。
本来、数学を学ぶのは、一人ひとりの生徒が、問題を発掘して、自分なりに解けるようにする事さ。
だから、わざわざ、答えの解っている問題を解かせるのである。
そうなると、数学を学ぶ意義は、問題を解く過程にあるのであって、答えを出す事ではない。
その点をはじめから理解さないと、生徒はいつまでたっても勉強の意義を理解できない。
わけもわからないまま、機械的に計算することが数学だと思い込んでしまう。

だから、いざ、何を勉強するのと聞かれると戸惑う。
それでは、勉強を始める以前の問題でつまずいてしまう。

本当に勉強をしたいなら、勉強会みたいなものを主催するのが効果的なんだけどね。
言い出しっぺになれば、自分の内面の動機を明らかにしなければならないから。
自分の動機を明らかにする事自体が、勉強の始点となるんだよ。
勉強会と言っても、勉強会そのものの意味が解っていないと、最初から空中分解してしまう。
単に集まって、なんとなく、やりたい事を、目的もなく、意味もなく、テンデンバラバラにやっているという感じだな。

本当の勉強会は、問題意識の共有から入るんだよ。
まず、何を自分たちは問題としているのか。
だから、根源に自分がないとね。
問題を感じるのは、自分なんだから。
興味を持つのも、好奇心を持つのも自分で。
それがなくなったら、勉強意欲なんて最初から沸くはずがない。
一緒に勉強する仲間一人ひとりが、何を問題としているかを確認して、問題設定をしっかりしなければ続かない。一緒にやる人が厭になって一人もいなくなってしまう。
学校は、設問が最初からされていて答えがハッキリしている。
だから、皆は、ただ問題を解くだけだと錯覚しているけどね。

最近の学校の数学は、答えに偏りすぎている。西洋文明が他の文明より抜きんでたのは、正しさの基準を数学においた事にある。
文字より先に数字が表れた事を考えればわかる。
数字は普遍的であると同時に、一人ひとりが、問題を解くところに意義がある。
答えばかりを問題にして採点し、点数だけで能力を測定する。
数学で重要なのは、数式や解き方(論理)、根拠(何に基づいているのか)、問題設定(どのような問題意識・認識、仮説、初期条件)などである。

西洋文明が他の文明より抜きんでたのは、正しさの基準を数学においた事にある。
数学は、普遍的で、論理的。
文字より先に数字が表れた事を考えればわかる。
数字は普遍的であると同時に、一人ひとりが、問題を解くところに意義がある。

現実の世の中はね。
何が問題なのかハッキリしてなくて、正解もない。
それが人生じゃない。最初から結果がわかっているわけじゃあない。
仕事はね。
現実の世界の出来事で、教室の中の出来事ではないからね。

問題を解決するとは、不確かな事をより確かな事にしていく事。

データ分析は、分析ありきでは駄目なんだよ。
まず自分が何したいのか。
分析結果を求めている対象、エンドユーザーは誰か。
その人が何を求めているのか。
これが要件定義だね。
ユーザーが明確になって目的もハッキリする。
だから、要件定義が出来なければ分析は着手できない。
これが原則。

そして、目的によって次に手段を選ぶ。
手段が先ではない。美味しい物を食べたいとか、作ってあげたいと思うから料理の技術を学ぶのであって、料理の技術を学んだから料理をするわけではない。
誰に食べさせたいのか、自分が食べたいのか、好きな人に食べさせたいのか、わからないようでは料理の技術なんて学びようがない。

原点は、自分の興味や好奇心、願望だよね。自分がない人間が向学心なんて持ちようがない。

統計は結果、手段であって目的にはならない。
だから、いきなり、統計学なんて勉強しようとするから訳が分からなくなる。
その結果、意味もなく正規分布なんて言い出す。正規分布ありきじゃない。正規分布なんかを原理なんてしたら統計学は理解できない。
正規分布は基準の一種に過ぎない。

データ分析の目的って、ユーザーがデータをどのような局面で活用するかにかかっているんだよ。
局面というのは、例えば、医者が患者を診察する局面とか、治療する局面とかね。
販売員が、市場を特定する局面とか。商品を企画する局面とか。同じ営業だって管理する局面と販売する局面は違ってくる。売る商品によっても違ってくる。
人事が異動計画を立てる局面とか、考課する局面とかね。
財務が資金を調達しようとする局面。金融資産を運用しようとしている局面とか。
経理が、資金繰りをする局面。資金計画を立てる局面という具合、分析を活用する為にデータを分析するのだから、どんな局面で、どの様にデータを活用しようとしているかが、わからなければデータ分析なんて意味がない。
ただ、局面は、部分だから、その背後にある全体像を把握しておく必要がある。
だから、データ分析において初期設定が重要となる。
先ず、自分が何を対象としているのか。つまり、テータの素になるのは何かを見極めもしないで、いきなり、数式を当てはめて解析しようとなんてするから無謀なんだよ。

まず何が知りたいか。
誰に、どの様に、どんな商品を売りたいのかを知りたいのか。
それがわからなければ目的は明確にならない。
目的は何か。
それがわからなければ、何を、誰と勉強したらいいのかもわからない。
学位論文を書く事なのか。それとも、経営に役立てる為の分析なのか。
経営者に向けた分析なのか。
現場の営業員向けなのか。
経理の事務員の為なのか。
管理職が管理をする為のものなのか。
営業員に役立つ情報を営業員が理解できるように提供する事なのか。
管理者が営業員を管理する為の分析なのか。
スタッフが企画を立てるための分析なのか。
ウェブを活用する為の分析なのか。
それによって、分析の手段も違ってくる。
学ぶべき事も違てくる。

自分で、自分一人で問題を解く事だけが目的なのではなく。
問題を解かせる、あるいは、皆で問題を解くことが目的である場合をある。

ナイフとフォーク、ありは、箸を使うのは、何を食べるかによって定まる。
むろん、とらわれる事はないが、箸を使うために料理があるわけではない。

誰の為に、何の目的で料理を習うの。
家族の為に美味しい物を作りたくて料理を作るの。
自分が食べたいものを作るために料理を習うの。
中華料理屋を開くために料理を習うの。
居酒屋を開くために料理を学ぶの。
高級フランス料理店を開くのが夢だから、料理を習うの。

今日の夕食をどうするかを知りたくて分析をするの。
お客様の好みを知るために分析をするの。
利益を上げる為にどうしたらいいのかを分析するの。
それ次第で分析の仕方も対象も全く違ったものになる。

誰に何をさせるのかも違ってくる。
足し算、引き算がわからない者に高度な統計学の素養を求めても意味がないし、かと言って、分析した結果が活用できないのも困る。
当事者一人ひとりに考えてもらわなければならない事もある。
一から十まで、自分一人で分析すればいいというものではない。

営業の為のデータなんて営業員自身が分析できなくてはね。
自分で考えるから役に立つんで、他の人が考えても、意味わからないからね。
そうなるとデータ分析を特定の分析家がやっただけでは何の役にも立たない。
要は、データ分析の結果を誰が、どの様に、どこで活用するかが重要になる。
精緻な分析をしたところで意味がない。
どうやって結婚相手を探すかは、結婚をしたいと考えている当人が、自分でやらなければ何の意味もない。活用もできない。
当人にその気がなければ、どんな分析も意味がない。

データ分析なんてかっこいいこと言うけど基本は、データ入力なのよ。
単純反復、繰り返し。
経理データなんて、毎日毎日、単純集計している人の勘にはかなわない。
無論、それだけで、高度なデータ分析ができるわけではないけれど、単純反復繰り返しをしなければわからない事がある。
確かに、ハードな技術は進化したが、それによって失われた事も多くあることを忘れてはならない。
AIを怖れる人がいるが、違う意味でも怖いのは、AI化されることによって見えなくなる事があるという点である。
AI化されることによって見えなくなったり、失われたら、どれほどAIが進んでも取り返せなくなるのである。
会計機が進化する事で複式簿記の本質がわからなくなるのが好例である。
会計がブラックボックス化してしまう。

根本的な手筈、手順がわからなければ、データ分析の基本は、身につかないし。
データ分析の意味も理解できない。

水に飛び込まなければ水泳は覚えられない。
書物ばかり読んでも、水を怖れていたら水泳は学べない。
だとしたら、最初に学ばなければならないのは、水を怖れない事。

アルゴリズムの問題なんだよ。思考回路のね。ロジックがわからなければデータ分析になんてやりようがない。テクニックの問題ではない。

データ分析の基本は、手順であり、段取り。だから、実際の作業の中でしか身につけられない。だから、俺も勉強になる。

データ分析とかぎらず問題解決を行う際は、初期設定が原点、出発点となる。
初期設定とは、目的や前提条件、お膳立て、問題設定等を言う。
大体、日本の学校では、初期設定を聖域化して生徒に触れさせようともしない。
学校では、問題や答えは、最初から、予め決められている。つまり、初期設定や結果は、予めされ、あるいは、準備されている。
だから、学校生活が長ければ長い程、決められた事しか解決できなくなる。
これは、自己矛盾である。
解決させていないから問題なのであり、最初から答えがわかっているのなら、解決する必要がない。
何故なら、解決されている事だからである。
そんなのは学問ではない。
学問とは、解決されていない課題を解決する事に意義があるからである。

データ分析は、解決しなければならない問題があって、事実がある。その事実を調べて、数値化し、それを、整理して問題化する。それが初期設定なのである。
一番の原点は、問題を問題として認識する事なのである。
問題として、認識できない者は、データを分析などやりようがない。

問題は、当たり前じゃあない、解り切った事と思い込んでいるところの潜んでいる。
だから、厄介なのである。
仕事だって当てり前、解り切った事と馬鹿にしているところに失敗の種が潜んでいる。
真理は、奇蹟とか、超常現象、神秘的の事に隠されているわけではなく。
極々、ありきたりで、日常的な事であって。
奇蹟だって大地が割れたり、死者が生き返るといった事ではなく。
定まった時間にいつものように日が昇る事。

学校があるから勉強をするのではなくて、勉強会をしたいから勉強をするのでなくて。
必要だから、少なくとも、好奇心、興味があるから勉強をする。
根本に、誰が、なぜ、何を必要としているかが大切なので…。
誰も、何も、必要としていないなら無理して勉強なんかする事はない。
親が勉強しろと言ったって当人に勉強する気がないなら何の意味もないし、当人の為にもならない。
必要性というと、学問は、そんな事ないなんて言い出す人いるけど、変だよその人。
無理矢理、勉強させて、金儲けでもしようと思っているんじゃあない。
意味もなく、必要もなく、勉強させたら、勉強なんて、皆、嫌いになるだけだよ。
クイズ番組の為に大学へ行くわけではないからね。
大学に入ってから、何を勉強しにきたかを決めるなんて本末転倒だよ。
先ず、自分に何が必要なのか。
何を求めているのかをハッキリさせる事だね。
そうしないと人生、最初から間違うよ。

勉強会は、勉強会を開こうと決意したところから始まっている。
テーマを決め、仲間に声をかけ、目的や目標を定め、カリュキラムを組んでいく、教科書や講師を選ぶ、全てが勉強。