組織は、指示、命令で動く情報系である。
この世の中には、強制力の働かない社会はない。
強制力のない法は、無効である。
強制力のない法は、法としての効力を発揮しない。
強制力のない法は、単なる訓示である。
強制力を、悪だと決めつける者は、法を否定する者である。
遵法精神を軽んずるものである。法を蔑ろにする者である。
スポーツは、ルールによって成り立っている。
強制力のないルールは、ルールとして機能しない。
強制力を認めない者は、ルールを否定するものであり。
そのような者は、スポーツをやる資格はない。
ルールのないスポーツは、競技ではなく、闘争である。
最後は殺し合いになる。
法による支配、統治を否定されれば、無法な暴力によって法はとって代られる。
法を否定するものは、無法者であり、無法状態を望む者である。
テロリストや侵略者、社会の敵、革命家、犯罪者の様に、社会を根底から覆す事、社会の秩序を破壊する事を望む者である。
強制力を悪だとする意味はそこにある。
つまり、正当的強制力を排除し、新たな強制、自分たちの強制力を、暴力的に押し付け、支配しようとする勢力である。無秩序、無法を状態、革命的状態を望む者である。
即ち、簒奪者である。
強制力が悪いのではなく。
正当性のない強制は悪なのである。
問題は、何に正当性を求めるかである。
国民国家は、立法手続きと司法制度に法の正当性の根拠を置く。
この点を勘違いするとおかしな議論になる。
コロナ対策で、強制は悪い事だから、自主休業を要請するというのは、国家としての正当性を放棄する事につながる。
コロナ対策として、国家が、責任をもって強制する、つまり、法的手段に訴えるとしたなら、正規な手続きを踏まなければならない。
同時に、強制によって経済的な不利益を被る者に対して、被った不利益の程度に応じた保証をする。
それが法治国家が守るべき筋なのである。
社会は、強制的関係の上になりたっており、人は、一人では生きられないからである。
生れたばかりの赤児は、庇護者がいなければ生きられない。
庇護者の意志に従わなければ生きていけない。
人間は、生まれた時から常に、強制力が働いている。
強制は、常軌を逸すると、暴力となる。故に、強制力は、監視し、抑制する必要がある。
しかし、強制そのものを否定するのは、明らかに間違いである。
その間違いを犯しているのが今の学校教育である。
強制力がなくなれば、統制も、規律も失われる。
統制や規律が失われれば、組織は。制御できなくなる。
組織は、自発性だけでは統一の採れた動きはできない。
統制がとれなくなるのである。
組織を統制できない指導者は、軽蔑される。
だから、学校の先生は、生徒に舐められて統制がとれなくなる。
生徒に馬鹿にされる。
組織は、指示・命令によって動く。
指示・命令が通用しなくなると暴力が指示・命令にとって代る事になる。
指示・命令によって組織が動くようにするのが、初期設定である。
仕事にはプロセスがある。そのプロセスを教えるのが年寄りの仕事。
いきなり、結論を求めていると、何も始めらられないうちに時間ばかり失う事になるよ。
人生とは、重い荷を背負って山道を登目ようなものと徳川家康は行っていたけど、何を背負ってどこへ向かっていくのかが決められなければ、一歩も進まないうちに歳をとってしまう。
人に与えられた時間には限りがあるのだ。
その出発点を決めるのが初期設定である。
夫婦の初期設定は、結婚式にある。
そこに結婚式の意義がある。どの民族、どの様な宗教も、結婚式を重視したのは、家族の初期設定が結婚式にあるからである。
意味もなく、結婚式を軽視するように教育している。
だから、家族が崩壊するのである。
指示、命令は、実際に発令し、その指示が履行されてはじめて、発効する。
故に、赴任したら直後に、反論、抵抗の余地のないほど簡単な指示を速やかに出せと躾けられていた。責任ある部署を任せられていながら、三日も指示を出さなかったら、部下は指示に従わなくなるよと、最初は、上司の目の前で指示を出せられた。
力を温存していないと、組織は、いざという時になって、立ち上がれなくなる。
今は、指示、命令そのものを悪だという教育を公式の機関がやっている。
これは、明らかな洗脳である。
兎に角、責任を持たされ、権限を与えられた速やかに指示を出す。
それも簡単な指示である。
宣言のようなものでもいいが、宣言は、実質的な強制力が薄い。
故に、作業を伴う指示を出す。
手っ取り早いのは、指示の確認である。
指示を出して指示の確認をする。
それによって指示・命令系統の回線を開き、指示・命令に実効力を持たせるのである。
これを怠ると組織は起動しなくなる。
予算は、予定でもある。
予算によって、予め定めているのである。
それに至るプロセスが重要なのである。
初期設定とは、セルモニー、式典。
相手国を隷属させるためには、相手国の象徴(シンボル)、式典(セレモニー)を破壊する事とされる。日本人は、それを仕掛けられたのである。
日本人は、シンボルやセレモニーを生理的なレベルでさえ嫌悪するように刷り込まれている。
いい例が、ロシア革命が起こった時、レーニンは、書斎にこもったか、群衆の前に立って演説したか。如何に、情宣活動が重要か、セレモニーが重要かを日本人以外の人達はわかっている。
なぜ、日本人だけがセレモニーやシンボルを蔑ろにするように教育されたのか。
国民国家の統治者は、選挙という手続きに基づいて選ばれ、国会の承認という儀式によって認められ、就任式という式典によって全国民に知ら示される。
それによって権力の正当性が担保されるのである。
導入部分が過ぎたら、次は、いよいよ初期設定である。
初期設定は、以後の工程の土台基盤となる部分で、仕事の成否を握っているといって過言ではない。
初期設定は初動を伴う。設定ということ自体が作業、つまり、動きを伴わないと効力を発揮しない。
だから、初期設定とは、とにかく動く事である。その最初の動きが、基本的に皆の見ている前で指示を出す事なのである。権限を委譲とした場合は、権限を委譲された者が権限を委譲した者の目の前で指示を出す。それで組織をスタンバイ状態にする。
初期設定を、いい加減にすると、計画のみならず、仕事全体が、いい加減になる。
ただ、最初は、いい加減に見えるものである。なぜならば、初期設定そのものに意味がないからである。初期設定で重視されるのは、形である。
我々は、決定が出されたり、指示されたら、とにかく、形を作れと躾けられていた。
これも、形式だと馬鹿にし、軽視するように刷り込まれている。
大体、初期段階は、内容がない。何も決まっていない、何もわからないのがスタートだからである。
だから、最初の決断が必要とされるのである。つまり、「はじめる」の決定であり「始め」の大号令である。
初期設定そのものは無意味である。
無意味だからこそ、人の思惑に囚われずに設定できるし、色付けもできる。
初期段階は、全てが曖昧としていて、ハッキリしていないのが常である。
最初から、結論を求められているわけではない。第一最初から結論を求められても困る。
仕事にいつまでも着手できない人の多くはいきなり結果、結論を出そうとすることに起因する。また、結論を求められていると錯覚する事である。こういう人は、何も始まっていないのに結果を求めたり、何も、わからないのに結論を出そうとする。
最初に変な色を付けると、あとやりにくくなるから。
最初は、無色、何も決めてないほうがいいんだよ。
最初の指示、命令は、「始め。」なのであって
仕事、作業に時間的な幅がり。必ず始点と終点がある。つまり、入り口と出口があるのである。
初期設定段階では、完成度は求められない。初期設定でするのは、枠組みである。
土台すらできていないのである。
まだ何もしていないのに、引っ越しの準備をするような事である。
「観ればわかるだろう。家どころか、整地もしていないのに、引っ越しの準備をする馬鹿がどこにいる。」と怒鳴られた。
今、設計段階なのか、整地段階なのか、土台を作っているのか、柱を立てているのか、見ればわかるだろ。その段階、段階で必要に応じて初期設定を繰り返す。
現場を見ずに、頭だけで組織を動かそう立ってうまくいくか。
しかも、初期の段階は、構想とか、概念とか、目的とか、主旨、方針といった抽象度が高い事項が多い。具体的なものはほとんどない。あるのは、現実である。
原野と手持ち資金ぐらいなのである。
だから、初期設定は形でする。初期設定で求められるのは、枠組みである。
要件定義を当座の目標とする。
ある程度形が決まっていたり、自分の形があれば、当たり前のようにされる。しかし、形がなかったり、自分の形がない人は、初期設定ができない。
切羽詰まって既成事実を積み上げようとする。
そうなると最後まで統制がとれず、やればやれ程バラバラになり、無秩序になっていく。ところが原因がつかめない。意味のない初期設定をいい加減にしたからである。
そういうやり方を学校では教えている。
その結果が、今の日本である。
矢鱈、自主性、自発性を連発する。
自主性、自発性が高価を発揮するのは、基礎ができている場合に限ってである。
基礎ができていなければ、自主性、自発性もありはしない。なぜならば、主体性がないからである。
初期設定の実際は、舞台演出のような仕事によく現れる。
舞台変出の初期設定は、演出家の個性によるところが大きい。
例えば、ラフな形を好む演出家もいる。
そういう、演出家は、あらすじや状況設定だけを決めておいて、実際に舞台稽古等の中で細部を練っていく。キャスティングだけ決めている場合すらある。
初期設定は、形を作る事だが、絶対という形があるわけではない。要するに、枠組みなのであり、実際のところは段階的な組み上げていく。
人間は、姿形にできない状態、目に見えない状態に置かれると不安になる。話だけでなく、目に見える形に置き換える事が大切なのである。実際に作業に置き換える事で、チーム全体を統制していくのである。
初期設定は、段階的に組み立ってられていく。
一回だけでできるものではなく、初期設定そのものに形があり、仕組みがある。
その仕組みの働きを体で覚えていないと、組織は組み上げられない。
どう持っていくかが問われている。
幾つかのイベントと作業を組み合わせる事で初期設定はされる。
初期設定の目的は、チームワークを準備する為に、組織、チームを起動させる事である。
その為には、まず自分が組織の中に入り、所定の位置に自分が据わる事から始まる。次に、スイッチを入れて計器などが正常に作動しているかを確認したうえ、メインエンジンを始動する。
つまり、中心、中核となる部分から段階的にスタンバイ状態にしていくのである。
大きなシステムや機械を起動するのと同じように、組織を起動する為には、一定の手順がある。
何百万人という軍隊でも、百人の会社でも組織を起動する手順の基本の手順は、同じである。
起動の手順の基本は、同じだが前提条件や状況に応じて若干の違いが生じる。
組織は現実である。故に、相対的であり、絶対的な手順は存在しない。
重要なのは前提条件である。
所与の設定、予め決められている手順である。
軍事はアートだと言われる由縁である。
組織を起動させるための手順は、基本的に回線を開く事である。
つまり、指示。命令を通す事にある。
組織は、ネットワークである。情報系である。
今のようにインターネットが発達する以前の方がネットワークは意識されていたのかもしれない。
それは、組織をチームで動かしていたからである。
今は、システムは独りで起動できる。
その為に全体が見えていない。
現在は、組織をネットワークだと考えられない人が増えているように思える。
組織の本質はネットワークである。
組織は、仕組みなのである。
仕組みである組織は、スイッチを入れるのにも手順がある。
組織は段取りよく起動する必要がある。
先ず簡単な指示、命令を繰り返しだす事で、組織をスタンバイ状態にし、いつでも、全体が動きだせる状態にする。
ウォーミングアップをしておく必要がある。
組織は、大きくなればなるほど、急には動きだせなくなるのである。
指示をする事で回線を開くのである。
飛行機は、着陸した瞬間から次のフライトの準備を始める。滑走を初めてから準備をするわけではない。むしろ、滑走が始まったら、全ての準備は終わっていなければならない。
事故の多くは、準備段階に原因が隠されている。飛行機を飛ばすための仕事は、格納庫の中、あるいは、駐機場からスタートラインに至るまでにある。
大体、駐機場から出て、お客様を乗せなければ飛行機は飛ばせないのである。
なのに、飛行機を飛ばす事ばかり考えているような企画が多い。だから、多くの企画は、滑走さえできないのである。
自動車を運転する為には、先ず鍵を開けて車の中に入らなければ始まらない。]
ところが鍵の開け方もわからずに、車の外で大騒ぎをしているような人が多い。
組織は、仕組みなのである。起動、始動しなければ動かない。
先ず、落ち着いて、車を解錠し、ドアを開けて車の中に入り。
座席に座ってシートベルトを締め。
バックミラーを確認して、エンジンをかけなければ、車は、安全に、動かないのである。
それに、運転する以前に、どの様な目的で、どこに行くかもはっきりさせないで運転しても、最初から目的地にはたどり着けない。
どこに向かって走るのか。
運転をする為に肝心なのは、どんな目的でどこに向かって走るのか。
仕事の要は、志であり、使命である。